3

「だ、大丈夫!?」


 気が付けば彼女の腕を掴んでいた。幸いにも出血量は少ない。傷が浅いんだろう。

 僕は慌てながらも鞄からポケットティッシュを取り出そうとした。


「大丈夫だから」


 彼女の落ち着いた声の後にガラス片の落ちる音が聞こえた。僕はポケットティッシュを片手に再び彼女の腕へ顔を向ける。視線の先では彼女の親指がその赤い線をなぞり血を拭っていた。

 そんな親指に押し退けられた血の下から顔を出したのは日焼けの足りない肌。あの赤い線の傷は最初から無かったかのように見当たらなかった。


「あれ? でも確かに......」


 僕は自分の目が信用できず錯覚でも見たかのように混乱気味となっていた。

 そんな中、地面に落ちたガラス片と飛び散った血痕へ目をやる。確かにそこには彼女の腕に傷を付けた跡が残っていた。

 やっぱり見間違いや何かマジックの類が行われたわけではないらしい。吸血鬼は人間に比べて傷の治りが早くて浅いものはあっという間に治ってしまうという特性を持っているらしいけど。

 僕は落ち着きを取り戻した頭で冷静になって考えながら彼女へ顔を戻す。

 鬼塚さんは丁度、親指に付いた血を舐め取っていた。スナック菓子を食べた後のように指を舐めるとリップ音にも似た音が響いた。


「これで信じた?」


 彼女の言葉に対して僕は声ではなく1度頷いて返した。

 その所為か僕らの間を静けさが悠々と通り過ぎて行った。

 だけどそれは外の世界だけで僕の中では依然と色々な言葉が飛び交い続ける。本当に彼女が吸血鬼だったという驚愕の事実はもちろんだが、僕自身、吸血鬼を見るのもましてやこうやって対面するのは初めてで、どうしていいか分からなかった。それに人に紛れてるタイプ吸血鬼である彼女がどうして僕にそんなことを言ったのか。それを知ってしまった僕は一体――。


 ―――パンッ!


 色々と考えていると突然、すぐ近くでで大きな音が鳴り響いた。


「わぁっ!」


 反射的に思わず情けない声を出し吃驚してしまった。

 そのことに少し恥ずかしさを覚えながら改めて正面を見てみるとどうやらあの音は彼女が強く両手を叩き合わせた音らしい。なぜそんなことをしたのかは分からないが鬼塚さんは僕の反応を見て楽しそうに笑っていた。


「いや、ごめん。ごめん。そんな驚くとは思ってなかったから」

「急にあんな音出されたら驚くって......」

「ごめんって。でもほら、なんか上の空だったからさ」


 なるほど、どうやら色々と考えすぎて自分の世界に入り込んでしまってたようだ。


「それはごめん」

「いや別にいいけど」


 彼女は言葉の後に思い出したのかふふっと笑った。


「でもこれで分かったでしょ?」


 そしてくるりと体を回転させ背を向けた鬼塚さんはそのまま歩き出し最初に座っていたデスクまで向かった。鞄からペットボトルを取り出すとそのデスクへ飛び乗り―近くまで来て分かったのだがそのデスクは少し高めだった。座った時に文字通り地に足が着かない状態になるぐらいには―腰を下ろす。


「アタシが吸血鬼だってっさ」


 蓋を開けるまでのついでのようにそう言うとペットボトルの液体を口に流し込んだ。薄暗い所為で何を飲んでいるのか分からないが、その液体が赤みを帯びているのが微かに見えた。


「それ......。何飲んでるの?」

「ん? これ?」


 口から離したペットボトルを少し上げて見せた彼女はそのままそれを外からの光で(といってもそれは頼りないものだったが)少しだけ明るい場所へ伸ばす。


「ストレートティー」


 光を浴びたそれはコンビニやスーパーなどでよく見るパッケージだった。


「なに? アタシが飲んでるから血とでも思った?」


 心を見透かされたような一言に思わず顔を逸らしてしまう。


「――少し」

「ふーん。君ってそういう人なんだ」

「えっ? いや、別にそういう――」


 そういうつもりで言った訳じゃない。慌ててそう否定しようと顔を戻すと意地悪な笑みを浮かべる彼女と目が合った。


「そっちこそそういう人だったんだ」


 してやられた恥ずかしさを隠すように―でもちょっとぐらいは仕返ししてやろうって気持ちもあった―少し小さな声で呟いた。


「そんなことも知らないで告白したんだ」


 だが更に返された言葉に綺麗なカウンターを喰らった気分だ。返す言葉が見つからない。どこを探しても。きっとカバンの中もつくえの中も、探しても見つからないんだろう。

 そんな僕が言葉を探している隙を突くように現れた沈黙の中、鬼塚さんはペットボトルを鞄に仕舞っていた。

 そしてその鞄を手に持つとデスクから降り足を進め始める。


「じゃ、そういうことで」


 そう言って横を通り過ぎたがまだ大事なことを聞いてない僕はすぐに振り返った。


「ちょっと待ってよ」


 僕の声に振り返った彼女はまだ何かあるのかといった表情を浮かべていた。


「まだ、その。返事を聞かせてもらってない......んだけど」


 最後にいくにつれフェードアウトするように段々小さくなってしまったのは彼女の答えを聞くのが少し怖かったからなのかもしれない。


「えっ? 話聞いてた? アタシ吸血鬼なんだけど」

「それはもう疑ってないけど、一応」

「なのにまだあれは有効なわけ?」

「まぁそれに関してはまだよく整理できてないけど――でも例え吸血鬼だとしても人間だとしても鬼塚さんは鬼塚さんだと思うし......。だから僕はそれでもやっぱり......」


 僕は顔を覗かせた含羞がんしゅうに言葉を呑み込んだ。

 するとまるで呑み込んだ僕だけの言葉を聞いたかのような間を空け、鬼塚さんが笑いを零した。


「そっか。うん、なるほど。まぁアンタの気持ちは分かったよ。だからそうだなぁ....」


 鬼塚さんは腕を組みその場で考え始めた。表情を見る限りちゃんと真剣に考えてくれてるんだと思う。

 その間僕は、最初と同じように期待と不安が混じり合い早鐘を打つ心臓を感じながらいつくるのか分からない答えを待っていた。まさかあの緊張を2度も味わうことになるなんて。しかも1日で。

 これは僕の体感的な感覚だから正確性には欠けてしまうけど彼女が考え始めてから約2~3分後。


「そうだな、アタシの答えは――」


 その切り出しに僕の背筋は少し伸び若干だが額に汗が滲み始める。

 僕はただただ良い答えを願うばかりだ。


「保留で」

「――えっ?」


 だが彼女の口から出てきたのは視界外から飛んできたような言葉だった。僕はてっきり、はいかいいえで答えてくれると思ってたのに、耳に入って来たのは第3の答え。実に曖昧で濁すような答えだった。

 正直、ズルいとさえ思った。


「正直、その気持ちは嬉しいけど――アタシ全然アンタのこと知らないし、そっちもアタシのこと全然知らないじゃん」


 確かに実際、彼女が吸血鬼であることはついさっき知った(まぁ吸血鬼と人間の外見はほとんど変わらないから分からなくても無理ないんだけど)。だけどそれを除いても僕は鬼塚さんとあまり話をしたこともないし全くと言っていい程に彼女を知らないのは事実。そして逆もまた然り。


「だからもうちょっと互いがどういう人か知ってからでもいいんじゃない? どう?」


 それは断りのようの無い程に正論だった。


「確かにそうかも」

「ならまず今日は――帰る。もう暗いし」


 僕はその言葉で後ろを振り返り外を見る。もはや残光ような夕日の光も夜にのまれつつあった。


「来ないの?」


 鬼塚さんの声で再び顔を戻すと彼女はもう入り口から出ようとしていた。


「別にアタシは平気だけどここ、出るっていうし」


 それが何を意味しているのかは、言葉と彼女の胸の前で力無く俯く両手のジェスチャーで嫌でも分かった。同時に僕の背筋が凍る。


「一緒に行きます」


 何故か敬語になりつつも早足で彼女の待つ出入り口まで向かった。

 そしてお化け屋敷のように不気味なビルを出て駅まで一緒に――そう思っていたけど意外にも早い段階で彼女とは別々の道を進むこととなった。


「じゃっ、アタシはここで」

「うん。――あの......。バイバイ」

「またね」


 スムーズさに見放されたような別れを終えた後、駅まで一緒じゃないことにガッカリとした気持ちを感じながらも、それは仕方ないとそこからは1人足を進めた。

 その途中、今日の出来事を改めて思い出しているとまるで瞬間移動でもしてきたかのようにある疑問が頭に浮かんできて、思わず足が止まる。


「でもなんで鬼塚さんは僕に吸血鬼って教えたんだろう?」


 隠してたのかは分からないけど、ずっと学校の誰にも知られずにいたのに―少なくとも僕の知る限りではそんな噂は聞いたことない―どうして僕にはあっさりと教えてくれたんだろう。僕が告白を取り消す為の嘘だとしたら納得できるけど本当に吸血鬼なら(恐らくそうだと思うけど)わざわざ言うメリットはないと思うけど。それよりかさっさと断った方が良かったんじゃ?

 考えだすと疑問は疑問を呼び僕が疑問符に包囲されるのはあっという間だった。

 だけどそんな包囲網から救い出してくれたのは、考えたところで仕方ないという単純な考え。


「まぁ今はいいか」


 1人そう呟くと僕は止めていた足を動かし駅へ向かった。

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