第12話 褥
走り出して一分もたたないとき、シートベルト未装着音が鳴りだした。
助手席を見ると恭輔さんが全身を震わせ、両腕で自分を抱くように背中を丸めて下を向いている。
「車を止めてくれ。降りる」
恭輔さんの様子はあきらかに大丈夫じゃない。車を左に寄せて停めた。
助手席側は膝丈ぐらいに伸びたヨモギとセイタカアワダチソウがガードレールのように列を作っている。
降りるのを手伝おうととすると、「僕に触るんじゃない」と喘ぎながら言う。
「粒化のはじまりだったら、真希も粒化に巻きこむことになるかもしれない。頼むから離れててくれ」
「それなら余計に恭輔さんのそばにいて一緒に粒になるよ。二人がくっ付いてたら二人で一粒になれるかもしれない」
「……バカ」
恭輔さんの背中に触れると、「うっわっ、ほんと、触んないでくれ」と悲鳴のように言った。
「正座して足が痺れたときみたいな痺れかたなんだ」
確かに、そんなときに誰かに触られたら、わたしは問答無用でぶっ飛ばすかもしれない。
でも足の痺れは血流の異常で神経に異常電流が流れるから、とかなんとか。
恭輔さんの今の状態って良いの悪いの? どうしたらいいの? いやがってもマッサージしていいの?
膝立ちして上半身を丸めているような恭輔さんの横に座って、俯いた顔を両手で上を向かせた。
苦笑いをしているような恭輔さんの顔。彼の眼が私を見つめている。
私は微笑んで、「今朝みたいに私の中に入ってよ」と呟いた。
やっぱり苦笑いをしている。
恭輔さんが顎を私の左肩に乗せた。
「もう大丈夫だと思う。痺れが治ってきて身体の内側が温まってきたような感覚があるんだ。もし僕の身体に粒化した部分があったんだとしたら、血流がめぐって状態を元にもどしたとでも言う感じかな。……真希、ありがとう」
「うん……」
よかった、よかったと囁くように風が渡っていった。
商人宿「万歳」に母がいなかった。
そのかわり、武田さんと圭子さん、坂野さんと米田さんが来ていた。
「由子ちゃん、戻ってないよ。役場へ届けをださなきゃならんし。でもねぇ、役場へ届けを出すってたって連休中だからね。うん、結婚、死亡の窓口は年中無休で開いてるけど担当者がね、一人か二人でしょ。時間くってるかもしれないね。
源治さんが亡くなっていたんなら埋葬しなきゃならんしね。
由子ちゃん、北方寺の葬儀はどうするかな。今日かな、明日かな」
「埋葬するんですか? 母が一人で?」
「そうだろうと思うけど、よく知らないのよね。
无乃郷以外の者は手伝えないし、无乃郷に暮らした者の埋葬は无乃郷でしなきゃいかんし。无乃郷の外へは出せないだよね。私は埋葬の仕方も知らなくて」
万歳の女将、公美ちゃんが无乃郷を向いた。そこには「万歳」と美しい柔らかな書の額装が掛かっている。
女将のご主人もふくめて、みんながわらわら集まってくる。
「塔矢さん、ええっと富士崎さんは夜叉の褥にいた?」
「えっ、えっと、いましたよ」
首藤社長の言葉はどうしたって二人の仲を睦まじいものと確信してしまう。
「えっと、塔矢さんは菅野史栄に左肩のこのあたりを刺されていました。でも果物ナイフだから命に別状はないとご本人が言ってました。
塔矢さんの意識ははっきりしてましたし、動けていました。まどかさんと役場の方の病院へ行きました」
「ありがと。連絡してみる。あ、塔矢さんと私は黒野さんの推測どおりよ」
首藤さんは笑みを浮かべて談話室へ行きソファにすわった。
「二人ともぜんぜんスマホに出ないから心配してたのよ」
圭子さんは不満顔だ。
「スマホに出られる状態じゃなかったよ。僕のスマホは結局行方不明のままだし」
恭輔さんは眠そうに眼を閉じたが、女将がおにぎりを運んでくるとガバッと起きて頬張りはじめた。
母がスマホにでない。
「わたし、无乃郷へ行ってみる」
「僕もいっしょにいくよ」
「俺も行く」「私もいきます」
恭輔さん、武田さん、圭子さんが同時に言った。恭輔さんは指についた飯粒を舐め取り、冷たい緑茶を飲んだ。
「僕はここでまどかを待つことにします」坂野さんが言う。指輪が替わっていた。プラチナ? なのかな。夜叉の褥ではまどかさんが指輪をしてるかどうかなんて、気に留めなかった。やっぱりわたし、余裕がなかったのかな。
「菅野くんは死にましたか?」
米田さんが訊き、わたしはうなずいた。
「そうですか」と言う米田さんの表情からは何も読み取れない。
恭輔さんはいいけれど、武田さんと圭子さんが无乃郷に入っていいんだろうか。
わたしは女将と首藤さんを見た。
「天狗山に近づかなきゃ大丈夫。いいと思うよ」と女将。
談話室のソファにすわった首藤さんも、スマホを左手に右手でオーケーマークをくれる。
軽自動車に大人四人、窮屈そうだ。
昼を迎える空は、雲の配列が柔らかくて「五月っていいなぁ」と感じさせてくれる。
いい風が吹いている。
恭輔さんが運転してくれるので、わたしは助手席の窓を少し開けて空を見る。ほんとうはぼんやり眺めていたいのに、緊張で心ががちがちに縛られている。
武田さんも圭子さんもおしゃべりしない。
この道路をぐるりと左回りすると役場へ通じる。柏酒村を一周している。ここから左回りすると遠回りになるけれど。
左側には田植え前の田んぼが続く。稲刈りしたままの田んぼとレンゲ色の田んぼが入り混ざっている。村が田植え前のレンゲ畑で観光客を迎えたいと広報に載せはじめたのだ。
連休が終わったら、田を耕して水をいれるのだろう。
低い山々が田んぼの風景を区切っているのが里山っぽくて田舎感を盛り上げる。
道路の右側は草地でスイバやエノコログサ、イヌムギ、オシヒバなどの元気がいい。草地にだんだん木が増えていって森になっていく。
よく陽が入る明るい森だ。
「恭輔さん、そろそろ右折だよ」
无乃口へ向かう道に案内板があるわけじゃないので、気をつけないと通り過ぎてしまう。
右折するとすぐに无乃口だ。
森の木々がそこだけ途切れ、その向こうに无乃郷が開けて、赤い鳥居が見える。无乃郷が別天地のように、桃源郷のように見えなくもない場所だ。
そこに風情を感じるか恐れを感じるかは人それぞれの来し方次第。違和感を感じる人だと立ち入る気にならないだろう。
後部座席二人の沈黙は怖れが招く緊張だろうか。
圭子さんはいろいろ調査してわたしが知らない无乃郷を知っているかもしれない。
无乃口を入ると、道は蛸の足のようにくねくねと、五家それぞれのごく小さい集落へ分かれていく。
大叔父の家は天王神社の前を通ってすぐだ。耳をすませば遠くに鳥の声が聞こえる。
「うろうろしたいだろうけど、自由に動かないでくださいね。武田さんと圭子さんが思う以上にここはアブナイ場所です」
「大丈夫、わかってる」
そう言う圭子さんは、どこか怖いもの知らずな武田さんを監督してくれそうで安心だ。
母がリヤカーを押して天王神社の裏へ向かっている。
鳥居の脇に車を停める。
母が気づいてこちらを向いた。
「おかあさん、どこへ行くの?」
「叔父さんを埋葬するの。恭輔さん、よかった、無事だったのね。よかったね、真希。ほんとによかった」
「うん」
恭輔さんは「心配かけました」と頭をさげ、武田孝高さんと守口圭子さんを紹介した。
「埋葬って、おかあさん一人で穴を掘るの?」
「まさか、そんなこと」母が苦笑いする。
「叔父さんを褥に乗せるのよ。天王神社の褥は夜叉の褥とつながっていると昔からいわれてきたけど、どうかな。その方が民話研究の?」
「はい、守口圭子です。真希さんに無理なお願いをしてしまいました」
圭子さんは深く、武田さんはペコリとお辞儀をした。
母は二人をじっと見つめて、ふっと笑みを浮かべた。
「ついてきていいわ。でも私より前へ出ないことと、横へも広がらないこと、うろうろしないことを約束して。勝手なことをして何かあっても助けられないから。それだけここは危険な所だと肝に銘じてね」
母、わたし、圭子さん、武田さん、恭輔さんで縦列になった。
天王神社の森と天狗山の森が重なりあう場所、鳥居の真後ろにあたる位置だ。
周囲の森と変わりないように見えるが、人を森に誘うように一メートルほどの幅で道がある。道といっても、木がはえていないだけの草地で、くるぶしに届かない低い草ばかりがはえている。森がそこだけ低い下草を誘い込んでいるようにも見える。
このあたりもやはり光がよく届く明るい森だ。
褥の入り口を示すように、膝ぐらいの高さの道祖神が二体、道の両側に立っている。
後背を持った浮き彫りがあるが、お地蔵様か仏様なのか神様なのか、長い年月で石が風化していてわからない。
二体の道祖神が門番のように見える。
母が人差し指を唇にあて小さく「しー」と呟き、両手で「これ以上来てはいけない」と合図した。
大叔父さんには薄い掛け布団の上に浴衣がかけられている。顔浴衣に隠れ、掛け布団が身体を隠して見られない。
母一人で大叔父をリヤカーに載せたのかと思うと、申し訳なくなる。わたしが思うより大叔父さんが軽かったらいいけれど。
母とわたしでリヤカーのハンドルを押した。
後ろ板のないリヤカーの底板の端が導祖神様の間を通過すると、リヤカーが自走しはじめた。ハンドルを手放した。
導祖神様を通過して、五メートルほど進んでリヤカーが停まった。
カタンと音がして、底板の向こう端が地面に着いた。
夜叉の褥と同じ白い粒子が霧のように地表から上がってくる。
草の色が薄くなり、透明になり、白い霧の中へ溶け込んだ。
木洩れ陽に粒子がキラキラまたたき輝く。
リヤカーがゆっくり動きだし、底板の向こう端から沈みはじめた。ゆっくりゆっくりリヤカーは進みながら沈んでいった。
リヤカーが沈んでしばらくすると、白い霧は地面に沈んでいき、霧に溶け込んでいた草の緑が何事もなかったかのように戻ってきた。
大叔父さん、さようなら。
五人とも合掌していた。
「天狗にさらわれ、夜叉に献上された人たちの魂を、天王様が呼んでくださると言い伝えがあるのよ」母が言う。
「きっとおばあちゃんも首藤のじいさまも天王様に呼んでもらってるね」
きっと菅野さんも夜叉の褥を見にいった男性も、天狗にさらわれた人たちみんながここにいるんだ。
母が、「急いでここを出ましょう。これで天狗の守り人はいなくなったし、无乃郷は無人になった。何かあるといけない」と焦りを隠さず言った。
わたしの車に恭輔さんが乗り、母の車に武田さんと圭子さんが乗る。運転席は武田さんだ。
「何があってもとにかく无乃口から外へ出て。おたがいに何かあったとしても助けに戻ることはしないのよ」
「はい」
エンジンをかける。母の車が先に走り出した。
ハンドルを握る恭輔さんが小さく舌打ちをしたのをわたしは聞き逃さなかった。
音はしなかった。
キーンと金属質な強い耳鳴りが十秒ほど続き、ドウンと沈み込むような大きな揺れがきた。
「天狗の山か夜叉の褥だな。いや、両方だろう」
顔をしかめながら恭輔さんが言う。
母の車が无乃口を出て道路の向こう側へ停車する。その三秒後にわたしたちも无乃口を出て、母の車の隣へ停めた。
耳鳴りが消えた。
みんな車から出て、无乃口から无乃郷がよく見える場所へ移動した。
ほんとうはさっさと万歳へ戻ったほうがいいのに。无乃郷の外だからって安全だなんていえないのに。
何かが起こる。何が起こるか見たい。見ないわけにはいかない。見ておかなくてはいけない。
母ですら、さっさと万歳へ戻ろう、と言わないのだから。
夜叉の褥は天王神社と天狗山の森に隠れて見えない。
天狗山を覆うように半球体が膨れあがってきた。半球体は大きなシャボン玉のように表面が虹色に渦をまいている。
半球体が天狗山と夜叉の褥をすっぽり覆った。
半球体が渦巻を撚り合わせるように筒状になって上へと伸びる。虹色が回転し続けるので太い撚り糸のように見える。
きれいで不気味な撚り糸だ。
回転する撚り糸状のものはそれ自体の重みに耐えかねるように、大蛇が鎌首をもたげるように弧を描き、夜叉の褥方向へ降りていった。
天王神社の森とそれに連なる天狗山の森に隠れて、太い撚り糸の先端が見えない。
数秒後、あのキーンという金属質の激しい耳鳴りが襲ってきた。
母とわたし、恭輔さんも顔を歪めて耳を塞いでいるが、武田さんと圭子さんは「えっ、どうしたの」とわたしたちを見た。
撚り糸の最後が夜叉の褥の森へ入って見えなくなった。
数秒後、神社の森の向こう、ちょうど夜叉の褥あたりから、虹色の撚り糸が真っすぐ、歪みや弛みなど微塵も見せず定規を当てたように真っ直ぐに立ち上がった。
見上げるほど高く、どんどん高く昇っていく。そして天空へ消えていった。
瞬時に爆風が无乃郷を襲った。
森を大きく揺らし、大叔父の家を壊し、下草を薙いだ。无乃郷の家々は大叔父の家のようにバラバラになっただろう。
だが爆風は无乃口から外へ吹き出した。五人とも吹き飛ばされ倒れた。田んぼに落ちなかっただけでもありがたかった。
五人ともしばらく倒れたままでいた。第二波はなさそうだと確信して、身体のあちこちの打身をさすり、血が滲む切り傷を見つけ、顔をしかめながら無言で立ち上がった。
无乃郷全体を、森を、爆風が巻き起こした煙と土埃が包んでいく。
わたしたち五人とも言葉を失ったまま煙と土埃が静まっていくのを待った。ひどく長い時間に思われた。
やがて煙は土埃に融合し、无乃郷は木片や木の枝、葉っぱ、石ころ、下草を巻き込んだ土埃にすっぽり覆われている。
土埃は全体が生き物のようにゆっくり揺れ、大きな渦巻になり、ゆったり静止していった。
いつのまにか耳鳴りが消えていた。
土埃が静まって、木片や枝、石ころが落ちる音が聞こえてくる。
土埃が地面におさまって、无乃郷は静かになった。
森の木々は折れたり倒れたりしながら土埃色になっている。風がふくと土埃が舞い、森の葉っぱの土埃が吹かれて緑が戻ってくる。
地面はすっかり土埃色になって、木片や葉っぱの緑やさまざまにちぎれた枝が見える。
赤い鳥居が傷ついた森の木々をいたわるように立っていた。何事も無かったかのように赤く凛と立っていた。 続く
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