第13話 美濃國聞書

 午後二時を過ぎた。万歳はにぎやかだった。

 お昼ご飯が身体に行きわたり、昼寝にちょうどいい微睡に意識を持っていかれそうだ。 


 柏酒村役場に近い地域医療センター休日外来で手当てを受け、五針縫われて万歳へ戻った塔矢さんは、しきりに左肩を動かしてみては「いてっ」と口を歪めている。

 医師に「ナイフを抜かなかったのはいい判断でした」と言われたと、少し自慢げだった。傷は深くはないものの、浅くはなくて、当分左手を使わないように言われたらしい。

「ほんとは出血が恐いんじゃなくて、抜いたところから粒化が始まるんじゃないかと怖かったんだ」

 倭文(しず)さんは甲斐甲斐しくはないものの、気を遣っているのがよくわかる。二人の距離感がいい感じだ。

 女将と主人は泊まり客を送り出したり、予約電話と受けたりと忙しい。従業員も動き回っている。

 談話室では山守曽乃さん、つまり富士崎塔矢さんの話を聞こうと、まどかさんと坂野さん、米田さん、武田さんと圭子さん、母、恭輔さん、わたし、そして倭文さんが、談話室のソファへ移動し、椅子を運び、テーブルを動かして、お茶とお菓子などを用意した。

 塔矢さんが話しだす。


 僕が山守曽乃さんを継いだのは十一年前、二八歳のときだった。

 戸籍は富士崎塔矢にまま変わらない。无乃郷の持ち主を継いだということだ。先代は首藤のじいさまだ。

 普段は富士崎塔矢で、そこにいる首藤倭文と暮らしているよ。

 それまでは先代が消えて、というか亡くなってから後継者を決めていたらしい。代々天狗の守り人が継いでいたんだ。

 首藤のじいさまとうちの佐藤家のじいさま、加藤と伊藤と木藤のばあさまたちが話し合って、无乃郷を具体的に終いにすると決めたらしい。

 それまでは終いにしようという話はするけど、話しているうちに自然と終わっていけばいい程度のものでしかなかったんだ。

 首藤のじいさまが天狗に持っていかれてしばらくして、二年か三年後ぐらいだったと思う。

 由子さんから「うちのばあさまが、伊藤加奈江さんの姿をここ二、三年見ていないと言ってるんです。二年と三年じゃ曖昧すぎますよね。でもばあさまは、「いっしょに確認して欲しい」と言ってきたので、申し訳ないけど同行をお願いしたい」と連絡をもらったんだす。

 予想どおり加奈江さんの姿はなかった。

 伊藤さんの庭は雑草が元気で、裏庭は天狗山の森が侵食していた。

 家の中は片づいてはいたけど、何年ぶんかのホコリで全体が灰色をしていた。加奈江さんは消えていました。

 その頃佐藤家の守り人は父だったけど、とっくに天狗に持っていかれていて、天狗の守り人は加藤のばあさまだけになっていた。

 ばあさまは僕に「无乃郷を柏酒村に引き取ってもらえ」と言ったんです。

「塔矢はもう无乃郷に来んでいい」とも言った。

 正直、山守曽乃を継いだものの、大きな荷物を背負い込んだとしか思えなかったから、ばあさまの言葉はありがたかったです。ほっとしました。

 だけど役場が无乃郷を受け取ってくれるとは思えなかったですよ。

 无乃郷に関しては税金を払っていないというか、そもそも税金の支払い請求もこなかったので、まとめて払えと言われたらどうしたものかと、それも恐かったですしね。

 さいわい无乃郷の末裔に弁護士が二人いるんです。二人ともいずれ法律的な問題が持ち上がるだろうと予測して、弁護士になっているんです。

 无乃郷の者は无乃郷から逃げない。ありがたいと思いました。

 その弁護士二人が動いてくれました。

 役場には「无乃郷取り扱い覚え」という古くからの文書があったようです。

 手続きは面倒でしたが、さしたる苦労もなく、もちろん未払いの税金などもなく、无乃郷は役場のものになりました。

 ただ、もし何か祭祀のような事が必要になった場合は、无乃郷の者が引き受けるという約定を役場と五家とで交わしました。

 二年ぐらい前かな、天狗山と夜叉の褥を調査したいという申し入れがあったそうなんです。

 東アジア某国の実業家と菅野史栄のグループでした。

 天狗山は美衣さんが護ってらっしゃったから、夜叉の褥だけならと役場は二年間限定で許可を承諾しました。

 人が消えるのは天狗山だけでしたから。夜叉の褥なら調査程度なら安心だと役場は考えたんでしょう。役場も天狗山で起こる事態の解明のヒントが得られるかもしれないという希望もあったんでしょうね。

 役場の者、とくに地元の職員は天狗山に入るなくらいなら役場を辞めるでしょうからね。

 実業家の資金は潤沢のようで、菅野のグループは五年以上の使用の許可を求めていましたが役場は絶対に許可しませんでした。二人の弁護士が役場を支えてくれました。

 調査という言葉に、役場と菅野のグループに齟齬がありましたね。

 菅野のグループの故意を役場は把握しきれなかった。

 役場の者も天狗山と夜叉の褥への怖れが染みついているので無理もないことです。

 まさか天狗山の森を、一部分とはいえ伐採し、重機をいれ。施設まで作ってしまうなど、考えが及ばないです。

 契約時点でのそんな確認など思いつきもしなかった。ただそういう許可をしていないので、即刻中止処分を出しましたが、遅きに失しました。

 役場にしてみたら、森を伐採するとか、夜叉の褥を掘削して研究所を建てるなど、まったくの埒外、一ミリも想像できない罰当たりなことです。

 怖れを知る者と知らない者はわかり合うことなどないんです。

 まさか菅野が妹を夜叉の褥へ呼びつけるとは思いもしませんでした。妹は何度か夜叉の褥に呼ばれたようですが、応じないように言いはしましたが、どうだったのかな。

 ただ妹自身が気になることがあったようで、三度ほど柏酒村で菅野と会ったようです。

 菅野が夜叉の褥に重機を入れているようだと妹から連絡があり、僕もいっしょに様子を見に行くつもりで万歳へ泊まることにしました。

 それが五月一日のことです。そして三日未明に美衣さんが夢に現れてくれました。僕も妹も動くのが遅かったと後悔しました。

 昨日、妹が守口圭子さんから、「黒野真希さんの同居人、田中恭輔くんがいなくなった。菅野が関わっているようだ。なにか知っていたら教えてほしい」とメールをもらったんです。

 まどかと二人で万歳へ向かう途中、森が伐採されている場所がることに気がついてはいました。気にはなっていたので、連休が終わったら役場へ問い合わせなければと思っていました。

 まさかと思ったものの、こっそり見にいきました。

 奥の方に車が止まっていましたし、人の声も聞こえました。イヤな感じでしたね。見つからないように、注意しながら見に行きました。

 夜叉の褥を見るのは初めてでしたが、一目でわかりました。

 何てことをしたんだ。

 僕も妹も怒りが爆発しそうでした。すぐに慎重になりましたね。怒りにまかせたら何もいいことはない。

 様子をうかがい、翌日の早朝なら何かできるんじゃないかと思いました。

 ただ夜叉の褥を何人もの人がうろつき、何か作業をしていましたね。

「危ないからそこから出ろ」、と言いそうでしたが、止めました。

 夜叉がどういうものか知りませんが、夜叉らしきものはいなかった。僕は夜叉を何らかの妖怪のようなものとして想像してしまったんですね。

 そんなものは見当たらなかった。大丈夫だろうと思えたんです。

 今日、夜明け前に美衣さんが夢に現れました。

 まだ暗かったものの、彼は誰時とでもいうのか、明かりを持たなくてもなんとかなりそうでした。


 夜叉の褥の様子を見て、声をかけるべきだったと自分を責めました。

 建物の外にいた人たちがどういう人たちかわかりませんが、みなどこか身体が崩れ始めているんです。

 夜叉とは何だろう、天狗とは何だろうとわかりもしないことを考えてしまいました。

 妹は菅野を見つけて、すぐに円形の建物へ駆けだしました。

 僕は夜叉の褥の周囲を見ておくべきだと思い、そうしました。


 淡々と話し終えた塔矢さんは、不快だった胃の内容物を吐き出してすっきりしたような、清々しい顔をしている。

 いつの間にか倭文さんが、食堂にある自販機でゼロカロリーコーラ買ってきて、そっと塔矢さんに渡した。塔矢さんの幸せそうな顔がみんなの注目を集めてしまった。

 冷たいコーラが美味しそうだ。男たちがぞろぞろ食堂へ向かった。

 恭輔さんから母はオレンジジュース、わたしはゼロカロリーコーラを受け取った。


 次いで、圭子さんが使いこまれて色濃くなったベージュのトートバッグを床に置いた。

「短い調査報告ですが発表させてください」

「ちょいとゴメンネ」と武田さんがテーブルを乾いたタオルで拭いて、「ここへ飲み物を置かないでね」とニンマリしながら、圭子さんのトートバッグからA4の印刷物を抜き、テーブルへパサリと置いた。

 吹けば飛ぶ数枚のA4用紙は、コピー印刷部分のまわりに何色かのカラーボールペンのメモ書きだらけで、見せてもらっても読み解くのにかなりの気力が要りそうだ。

「一昨日、五月一日ですね。

 真希さんから无乃郷のことを聞きました。天狗山と夜叉の褥についてもです。

 真希さんの迷いを感じました。

 ほんとは話したがってないな、というのはわかってたけど、民話専攻の琴線が震えて止められなかったですね。

 だから気を遣いながら話してくれるように誘導したというか、ぜったい聞きたいという気持ちが先だっちゃって、強引になっちゃったてたかもです。ごめんね」

 そんなことない。

「大丈夫です。わたしはあのとき、无乃郷のことを話したかったんです。とくに圭子さんには聞いて欲しかったです」

「うん、期待通りの返事をありがとう」

 眼を閉じて深呼吸。息を吐き切った圭子さんは眼を開けた。


 次の日の朝、田中くんがいなくなって、気丈に振る舞ってはたけど、真希さんは震えていました。それで私が調べなきゃいけないと思ったの。

 何か取っ掛かりを見つけられるかもしれない。見つけるという意思を持って動いてみよう、と思ったんです。

 まず富士崎さんへメールしました。菅野グループのアドレスはレポートといっしょにもらっていましたから。

 でも取っ掛かりがわからない。

 そこでやっと、なんて無謀な思いつきだったんだろうと、自分をなじりました。でもなじりながら考えました。

 緊急事態なのだから、図書館をあたるようなことはやめよう。だったらどうしたらいいかと途方にくれました。

 夜叉の褥の場所はGPSでわかってたので、その周辺へ行ってみようと思いました。

 真希さんからすっごく危険な場所ということを聞いてたので、无乃郷へは近づかないと決めていました。

 孝高は孝高で、ネットでいろいろ調べているようなので、私は一人で動きました。

 口にするのも禁忌な場所です。おいそれと人に聞けない。たとえば柏酒村でも、无乃郷から離れた場所では、存在すら知らない人が多いんじゃないかと思いました。

 田舎のことです。私が動いて目立ってしまうのは好ましくないですし。

 无乃郷に近い某市へ行ってみることしか思い浮かばなかったです。


 行ってみたら困ったことにコインパーキングが見当たらないんです。有料駐車場が駅前にあるだけでしたね。

 ほんとに行きあたりばったりって感じで、駅前にあった古物商兼民芸品屋さんに入ってみました。

 大学で民話の研究をしている者ですと自己紹介がてら、このあたりに特有の民話とか言い伝えがあったらお聞きしたいとお願いしてみました。録音の許可ももらいましたよ。

 親切にも小一時間お話をしてくださり、店主おすすめの民芸品と私が気に入った民芸品を合計五つ買って、それらの謂れなども聞かせてもらって、つい本来の目的を忘れそうになったことをここに告白します。

 お礼を言いつつ店を出るとき、店主がチラシをくれました。

『このあたりの古本屋の案内だ。古書なんかもけっこう時代物が置いてあるよ。のぞいてみ。いいもんが見つかるかもしれん』

 A4サイズのチラシは手書き地図のカラー印刷で、喫茶店や定食屋などいろいろなお店が載っていて、古本屋は六軒、一時間あれば歩いて回れそうでした。

 日没は六時半ごろのはず、途中でコーヒータイムをとってもゆっくり見て回れます。

 欲しいものばかりでしたがどの古本屋さんも現金決済、同行の諭吉様の人数を考えるとおいそれと手出しできません。個人的にまた来ようと思いました。

 五軒目でした。それまでも民話や伝説、夜話など話がはずんで徒労感はありませんでした。

『天狗と夜叉の話なら江戸初期の物があるよ。いや書かれた年代や作者はわからんけどね。市井の者だろう。最後が寛永の話だから江戸初期の物だと、まぁ私の推測だがね』

 奥から店主が持ち出した桐箱にはいっていたものが、「美濃國聞書」、でした。桐箱は店主が誂えたものでしょう。

 店主は郷土の者が書いた記録なので絶対に手放さないと力んでらっしゃいました。

 さすがに私も傷つけたり破れたりするのが恐くて触れませんでしたが、この指にその感触を記憶させたかったです。

 サイズはB6ぐらいでしょうか。さすがに美濃ですから、美濃判でしょうね。

『写真なら撮らせてやる。必要なところを写してもいい。ただし一枚につき……』

 店主は人差し指を立てました。1に続くゼロは四つ。私は財布が空になってもいいと腹をくくりましたね。

 店主は厚みが一センチほどの和綴本全ページを、ご自分で繰って見せてくださいました。薄い本でしたし、私がちゃんと眼を通せるほどのゆっくりさで、読み落としはなかったと思います。

 残念ながら必要なのは二ページだけでした。念のため前後のページも写して四万円支払いました。

 出費は痛かったですが、店主の好意がありがたかったです。話だけで終わったり、表と裏だけ見せてもらえるだけだったかもしれませんでしたから。


「これです」


 テーブルの上にA4が四枚。念のための二ページを印刷した二枚を下敷きに、主役の二枚が「公開」された。

 中央にいかにもという古びたいわゆるセピア色で、虫喰いありのB六サイズの物が印刷されている。B六のサイズ感がよくわかる。

 わたしもこの時代の美濃和紙の触感を味わってみたい。圭子さんの気持ちがよくわかる。

 けれど美濃國聞書に書かれた文字は、ミミズがのたうつような謎の記号のようで、圭子さんのメモも読みにくいというか読めない。圭子さんは自分のメモをちゃんと読めているのかな。

「だいたいこのあたりからこのへんまでが无乃郷の話です」

 圭子さんはその部分を意訳してプリントアウトしたものを配ってくれた。


 昔 南方の空高くより龍が虹となり降り立ったという

 ひと筋の歪みなき太き紐となり音もなく地に着いた

 虹の龍は尾まで真っ直ぐであった

 尾が地に着くと龍は半月の如き様相となり地を覆った

 そのときあたりは渦巻く風が吹いた

 その郷にあったものは微塵となって地を覆った

 以来そこは何も無き郷 無ノ郷と呼ばれるようになった

 無ノ郷を訪れし者は忽然と消え帰ることはない

 龍は眠り夜叉が住み着き天狗を呼んだと噂する

 天狗が人をさらい夜叉に供物として献上しているのだという

 たけき者 無ノ郷へ入る 

 真白き砂を敷きつめたところに夜叉に喰われた人の躯を見つける

 砂に喰われし様相なり

 男は夜叉の褥を見つけてしまったと叫びながら気が触れたという

 その後 無ノ郷を无乃郷とし寄る辺無き藤原の末裔を守護にあたらせた


 全員が黙って圭子さんの意訳プリントを読んだ。コーラの炭酸がはじける音が聞こえてくるほど静かだった。

 ふっ、と恭輔さんが息を吐いた。

「江戸初期の人が言う昔ってどのあたりなんだろうね。安土桃山? 室町や南北朝、もっと昔かな。守口さんはどう思ったの?」

「言い伝えなら特定できないでしょ。取っ掛かりは『寄る辺無き藤原の末裔』ってところぐらいだけど、うーん。日本史の専門家にあったってみますよ。そのうちに、暇な時にでも」

「圭子の興味の範疇じゃないってか」

 武田さんが茶々をいれた。

「そこまでは言ってない! その前にやる事山積みだもんね。もしかしたら美濃の民話を探していけば、それらしいレア物に出会えるかも」

「これ、いただいてもいいの?」首藤さんが訊く。

「もちろんです。そのためにプリントアウトしてきました」

「僕のお願いなんですが、ここにいる人たち以外には渡さないでいただきたいですし、話さないで欲しいです。

 それでも无乃郷は村に移譲しましたし、ことによったら无乃郷は解放されていろんな研究者がやってくることになるかもしれません。その時がきたら、ここにいない者に話すかどうかは各自のご判断にお任せします」

「塔矢さん、山守曽乃さんのお役、お疲れさまでした。ご苦労なさったでしょう。

 大丈夫ですよ。ここにいるメンバーはその判断を間違えないと思います」

 母はにこりともせずに言った。

 そして数秒後、ふっと笑みを浮かべた。母はやっと安堵できたんだと思った。  続く

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