第10話 夜叉の褥

 ダッシュボードに貼りつけてある六センチほどの錫杖の遊環がシャクシャクと小さく鳴った。北方寺の住職が「魔除になるからね」と下さったものだ。天狗も夜叉も避けてくれますように。

 首藤のじいさまの家の前を通り、天狗山への入り口も通過した。

 バックミラーとルームミラーに、天狗の守り人五軒の家を見ることはできない。祖母のやじいさまの家もみんな沈んだ。

 森の木々が不自然に揺れている。

 緩い坂道を登る。天狗山の森の木々の新緑を近く感じる。

 そして緩い緩い下り坂。

 恭輔さんがコントロールする自分の身体に慣れてきた。恭輔さんのほうが運転が上手いのだからと安心もしている。

──医務室で目覚めたとき首筋に違和感があったから、帰宅したとき絞め技のようなものをかけられたんじゃないかと思っている。

 憶えているのは菅野がいて、男が複数。鍵を開けてドアを開けたとき、部屋へなだれ込んだんだ。

 一瞬だったから人数はわからない。話し言葉が日本語じゃなかった。僕には特定できない言語だった。東アジア系とでもいうような雰囲気はした。

 意識が戻ったときは医務室のような部屋に寝かされていて僕一人だったけど、ドアの向こうはガヤガヤしていて叫び声も聞こえていた。

 外へ出るとそこは研究室のようだが、でっかいサーバーがあるわりには周辺機器が寂しすぎて、研究室として機能してないんじゃないかと感じた。

 そこには女性が一人と、男性が二人いるだけだった。

 騒ぎは外から聞こえていた。

 女性が僕に気がついて、『富士崎まどかといいます。菅野がご迷惑をおかけしたようで、申し訳ありません。私の力不足で菅野を止めることができなくて……体調はどうですか? 気分が悪かったり、どこか痛いところはないですか? 今は外へ出ないほうがいいです』とほかにもいろいろ聞いてくれて親切だった。

「まどかさんがいたんですね。菅野さんとずっといっしょだったのかな。それとも菅野さんに呼びつけられたとか。

 男性二人は坂野さんと米田さんじゃなかった?」

──坂野さんと米田さんて、確か菅野グループの? 七年前に真希が会った人たちだね。

 男二人は日本人じゃなかったと思う。だから坂野さんと米田さんじゃないよ。

 富士崎さんはあからさまに彼らを避けているようだったし、彼らは僕をにらみつけはするけど友好的なところは微塵もなかった。

 デジタル時計の5/02、17:57の表示を見てびっくりしたよ。僕は二〇時間ぐらい気を失ってたことになる。

 その研究室みたいな部屋はそんなに広くなくて楕円形のような形で、窓がなかった。

 何台かあるらしい監視カメラの映像で外の様子がよくわかった。モニターも十台以上あったからね。

 だけどそこに見える映像は現実離れしていた。 

 真希が話してくれた夜叉の褥を見てきた男の話の、その前段階のようだった。

 膝をついて両手を見ている男の両手指が崩壊しているんだ。

 男の悲鳴が聞こえてくるんだけど、どうしようもなくて男はただ手を見つめて悲鳴をあげるだけなんだ。ゆっくり崩れていってるんだろう。

 身体的に苦しいとか痛いとか、そういう表情には見えない。茫然と崩壊して無くなっていく身体への恐怖だけを感じているようだった。

 カメラに写っていたのは十人もいなかったと思う。ほかには走ろうとして走れず踏みだした左足が無くなったのか、ズボンの膝から下がふにゃふにゃと畳まれるように左へ倒れていく男もいた。

 膝をついたまま上を向いて叫んでいる男もいた。作業服、ワイシャツにネクタイ、Tシャツにジーンズ、そんな服装の男ばかりだった。

 見ていて怖かったよ。

 ときどきモニター映る女が菅野史栄だろうと当たりをつけた。

 富士崎さんに「ここは夜叉の褥です。わかりますか?」と訊かれた。

「わかります」

「菅野が田中さんは真希さんの恋人だと言ってました。真希さんから天狗山と夜叉の褥のことは聞いてますか」

「詳しく聞いています」

 富士崎さんはほっとした表情になった。

 事情を知らなけりゃ、外の様子は発狂するんじゃないかと思うほど、現実感がなくて気味が悪いものだから、僕が発狂しでもしたら大変だと心配してくれたのかもしれないね。

 僕もモニターが映し出す人たちと同じ状況なのに、肉体的な痛みや苦しさがないから、僕に自覚がないだけなんじゃないかと思えて、ひどく怖かった。

 両手は崩れていない。歩けるから足は無事だ。顔はどうだろう。鏡はどこだ。そんなことを考えていた。

 外から悲鳴や怒号が途切れなく聞こえてくるたびに、僕はなんども自分の手や足を見たよ。さらさらと崩れていってるんじゃないかと不安で、すでに気が狂って叫んでいるんじゃないかと思えてしまうんだ。

 モニターに映る人たちに血がまったく流れていないのが、状況を悪夢にしていた。

 外の声がしっかり聞こえてくるんだから、研究室の壁はさぞかし薄っぺらいんだろうと思うと、僕がああなっていくのは時間の問題だと思うしかないだろ。


「あなた誰! 勝手に入らないで」

 外から女の声が聞こえてすぐ、研究室のドアをギシギシいわせながら開けて、男が入ってきた。日本人だよ。

 男を追ってすぐに女が入ってきた。菅野だとわかった。

 砂がドアの位置まで上がってきていて、外開きのドアの開閉を砂が邪魔をしいた。人一人がやっと通れるほどしか開かないんだ。

 建物が沈んでいくのか、砂が上昇してきているのか、開けたドアの隙間から砂が上がってくる。

 このまま砂の中に閉じこめられるのかと思ったら、絶望的になったよ。砂に触れると身体が崩壊をはじめるらしいのは、夜叉の褥を見てきた男の話で想像がつく。

 富士崎さんが研究室へ入ってきたその男を「にいさん」と呼んだ。

「よかった、まどか。無事そうだな」

 菅野が富士崎兄さんに飛びかかろうとしたが、お兄さんに椅子で反撃されて床に倒れた。すぐに起き上がれないようなので富士崎さんが菅野のそばへ行って様子をみた。

「なんともないようよ。血は出ていない。たんこぶができるかもしれないけど」

 部屋にいた二人の男は急いでドアを閉めようとしていた。だが砂がドアが閉じるのを邪魔して、隙間に入りこもうとする砂を排除するのに苦労していた。

 ドアが閉まるとすぐ二人の男たちは鍵をかけた。

 閉まったドアを何人かが叩きながら、「入れてくれ」と叫んでいた。

 研究室の中のほうがまだ安全なのだろう。医務室に二十時間以上いただろう僕の身体に変化はなさそうだし。

 外の人たちを中へ入れなければ。

 僕がドアを開けようとしたら、富士崎さんが僕を止めた。

「天井部分にハッチがあるんです。外の研究員や施設管理のみんなも知ってる。この建物がもう少し沈んだら上に登れる。そしたらハッチから入れます。

 今ドアを開けたら、もう閉まらなくなります。

 ただモニターの様子から、外の人たちはもう助からないでしょう」

「手当てもできませんか」

「粒化がはじまるともうそのまま崩壊していくしかないんです」

「粒化……。気の毒です。で、この建物は沈みつつあるんですね」

「そうです。もうドアを開けられないかもしれません」

「外にいる人たちの粒化は止められない?。止める方法はないんですか」

 富士崎さんが首を振ったのは、方法はないという意味なのか、方法がわからないということなのか。僕は訊くのをやめたよ。

 外にいる人たちが、この研究室とどう関わっている人たちなのかわからないが、なんとかできないのだろうか。

 いや、なんともできないんだ。

 粒化していく。人が細かい粒になりながら崩壊していく。

 だけど粒化の筋道はわからない。理由もわからない。

 怖かった。

 そのとき二人の男に殴りかかられて、それでまた気を失ったらしい。


──気がつくと、誰かに手を引かれている感じがしていた。安心して眼が覚めると真希の中にいた。驚きすぎてパニくるとこだった。

『大丈夫だ。この子がなんとかする。夜叉の褥へ戻りなさい。この子を頼みますよ』

 優しい声が聞こえて、同時に家がひどく軋んでいるのがわかった。

 それであわてて真希を起こしたんだ。

「あのとき、夢なのか現実なのかわからない状態で、おばあちゃんが『起きろ、起きろ』ってわたしを一所懸命起こそうとしてた」

──やはり真希のおばあちゃんだったんだね。

 わたしはうなずいた。

 おばあちゃんだ。きっとじいさまもいた。守り人たちみんながいたような気がしてしまう。

 大丈夫。夜叉の褥へ行こう。

 

 二叉路だ。そこを右へ行き、つぎのT字路を左折すれば役場へ行ける、右折するとその先に万歳がある。万歳から无乃口までは近い。

 もしかあさんがまだ万歳に着いていなかったら、すぐに大叔父の家へ戻れる。

「恭輔さん」そこで右へ行ないとその先は夜叉の褥……。

 わたしの心に反応して、右足がブレーキペダルを踏もうとしていた。

「恭輔さんの身体を取り戻さなくちゃ。まっすぐ進んで。狭くて走りにくいけど、スピードを上げて」

──だけど真希まで……。それに由子さんが心配だろ。

「かあさんなら大丈夫。それより恭輔さんの身体を見つけに行こうよ」

──研究室は沈んでしまったかもしれない。

「沈んでしまったかどうかを確かめにいかなくちゃ。ね、そうしようよ」

 わたしは助手席を見た。うなずく恭輔さんと視線を交わしたい。

 けれど恭輔さんはいない。

 恭輔さんに会いたい。声だけ聞けても寂しさがつのる。顔を見て、心配したんだよと言って抱きしめたい。

 発作のように、恭輔さんがいない現実を受け入れられなくった。

──真希、ありがとう。だけど今は泣くなよ。それから勝手に視線を動かすな。舗装されてない狭い道なんだから、運転に集中しなくては。ここで事故なんか起こせない。


 夜叉の褥への下り坂の傾斜が緩くなってきた。

 常緑樹と落葉樹が混ざりあった森の中を走る。森の中は陽射しが入って明るい。けれど人の手が入らない森の、伸びた枝々が車に当たって乾いた音をたてる。

 恭輔さんが黙ると枝が車に当たる音が騒がしく聞こえて、ルーフやボンネットが傷だらけになっていくのがわかる。

──真希、もし僕のボディが死んでたり、見つからなかったりしたら、このまま僕の意識を真希の中で住まわせてくれるかな。

「いいよ」

 恭輔さんは覚悟している。わたしももう恭輔さんに会えないかもしれないと覚悟した。

 恭輔さんが自分の身体をボディと呼ぶと、恭輔さんのいない現実に追いつかれてしまいそうに感じる。

──おい真希、勝手に僕を消滅させるなよ。僕はとにかく自分の身体に戻ろうと決心したんだ。今、真希の前向きな気持ちが僕を感化したんだ。焦ることにしたんだ。

 ボディ、トルソ、フルレングスその先に全身義体と連想が続いてしまった。

──アニメな連想はやめろ。僕が自分の正気を疑っちまうだろうが。

「あ、ごめん」

──真希の身体を僕の意志に預けて、ちょっと黙ってて。思考だけでわかりあえるはずだし、僕にはそのほうが楽なんだ

 でも、でも、わたしに恭輔さんの気持ちはわからないのに。でも……。

「わかった」

──いい子だね。

 よしよし。頭を撫でられた感覚にドキリとした。

──感じた? なるほどね。神経系にも関与できそうだ。

「それ、一線を越えてる」

──ごめん。


 ルームミラーに、どんどん狭くなってきた道幅が写っている。

 窓の外に熊笹が増えてきて、下草が道を覆ってきた。背の高い草をメキメキと折りながら進む。熊笹が車のボディを擦り続ける。

 わたしの愛車は擦過傷だらけだろう。修理に出すかこのまま乗るかとふと考てしまった。こんなときに考えることじゃないのに。

 森が視界をじゃまして夜叉の褥は見えない。


 突然前方の日あたりがよくなった。熊笹が通せんぼしているその先が開けているようだ。

──突っ切るよ

「うん」

 ピシパシと枝が折れる音、シャッシッと葉っぱが車に触れる音をさせて熊笹の茂みを通過した。

 眼の前が開けた。

 森の、そこだけが空き地になっている。夜叉の褥を囲う森を伐採して、駐車場にしたんだ。南側へ緩い坂になっている。切り株が残っていたり、木を抜いた跡もある。


 罰あたりもの! 天狗の守り人たちの声が聞こえてきそうだ。


 重機の轍の跡。何本かの大きなタイヤ痕。

 昨日今日の跡ではなさそうだが、半年以内、それよりもっと最近の仕業に見える。

 駐車場に白いワンボックスが二台、シルバーメタリックのSUV、クリーム色のワゴンタイプの軽自動車が停まっていた。

 わたしの軽のトールワゴンは出口近く、すぐ出られる場所に駐車した。

 そこから森の外へ出る道は、舗装はしてないけれど少しは広い。

 雨風に消されて薄くなった重機の轍がある。キャタピラの跡も見える。

 森は旺盛で道の両側から道を覆いはじめていた。

 夜叉の褥と駐車場から外へでる道の位置的に、森を出て左へ行けば役場方面、右は万歳へ向かうあの道路だ。

 クリーム色の軽自動車がまどかさんの車で、SUVがお兄さんの車だろうと当たりをつけると胸がキリキリした。

──僕もだよ。怖くてしかたがない。このまま真希の中で……。

「うん。でも身体を取り戻さなくちゃね。行こう」  続く

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