第7話 商人宿「万歳」から无乃郷へ
それから三年後。わたしは二五歳、恭輔さんが三十三歳になる年の、五月一日恭輔さんがいなくなった。
五月三日、祖母が夢に現れて死出の挨拶をしていった。
恭輔さんが行方不明。
わたしは押しつぶされそうな不安を胸に、なんとか自分を奮いたたせようといっぱいいっぱいになった。
母に、无乃郷へは恭輔さんの仲間二人といっしょに行きたいと言った。
事実婚夫婦の武田孝高さんと守口圭子さん、二人には三回会っただけだけれど、恭輔さんが信頼しているのがよくわかるのだ。
母は不本意を遠慮なく表情に表し、「无乃口から中へは入らないと約束するならね」と言った。
さっそく二人に无乃郷と商人宿「万歳」の場所をメールした。
无乃口から中には絶対に入らないこと、とビックリマークを「絶対」の後ろと文末に添えた。念のため母の携帯番号とメールアドレスも。
母もわたしもそれぞれ自分の車を運転して无乃郷へ向かうことにした。
今や自活能力のある娘に、母は過分な高速料金往復を茶封筒に入れて渡してくれた。もちろん躊躇なくありがたくいただいた。
「無理しないんだよ、真希。ヤバイと感じたら何がなんでも无乃郷から逃げるの。約束して」
无乃口を入ったそこは昔っからヤバイ場所だったのだ。ただほんとうに危険なのは天狗山と夜叉のの褥だけだと思うけど、ほんとのほんとのことはわからないから用心しなくては。
わたしはこれ以上はないという決心をこめて「うん」とうなずいた。母の意にそぐわないだろう部分もあるけれど、そこは譲れない。
名古屋から高速を使って二時間、あとは一般道を走る。高速を降りるとすぐに人の姿があまり見られない田舎道や山道ばかりになっていく。
母は日帰りの予定だが、わたしは圭子さんと武田さんが来るかもしれないから、万歳を待ち合わせ場所にしてほしいと言った。
无乃郷の近くの古い昭和な商人宿「万歳」。いつ頃からか口コミで古さを求める宿泊客が来るようで、経営に難はなさそうだ。
万歳の女将は客に无乃郷について訊かれても話すことはない。无乃郷に「入ってはならない」と言うだけだ。
无乃郷は決して入ってはならない。
万歳の玄関を開けると、呼び鈴代わりに麻紐でゆるく結えた何枚かの木っ端がカラカラ鳴った。
「はい、はーい」
藍絣のモンペ姿で、母と同年代ぐらいの女将がタオルを首にかけながら出てきた。
「あらぁ由子ちゃん、久しぶりだねぇ」
「公美ちゃん、元気そうだね。帰省中なの?」
「あはは、出戻りだよー。出戻りは出戻りだけど、ダンナといっしょに出戻ったのよ。万歳を潰せないもん」
「わぁ、そうなの! 公美ちゃん、心強いわ。私これから无乃郷の叔父を訪ねるの。万が一日が暮れたら部屋をお借りしたいんだけど」
「承知しました。今あの里にいるのは源治さんだけだもんね。
美衣さんが亡くなられたようですね。お悔やみ申し上げます。
北方寺の住職には私から連絡しといたほうがいい? じゃ、そうするね。由子ちゃん、くれぐれも気をつけて」
わたしは後から武田さんと守口さんという二人が来る予定だと伝え、頭を下げた。
「了解、了解。大丈夫だよ」
公美さんは真顔で、うんうんとうなずいてくれた。
母とわたしはもう一度頭を下げ、万歳の女将も深々と頭を下げた。奥から女将のご主人も現れて頭を下げてくれる。
母は二度三度と深呼吸をした。
もう大叔父しかいない无乃郷。祖母が亡くなったことを、とっくに知ってる万歳の女将、それを不思議に思わない母。
わたしは母の横で何度目かの頭を下げながら、代々数えきれない人々に踏み固められて黒々とした三和土を見つめていた。
「黒野さん? やっぱり黒野さんだ」
母が階段の上を見ようと首をのばした。わたしは上がり框に手をついて階段を見上げる。
「社長?! 首藤社長!」
「やっぱりあなたも天狗の守り人の末裔なのね。なんとなくそんな気がしてた」
「やっぱりわたし、何か特徴みたいなものがありましたか?」
「心配しなくても大丈夫。ほかの人たちは何も感じないだろうから。たぶん同族の者だけが持つ心情を、こう、キャッチしてしまうんだろうと思ってる。
ちょっとした心の癖みたいなものね。よそ者には隠してる根深い怖れとか、不安なんかをね。ほら、ついよそ者なんてことばを使ってしまうもの。
大丈夫よ。何も心配することはないわよ。身体的にどうの、なんてことはまったくないから、安心しなさい」
わたしは心配事のいくつか降ろすことができた。ちっとも気持ちが軽くはならないけど。
「娘がお世話になってます」
母があわてて首藤社長に挨拶して、「首藤のじいさまの……」と感慨深げに涙ぐんだ。
「孫です。はじめまして。美衣ばあさまが亡くなられたこと、お悔やみ申し上げます」
社長はわたしを見て、「美衣ばあさまはたぶん、天狗の守り人の直系後継に死出の挨拶にいらしてるのよ。私の夢にも来てくださった」と寂しそうに、でも苦笑いをしながら言った。
「私は、五家のじいさまばあさまが『もう終わりにしよう』と言わなければ、次の守り人になったかもしれない。終わりを決めてくれた先代たちには感謝しかないわね」
社長はわたしをハグして、背中をポンポンと叩いた。
「真希さん、気をつけて」
「はい」
素直に返事をしながら、社長は前泊したのかな、と余計なことまで考えていた。
日が暮れる前にはとにかく万歳に戻ること。その時は家で待つ父にも一報入れること。念のため兄にも義姉にも。
母は最後に「絶対によ」と言った。
无乃口を入った。
まだ朝の気配のなかにある无乃郷は静かだ。遠くに鳥の声が聞こえる。風は涼やかだ。
ゴールデンウィーク前半は雨ばかりだったが、五月に入ると晴れた日が続くようになった。今日も晴れだ。
わたしは雨降りの无乃郷を知らない。予定した日に无乃郷が雨なら母は予定を変更していた。大叔父からも雨の連絡がきていた。うちのイエデンは大叔父のためにあるようなものだ。
大叔父の家は今日も静かだ。大叔父の畑の野菜が青々している。里に点在するほかの家々は雑草の元気が目立つ。
佐藤家の畑も使われていない。まどかさんのお兄さんも无乃郷に来なくなったのかな。
今日は大叔父の出迎えがない。
母は笑みのかけらもない表情で戸を開けた。わたしに来るなと手で制止して、三歩ほど進んで立ち止まった。
「叔父さん、こんにちは、由子……」
「かあさん」
「叔父さん、亡くなってる。真希は見なくていい。入っちゃダメ」
「大叔父さんが亡くなってるなら、わたし、ちゃんと手を合わせたい」
母はふっと微笑んだ。二人並んで手を合わせた。
大叔父の遺体は眼を背けるような有様なのかもしれないと不安だったのだけれど、ほんとに眠っているような穏やかさで安らかで、ずっと見ていたいほどだった。
母は大叔父の家から出て、わたしと向き合った。
「かあさん、これからいろいろな手続きをするから、真希は真希の予定通りのことをしてちょうだい。今日は名古屋へ戻れそうもないわね。万歳で待ち合わせしよう。
絶対に無理をしないで。日暮れ前にはかならず万歳にいくのよ。とうさんも邦弘も美登里さんも、真希を待ってんだからね。
真希が恭輔さんを見つけたいのはわかってる。でも冷静に判断するの。いままで天狗山で何があったのか、真希は十分すぎるほど知ってるはず。冷静でいるの。判断をあやまらないでちょうだい。いいわね」
うなずくしかなかった。母は口には出さないけど、恭輔さんは天狗山か夜叉の褥にいるだろうと思っているようだ。
それを確かめるのはわたしの責任、そうだよねおばあちゃん。
祖母の玄関前のたんぽぽは花よりも綿毛のほうが多い。綿毛が低く高く漂っている。わたしの髪にも綿毛がとまっているだろう。
オオイヌノフグリ、カタバミ、ハルジオン、ヒルサキツキミソウとナガミヒナゲシも咲いている。日陰でスミレが花を咲かせている。コロニーを作って咲いているネモフィラは、どこからか飛んできた種が自生したものだろう。
かわいく花咲く雑草を残し、そうでもないものはせっせと抜く。そんな祖母の姿を想像する。なにしろこの時期旺盛なヨモギが祖母の庭に見あたらない。
祖母は園芸苗を植えようとしなかった。ここが美しく花咲く場所であってはならないと思っていたのだ。
天狗山も无乃郷も先は無きものと決めて、高校生でまだこれから先のあるわたしを无乃郷から追い払ったのだから。
祖母の家の玄関を開けるのは七年ぶりだ。さすがに戸は素直に開かなかった。つっかえつっかえ渋々動く。
祖母の遺体はなかった。布団は畳んで部屋のすみにある。祖母が亡くなった姿を留めるような服は見あたらない。服ももう消えたのだろうか。
祖母はどこで死んだ……いや、消えたのだろう。天狗は現れたのだろうか。祖母をさらったのだろうか。
やはり祖母は死期を悟って天狗山へ入ったのだろうか。
祖母がいない祖母の家はなんだか怖い。靴を脱いで上がれない。
台所に傷みはじめた野菜が見える。アルミ鍋におたま杓子が入って蓋が斜めになっている。ちゃぶ台に乾ききった布巾が丁寧に畳んである。
そしては一月から十二月の花札が四枚ずつきれいに並んでいた。
おばあちゃんは一人で花札をしていたのかな。今日、わたしが来ることをわかってて並べておいてくれたのかな。
涙が止まらない。でも天狗を呼んでしまいそうで、おばあちゃん、と怖くて声をだせない。ティッシュで涙を拭き、鼻をかんだ。
わたしは外へでて、縁台をだし、ハンカチで埃をはらってすわった。
息が浅くなる。よけいなものを吸いこんでしまいそうで、怖くて深い呼吸ができない。
ひどく眠い。
眠気を払おうと頭を振ってみる。キンキンと耳鳴りがしている。
なんだろう。天狗が動いているのだろうか。
大叔父さんの家まで戻ったほうがよさそうだ。大叔父さんの家の前にちゃんと母の車がある。戸が開いている。母はどこにいるのだろう。
でも夜叉の褥へ行かなくてはいけない。そこに恭輔さんがいるかもしれない。いないなら、いないことを確かめなければいけない。
車へ戻らなくちゃ。
眠くて、立てない。頭が締めつけられている。でも頭痛はしない。ただ眠い。
頬に縁台を感じる。横になっちゃだめだ。立って、車へ……、早く……。
祖母が玄関に立ってわたしを見ている。
わたしは祖母に『縁台へ座ってよ』と手招きする。
しかし祖母は祖母でわたしに「起きろ」と叫んでいる。必死にわたしを起こそうとしている。
『誰か真希を起してくれ』と助けを呼ぶ。
──だれか、真希を起こしてくれ。誰か真希を起こしに来い。早く。はやく……は……や……
わたしは眠っているのだろうか。
何か起こるのだ。おばあちゃんはそう知らせているんだ。起きろ、わたし。
おばあちゃんが必死に叫んでいる。
真希、起きろ。真希。
真希……
──真希、起きろ
恭輔さん? 恭輔さん! どこにいるの?
眩しくて何も見えない。起きろ、わたし。 続く
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