20

 全く怖くない。そう言ったら嘘になるし、殴られそうになったらどうすればいいか分からない。

 だけど何故か心とは別に頭ではあの時の事を思い出していた。幽霊ビルでイマイチ格好つけられなかった自分の姿。あの時よりは少しぐらいは格好つけられてるだろうか? 

 そんな事をいつの間にか考えていると突然、左頬に感じた強い衝撃。気が付けば顔は横を向かされ、遅れて鼓動に合わせて硬めのボールがぶつかったような痛みが伝わってくる。それと同時に鬼塚さんに少し寄りかかる程に体は顔の衝撃に引っ張られながらふらついた。

 一連の流れがほんの一瞬で過ぎ去り始めて僕は自分に起きた事を理解した。


「ちょっ! 大丈夫?」


 僕は思考に気を取られている間に1発、殴られたらしい。そして鬼塚さんは今、まさにそんな僕を心配そうにしている。


「うん。大丈夫」


 内心ではまだ吃驚してたし頬は普通に痛かったけど、大丈夫と答えられたのは(しかも微笑みを添えて)きっと見栄なんだろう。でもそういう風に振舞う僕が気に入らなかったのか伸びて来た男の手は胸倉を乱暴に掴み引き寄せた。


「女の前だからってあんまイキがってると痛い目見るぞ!」


 さっきよりも低くなったその声は彼の中で芽を出した黒い感情を垣間見せていた。


「もう十分痛いですけどね」


 そんな彼に対し僕は自分でも何故こんなことを言ったのか分からなかった。正直、頬からの痛みに乗ってきた恐怖に心は染まり始め今すぐにでもこんな状況からは逃げ出したかったが、口から出てきたのは揚げ足を取るような相手を苛立たせるような言葉。僕はむしろ状況を悪化させるかもしれないと言い終わってから後悔していた。

 そして案の定、彼の眉間に寄る不機嫌そうな皺。僕はそれに対してどんな顔をすればいいのか分からず、陰から恐怖心が顔を覗かせた表面的で少し複雑な表情を浮かべていた。

 もしかしたらヤバいかも。そう思ったのもつかの間。男が両手でそれぞれの肩を掴むとお腹に感じた頬のよりも重く強い衝撃にほんの数秒だったけど息を止まった。水中にでも潜ってるように息を吸いたいと思ってても肺にあるのは過去の空気だけ。

 その状態のまま膝から崩れ落ちると、片手でお腹を押さえ蹲った。頬の痛みを一時的に忘れさせるには十分な痛みに僕は1人、一緒に苦しさは吐き出せない咳を何度もしながら悶えていた。最初は息が出来ないほどだったけど時間とは偉大で少しずつ何とか耐えられるぐらいに痛みは身を顰め始めた(痛いのに変わりはないけど)。

 僕は依然お腹を押さえつつ何の予告も無しに出て来る咳をしながら立ち上がるが、少しふらついているのが自分でも分かった。人に殴られるのも初めてだというのにセットで膝蹴りも体験するなんて......。こんな体験はしなくてもいいのに。

 もう飽きてどこか行ってくれないだろうか。BGMのように痛みを感じながらそんな期待をしていると、今度は右頬へ最初同様に拳が飛んできた。同時に上半身は後ろへ引っ張られるように倒れそうになるが片足を1歩下げ何とか耐えた。でもそこへ追い打ちの1発が左頬に襲い掛かり僕の体は流石に後方へと倒れ始める。両頬とお腹から全身へ広がる痛み。そしてオマケと言わんばかりに臀部を強打。

 殴られてから倒れるまで傍から見れば瞬きをするほどの出来事だったかもしれないが、僕にはスローモーションのように感じていた。


「だ、大丈夫!?」


 そんなスローモーションの世界から抜け出すと鬼塚さんが真っ先に僕の元へ。よほど心配してくれてるらしい。こんなに慌て動揺した彼女は初めて見た。


「もちろっ、いっつ」


 返事を返そうとしたけど口の中と口角辺りからの突き刺すような痛みがそれを阻んだ。気が付けば口には鉄の味が広がり、痛みに反応し口角へやっていた手には何か(血だとは思うが)液体が付着していた。

 そんな僕を見下ろしていた鬼塚さんの心配そうな双眸。だけど口元はそれとは違う別の感情に染まっていた。

 すると彼女は顔を僕から男たちへ向けた。


「アンタら...」


 それは朝のまだ眠そうな低い声と違い鋭利で乱暴なものだった。それに加え今にも軋むその音が聞こえてきそうな程に握り締められた手。鬼塚さんは今すぐにでも飛び掛かりそうな雰囲気だった。

 僕はそうなる前に彼女の腕に手を伸ばす。細いがやはり吸血鬼と言うべきか少し筋肉を感じる腕を掴むと彼女の視線はもう1度僕の方へ戻って来た。


「僕は大丈夫だから、落ち着いて」

「大丈夫って――血も出てるし。それにあんな奴らアタシ1人で」

「うん。それはそうかもしれないけど......。そんなことしたら鬼塚さんの事がバレちゃうかもしれないじゃん。もしそうなってもう2度と会えなくなるのなんて僕、嫌だよ。だって僕は―――」


 心にずっと存在しててどんどんその大きさが増している2文字の感情を僕は口に出来なかった。今更何を、と自分でも思ったが気恥ずかしさと情けなさで留められた口に想いは堰き止められていた。

 そんな口を噤む僕の生み出した沈黙を埋めるように彼女は言葉を響かせる。


「でも......だからってアンタがそんな風になるなんて」

「それにさ。鬼塚さんの手は折角、綺麗なんだから人を殴ったりしたらもったいないよ。――あとは何だろう......。ここまで来たら最後まで振りでもいいから格好つけさせてよ」


 本当は顔もお腹も痛いし(あと口の中も)起き上がりたくなかったけど、変な意地か、彼女の為か、はたまた男の性ってやつなのか分からない何かにゆっくりと体を動かされた。

 そしてそのまま立ち上がるとまた殴られるんだろうということにどこか憂鬱さを感じたが、彼女の為と思えば仕方ないとさえ思えてくる。

 ――いや、実際は彼女というより自分の為なのかもしれない。吸血鬼である彼女が彼ら3人を最悪殺してしまうんじゃないかって思ってる自分が居て、そんな彼女を(ボコボコにしてしまうのもそうだが)見たくない自分が居て、やっぱり可能性は低いとしても彼女と離れ離れになりたくない自分が居る。

 そして吸血鬼としての良くない一面(力を制御出来きず残酷なところ)を見てしまって鬼塚さんを恐いと思いたくない。彼女に少しでも恐怖を抱いてしまう自分が嫌だ。

 だから僕はこうして立ち上がったのかもしれない。鬼塚さんの為という名の自分のの為に。

 微かに聞こえる鬼塚さんの何か言いたげな声。それを背に受けながら僕の視線は前を向いていた。もし僕が強かったら、なんて今のとこ空想でしかなく意味も無い考えがふと過ぎるが至る所から伝わる痛みは酷く現実的。

 そしてまたもや僕は胸倉を掴まれ人形のように引き寄せられた。


「こんだけやられて1発も殴り返せねーのか? とんだヘタレ野郎だな」


 もし殴り返しでもしたら倍で返すくせに。まぁどのみちそんな勇気も無いから殴れないんだけど。


「俺がその根性叩き直してやるよ」


 男は嫌な笑みを浮かべながら握った拳を振り上げた。そして今まで同様に躊躇なんて微塵も感じず振り下ろされた拳が顔を殴り飛ばす。一瞬、火花が散ったような気がしたがそんな事どうでもいい程に顔は熱く痛みに襲われていた。微かに遠のく意識。顔中、酷く腫れあがっているような感覚で口の中もずっと血の味がする。

 そして男は容赦なくもう一度、拳を振り上げた。思考だけがそれに備える。

 でもその拳が振り下ろされる前に辺りに陽気な音が鳴り響いた。男は胸倉は掴んだまま拳を下げるとポケットへ。

 そしてスマホを通り出し少し眺めると僕の胸倉からも手を離した。


「しんじょう先輩から呼び出しだ。行くぞ」


 どこかめんどくさそうに後ろの仲間に告げると、彼らはまるで子どもが遊び終わった玩具を放置するようにそっぽを向き振り返りもせず行ってしまった。

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