第9話 わたしの中の恭輔さん

 ペールグリーンの外壁が優しげなヴェルデ川東は築十年ほどの木造二階建て。一棟四世帯の建物が敷地内に三棟並んでいる。いつも通り平穏で、洗濯物を干している部屋がある。ベランダの鉢植えに水やりをしている人がいる。

 西101が恭輔さんとわたしの住まいだ。特に変わった様子はなさそうだけど。

 けれど部屋に鍵がかかっていなかった。

 ドアを開けると二人のサンダルがてんでに転がっていて、恭輔さん愛用のスニーカーが見当たらない。下駄箱の靴は踵をこちらに向けてちゃんと収まっている。

「ううむ……」武田さんが唸った。「マズイね」

 ダイニングテーブルと椅子がてんでばらばらに動かされ、椅子が一脚ひっくり返っていた。

 食器棚も荒探しされたようで、多くもない食器がテーブルとシンクに出されている。食器の半分ぐらいは割れたり欠けたりしていた。

 寝室と恭輔さんの仕事部屋は雑然としていた。

 ふだんから整理整頓が行き届いてたりはしないけど、そんなの比較にならない様相だ。

 おまけにわたしが〈わたしのアトリエ〉と宣言している居間のすみっこは、水彩絵具、アクリル、アクリルガッシュに日本画絵具のチューブが床にばらまかれている。絵具の中身を絞り出すようなことはされていない。絵具箱をひっくり返しただけのようだ。

 岩絵具と顔彩はそのままいつも通りだった。

 圭子さんは台所や押し入れの中を見てまわってくれる。

「田中くんってラップトップパソコン持ってたよね。見当たらないよ。外付けHDDが無くなってるけど、SSDは……あ、あるね。ケースに収まったままだ。それにデスクトップのH D Dもそのままだ。シロートな探しかただな。スマホは……」

 武田さんが恭輔さんに電話する。

「呼んでるけど、ん……出ない」とため息をついた。

「田中くんのこの仕事部屋だけでも、部屋中くまなく探したようではないね。探しかたが大雑把だ。データも入り用だっただろうけど、田中くんの頭脳狙いかな」

「真希さん、今日は着替を少し持って出て、実家にいたほうがいいよ。絶対一人でここへ来ないようにね」

 わたしが二泊程度の衣類を準備をする間、二人は風呂場やトイレなども見てくれた。特に異常なし。

「心配なのはわかるけど、くれぐれも一人で動かないで。動くときは必ず俺たちに連絡してよ」

「どのタイミングで警察に届けを出すのがいいか、判断できないです。でも今日一日は恭輔さんへ三十分ごとに電話して、恭輔さんの応答がなかったら、両親の相談して、明日の早朝に无乃郷へ行きます。警察はその後がいいんじゃないかと思うんですけど」

 武田さんと圭子さんが顔を見合わせ、武田さんが腕組みをした。

「そうだね。俺はそれでいいと思う」

「賛成。私は、これは菅野さんのたくらみだと、そうとしか考えられなくなっちゃった」

 そう言う圭子さんに笑顔はない。

「同感です。特に潤沢な資金というのが気になります。わたしは祖母の言いつけを守って、七年間一度も无乃郷へ行かなかったのは間違いだったとしか思えなくなっちゃって……」

「そういう後悔に執われない! 発想が貧弱になるし、視野が狭くなるからね。

 黒野真希、しっかりしなさい。

 由子さんは毎月无乃郷へ行ってたんでしょ。それなら真希さんが行っても結果は同じだと思うよ。由子さんのほうが无乃郷に詳しいわけだし」

 喝! とばかりに圭子さんが容赦ない強さで背中を叩いた。

 わたしの背筋がピンと伸びた。

「无乃郷へは私たちもいくわ。もちろん由子さんの許可をもらってからね」

 圭子さんが『有無を言わせない』という意思を込めて言う。武田さんも大きくうなずいた。

 食器や絵具、床に散らかった本、恭輔さんの専門書、メモ類紙類を片付けておきたい。でもそれは帰ってからにしよう。

 武田さんと圭子さんは反対したけど、わたしは自分の車を使うことにした。

「実家へ直行しないこと。うーんと遠回りすること」

「それとね、真希さん。何かしなけりゃと思うだろうけど、今日一日は何度か田中くんのスマホに電話しながら実家にいてほしいんだ。約束して。

 僕と圭子は調べられるだけ調べてみる」

 二人にくどいほど言われながら、わたしはヴェルデ川東西101号室に鍵を掛け実家へ向かった。


 ほどなく武田さんから、『田中くんのスマホは无乃郷にある』とメールが来た。


 翌日、五月三日。祖母が夢に訪れたのは眠れない夜の未明だった。

 わたしは母と无乃郷へ向かった。大叔父も亡くなっていた。

 母は大叔父と祖母の役所の手続きと北方寺での葬儀とで忙しい。

 わたしは一人で天狗山の祖母の家へ向かった。


 祖母の家で、わたしは強い眠気に襲われた。いくら朝が早かったといっても、薬でも飲まされたかのように朦朧とする。薬など飲んでないし、飲まされていない。

 こんな眠気って、おかしい。

 眠らないように、懸命に起きていようとした。

 眩しい。けれど眼を開けているのか、閉じたままなのかわからない。

玄関横の縁台へ腰かけた。


 玄関に立つ祖母に、「いっしょに座って」と手招きした。

 だけど祖母はわたしに「起きろ」と叫び、必死にわたしを起こそうとする。

──真希、起きろ。誰か真希を起こしてくれ。早く真希を起こしに来てくれ。誰か

 おばあちゃん──声がでない

 夢か現か、これは夢だけど現だ。なんか矛盾してるし根拠はないけどそう思った。

──立てよ、真希。ここは危ないんだ。立ってくれ

 恭輔さんの声が頭の中で反響している。

 おばあちゃんが恭輔さんを呼んだの? おばあちゃんはどこ?


 恭輔さんはわたしの手首を握り、ウエストに手を回して抱き上げようとする。けれど手首もウエストも恭輔さんの力を感じていない。

 わたしを起こそうとする恭輔さんの焦りをはっきり感じる。まるで意識を共有しているかのように。

「恭輔さん、どこにいるの? 眩しくて見えないよ」

 わたしは肘でなんとか上半身を持ち上げ、それから縁台に両手をついてよっこらしょっと立ち上がろうとした。

 膝が震えながら身体を支え、何とかお尻と縁台を引き剥がした。

 自分を目覚めさせるために、頭をぶるぶるっと振る。眼を閉じてみる。視界が暗くなった。大丈夫、眼は機能してる、と根拠はないけど安心した。

 恭輔さんがわたしを抱きとめるように両脇から背中へと手を回している。それなのに恭輔さんの体温、匂い、抱きとめてくれる力を感覚として感じられない。

 わたしの身体は頼りなく震えて安定しない。

──真希、まだ寝てる? 起きられないのか。時間がない。真希の身体を借りる。

 そうでもしないと、ここで二人ともアウトだ。

 真希、動けないんだろ。しっかりしてくれ。眼を開けろ。

「立とうとしてるよ。でも足がちゃんと立ってくれない」

 顔を上げると眼の前に恭輔さんの顔がある。ほんの数ミリ前にだ。顔に立体感がないのは近すぎるからだろうか。

 イラつきと心配が混ざりあった恭輔さんの眼差しに、『わたし、ドジですいません』とでもいうような申し訳なさに捕われた。同時に、ずっと不安で心配だったのに、急に現れたと思ったらイライラと叱られっぱなしってどういうことと、わたしもイラついてきた。

 何か言い返したい。

 わたしの眼が真ん中に寄った。

 恭輔さんの鼻とわたしの鼻が融合している。

 鼻の位置的に唇が触れあっているはずなのにその感覚はない。なに、これ。状況が理解できない。

 なんてシュールな夢。夢なの?

 ギュッと眼をつむって開けると、祖母の庭から見る无乃郷の風景だった。

 恭輔さんがいない。

 天王神社の森が見える。木々の合間に赤い鳥居が見える。

 大叔父の家の前に母の車とリヤカーが見える。

 母の姿がない。家の中だろうか。母は何をしているだろう。

 自分の意志に関係なく目蓋がまばたきしている。気持ちが悪い。気味が悪い。

 とつぜん恭輔さんの眼が、瞳が、わたしの視野いっぱいになり、恭輔さんの瞳孔に吸い込まれるようにめまいに襲われた。

 まるでメビウスの輪をたどっているかのように、大きく身体が揺れている。揺れているのは眼球だけかもしれない。

 眼を閉じてみる。頭だけが揺れている感覚がある。

 せっかく立ち上がったのに立っていられない。なのに倒れていないのが不思議だ。

 これは錯覚だ。それとも目覚め直前の奇妙な夢だ。違う、わたしは目覚めている。

 わたし……わたし、わたしはいったいどうなってる?

 何度も自分を叱咤してるはずだけど、自分の声が聞こえない。

 どうしたら目覚められる? どうしたら起きられる?

 眼を開ける。

 視界が白一色になった。煙のような「白」が濃く漂う。風の中のように激しく揺らいだと思えば墨流しのような曲線が入り乱れる。酔いそうだ。

 手が勝手にショルダーバッグをつかみ袈裟懸けにした。足が勝手に動いて歩こうとしている。

 わたしがそうしてるわけじゃない。 

──ころぶといけないから、ゆっくり一歩一歩確認しながら歩いて。

 恭輔さんの声が脳内に響き、わたしの足が勝手に従っている。

──左、右、左……一歩一歩足に自分の体重をのせる感じで。

 うまくいかない。うまく歩けない。なぜ?

──余計なことに気をとられるな。大丈夫、真希はちゃんと歩けてるよ。

 わたしの脳内に恭輔さんが語りかける。

 霧が晴れるように視界が戻ってくる。无乃郷の風景にピントが合ってくる。


 ガシャン、ドォン、ドサリ。

 鈍く大きな崩壊と落下が混ざり合う音がした。乾いた音だ。

 土埃とともに埃とカビの臭いに囲まれる。

──振り向くな。とにかくおばあさんの家から離れよう。

 おばあちゃんの家がどうかしたの? 声にならない。

 恭輔さんの指示通りに身体が動いている。

 ハルジオンがコットンパンツを撫でる。オオイヌノフグリを踏んでしまった。

 わたしは操り人形のように一歩一歩たどたどしく歩いた。

 視野の端で隣の家が地面に滑りこむように沈んでいく。

 思わず振り返ると、おばあちゃんの家も沈んでしまったのか屋根だけしか見えない。その屋根も瓦が落ち、割れた板や折れた柱、天井板が重なりあっている。

 わたしは呆然と崩壊した家を見ているのだが、足は勝手に車へ向かって歩いていく。

 涙で視界にベールがかかる。

 天狗山の森が低くなっている。山裾に建つ五家の古い家が見えなくなってしまった。無くなってしまった。

──真希、さっさと車に乗ってくれ。

「恭輔さん、いったいどこにいるの。声だけが聞こえてる」

──エンジンをかけるよ。運転は僕がする。

 わたしの足がブレーキを踏み、指がスタートボタンを押す。エンジンがかかる。足がブレーキを外れアクセルを踏む。

 わたしの意思に関係なく車が動く。すごく気持ちが悪い。

──真希、抵抗しないでよ。赤の他人ならともかく、きみの中にいるのは田中恭輔なんだから、運転を任せてよ。

「えっ? わたしの中にいるの? わたしの中のどこに? 隣にいてよ。助手席にすわって。運転するなら運転席に座ってよ」

──きみの中にいるのに助手席にも運転席にも座れないよ。

 僕の思考をつかさどる脳の一部なのか、思考そのものなのかわからない。そもそも原理がわからないから説明できそうもない。

 とにかく僕は真希の中だ。僕を感じられないかな。

 どう説明したらいいかな。どこから話せばいいかな。

 一日の夜、きみの実家から帰ってドアを開けたとき急に息ができなくなって、気がついたらどこかの医務室のベッドの上だった。部屋にいたのは僕一人だった。

 医務室といっても、ベッドが三台並んでいるだけで、あとはデスクとガラス張りの戸棚があったが、中にあるものが少なすぎて医務室なのかどうかはわからい。

 それからの事は簡潔に話せないよ。

 ただね、僕を呼んだのは真希のおばあさんだと思う。


 ルームミラーを見ても、写っているのは確かにわたしの顔だ。そして恭輔さんがわたしの中にいる。脳内にいる? しかもおばあちゃんが恭輔さんを呼んだ。

 そうだ。たしかにさっきおばあちゃんが助けを呼んでいた。わたしを起こしてくれと、呼んでいた。

──うん、そうだよ。僕はおばあさんの声を聞いたわけじゃない。だけど強い意志に取り込まれるように、気がつくと真希の中にいた。

 いいかい、いま僕は真希の表層思考を読んでる。真希の身体をコントロールしながら運転してる。考えるのは後にして、きみの意思を僕にゆだねてほしい。

「わたしの思考を読んでいるの?」

──読んでいるというより同期しているんだと思う。真希が僕をすごく好きでいてくれることがわかって嬉しいよ。

 車をとめ、コンソールボックスを開けてティッシュを三枚重ねて涙をふき、グズグズになった鼻をかんだ。

──すっきりした? 

 車がスタートした。このまま走っていくと夜叉の褥だ。  続く

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