第6話 无乃郷がつきまとう

 そして四年、わたしは無事大学を卒業して、しかも職を得ることができた。

 広告制作会社、プロダクション・アドテラス。社長は首藤倭文しずさん三六歳。副社長と専務が一人ずつ。

 総務、経理など組織を支える部門は正社員二名と契約社員が三名。クリエイター部門は正社員一名、ウェブも含めて契約社員が二五名。そしてフリー登録クリエイターは○○名、出たり入ったりでよくわからないが三十人以上いるそうだ。

 正社員はアドテラス立ち上げ時からのメンバーだ。クリエイターでも契約社員は固定給なので、さまざまなコネクションができて独立して稼げる目処がつくとフリー登録になっていく。契約社員のままの人がいるし、最初からフリー登録の人もいる。

 基本去るものは追わず。いい腕の持ち主は登録お誘いの声をかける。専属登録ではないので気軽に登録できる。

 わたしはイラストレーターとして二六人目の契約社員になった。

 首藤倭文社長の姓にどうしても首藤のじいさまを思い浮かべてしまう。だが地方都市といっても名古屋は広い。その確率は低いだろうと思った。


 ソメイヨシノが散り果て、重たげに咲いた八重桜の花が終わるころ、藤の花が咲く。


 社会人になって、まわりのクリエーターはプロばかり。

 イラストレーターとしてやっていけるだろうか、わたしに仕事の依頼がくるんだろうか、いわゆる伸びしろがわたしにあるのだろうか、と無駄な先読みばかりして落ち込むことが多くなった。

 でも笑みを絶やさず明るくしていないと声をかけずらい人になってしまう。自分を盛り上げつつ四月が終わっていった。

 日にち薬はわたしによく効いて、手元に仕事が無いときは、自分でテーマを決めて描いていた。

 新人向きと言ってはクライアントに申し訳ないが、小さい仕事をよく振ってもらえるようになっていた。

 桜の花見の余裕なく四月が進んでいったが、バス停の横、小さい公園、どんぐり広場、狭い庭から屋根と歩道を覆うほどの、ソメイヨシノはどこにでもあった。いつの間にか桜が終わった年になった。


 お城の内堀の北側、藤回廊の藤が満開になった。休日に恭輔さんと甘い香りを感じながら内堀を左回りに歩いた。

 耳元で恭輔さんが呟く。

「僕との結婚を考えてくれないか。急がないからゆっくり考えてくれればいいよ。今は僕がそのつもりでいることをわかってくれてるだけでいいから」

 わたしは震えだしてしまった。

 薄着でも汗ばむほどだし、涼しい風が吹いて藤の花見には最高の日和なのに、がたがたと身体が震える。

 天狗山がわたしを見ている。无乃郷にすっと引き込まれていくようにあたりが暗くなっていった。

 忘れていたかった。これまでもふと天狗山と无乃郷が脳裏に浮かぶと、恭輔さんには知られたくないと思ってきた。

 大丈夫。无乃郷にまったく関わりのない父と母はちゃんと結婚している。

 わたしも大丈夫、きっと大丈夫、たぶん大丈夫。わたしのほうが母より天狗の守り人の血は薄いはず。

 おばあちゃんが何と言おうが、わたしよりかあさんのほうが天狗の守り人に近いはず。

 だけど、だけど……。


 ひんやりと水をふくんだハンカチが、ひたいから頬、鼻、顎と顔をなでていく。

 うっすら眼をあけると、心配そうな恭輔さんの顔があった。

 わたしの頭は木製ベンチに腰かけた恭輔さんの太腿にのっている。背中やお尻が痛い。

 上を見ると藤棚があった。藤色の房がたくさん揺れていて、酔うほど甘い香りがしている。

 気を失っていたのだろうか。かすれた声でやっと「ごめんなさい」と言えた。

「よかった。気がついた。十分ぐらい眠ってたよ。あまり気持ちのいいうたた寝じゃなさそうだったけど、救急車を呼ぶほどじゃなさそうだから、そのままここにいた。

 吐き気や頭痛は? 痛いところはない?」

「うん」と言って起き上がろうとしたら、「僕としてはこのままのほうがいいけどね」と笑いながら抱き起こしてくれた。

 恭輔さんが渡してくれた飲みかけのペットボトルから三口ほど水を飲んだ。

「結婚の返事はゆっくりでいいんだよ。いつでもいいんだ。僕は待てるから。ただ僕の気持ちを知っておいてほしいからね。

 でも今日は真希の話を聞きたい。真希のその表情、何かあるんだろ。今までもときどきその表情をみせることがあって、じつは気になってたんだ。

 ちゃんと聞くから、ちゃんと話してくれる?」


 恭輔さんとは今日かぎりで会えなくなるかもしれない。もっと前に話すべきことなのに。

 わたしはひとしきりしゃくりあげながら泣いて、自分のハンカチで顔をふき、ティッシュで鼻をかみ背筋をのばして「このハンカチ、洗って返します」と言った。

「それにはおよばないよ」

 恭輔さんはわたしからハンカチを取りあげ、ピシッと音をたててひと振りしてハンカチをのばし、ベンチの背もたれにかけた。

「真希の話を聞いてるうちにハンカチは乾くだろうさ」

 ふたり同時に笑った。気持ちがほんの少し楽になった。 


 こほん。咳ばらいして話しはじめる。

 无乃郷と天狗山、天狗の守り人や祖母のこと、母のこと、父のこと、兄とわたしのこと、天狗山での出来事を思い出すままに話した。

 うん、うん、という恭輔さんの相槌にうながされて、一時間ほど話しただろうか。

 无乃郷と天狗山のことはわたしの記憶の引き出しが空っぽになるくらい残さずに、憶えていることはすべて話したつもりだ。

 祖母の「もう来んでええ」の言葉と、そのときのわたしの気持ちもちゃんと話した。

 恭輔さんはわたしを抱きよせて、「大丈夫。僕がいっしょにいるから」と照れたように呟いた。

 わたしは何度もうなずいて、また泣いた。

 恭輔さんはわたしが落ちつくのを待っていた。ずっと肩を抱いていてくれた。

「夜叉の褥へ行った男の話をもっと詳しく聞きたいね。夜叉の褥にあったという人体のパーツは血まみれじゃなかったんだよね。で、見ているうちにさらさらと消えていったと」

 うん。

「たとえば手。袖に入っていた腕が消えて、袖は空気に溶けるように薄まっていって消えた?」

「じいさまの言いかただと、袖から出てた手首がさらさら消えて、袖のふくらみがなくなってペタンとなって、袖はゆっくり空気に溶けてったって。

 手が消えてから袖が溶けはじめるまで少し間があったって。

 ただ時間を計るなんて思いつきもしなかったようだから、五分なのか十分なのか見当がつかないみたいだったけど、夜叉の褥には三十分もいなかったはずだと言ってたようです」

 風が吹くと、ひととき藤の甘い香りが薄まってまた香りが漂いはじめる。藤の香りは甘すぎる。

「もしかしたらその男、夜叉の褥に三十分以上いた可能性もあるよね。

 その男、无乃郷や柏酒村周辺の伝説、民話を収集していたかもしれないね。残ってないかな。どこの誰かがわからないし、もう四年以上も前のことだから見つけようがないなぁ。惜しいね。

 それにしても真希のおばあさんの記憶力は並じゃない。すごいよ」

 じいさまとわたしもね、と心の中でつけ加えた。

 でもなんだろう、この違和感。見ていたような、わたしの記憶力。なんだかしっくりこない。

 守り人たちは天狗山の出来事を人づてに、あるいは風の噂を耳にしてやって来るよそ者を、天狗山に入らせないようにしてきた。

 語り部のように。

 だから細部を丁寧に語れるように、無意識かもしれないけど、訓練してきた。わたしはそれを聞いて育ったから、自分の記憶にしちゃってるのかもしれない。

 でも決して文字にして残すことはしなかった。書き残したものが外へもれれば、返ってよそ者を引き寄せることになる。

 消し去りたい天狗山と无乃郷を、存在するもの、存在したものにしてしまう。


 わたしが初めて怒りにまかせて年長者を呼び捨てにしたあの日、今野たちがやってきたあの日。お昼ごはんを食べながら、祖母があの男と呼び、バカタレと呼んだ男の話を詳しく聞かせてくれた。

 食べながら聞く内容じゃなかったけど、不思議に食欲は減退しなかった。わたしが変に図太いだけかもしれないけど。

 その話を恭輔さんが聞いてくる。

「パーツは足が二本、崩れかけた頭が三つ、消えかけの服はちゃんと形が残ってたり、破れた服のかけらは点在してたけど、ゆっくりゆっくり消えていったそうなの。

 指輪とネックレスもあったみたい。ネックレスは太めのチェーンで三分の一ぐらいが消えていて、指輪は部分的に細く薄くなっていて、間もなく消えるだろうとその男性は思ったみたい。

 それらは六人の誰かの遺品だと思って、思わず拾いにいきそうになったけど、夜叉の褥にあるものがあまりにも異様だったから、すんでで思い止まったって」

「三つの頭はどんな感じだったって?」

「え……聞きたいの?」

「ぜひ」 

 ちょっと休憩。少し水をのんで、わたしは深呼吸した。

「頭のひとつは長い髪が透明になりかけてて、顎から下が消えかけてて、もうひとつは右目から弧を描くように左耳の上が残ってる状態で、さらさらと消えてゆくんだけど、頭の残っている部分がさらさらの粒子になって渦を巻きながら地面に吸いこまれていくのが見えたって」

 水をごくごく飲んだ。

「もうひとつは崩れていく頭の断面がその人に正面にあったから、脆くなった人体模型の頭部のようで、それが分解しながらさらさらの粒子になって、やっぱりごく小さいトルネードのように地面に吸いこまれていった」

「真希の話から察すると、その男はずいぶん長く夜叉の褥にいたんだろうね。見ずにいられないかったんだろう。眼が離せなかった。自分ではちょっとの間と感じるほど、惹きつけられてしまったんじゃないだろうか。

 話がグロテスクに聞こえないのは、身体のパーツが血まみれじゃないからだ。血だらけで血塗れだと血の臭いもして気分が悪くなるだろうから。それにしても、血液は最初に粒子になっていったんだろうか」

 恭輔さんが親指と人差し指で顎をつまむように上を向き、うっすら眼をとじている。興味津々で想像にふけっているんだ。

「ぜったい行っちゃダメだよ、恭輔さん。今ね、天狗山には守り人が祖母しかいない。无乃郷の里には大叔父しかいない。

 恭輔さんが山へ入るとき、おばあちゃんと大叔父さんが気がつかなかったら、だれもそのことを知らないし、だからだれも恭輔さんを捜しにいかないんだよ。

 運よく天狗が動いてなかったら帰ってこれるかもしれないけど、天狗に連れていかれちゃったら、誰もそのことを知らないままになっちゃう。怖い場所なんだよ。行かないで。ぜったいに行かないで」

「大丈夫だって。一人では絶対に行かないよ」

「一人ではって行かないって、誰かといっしょに行くつもり?」

 恭輔さんはうなずいて、「真希と由子さんといっしょに行く。それ以外の状況では絶対に行かない。誓うよ」と言った。

「その可能性はゼロです」

 思いきりふくれっ面のわたしの頬をつついて、恭輔さんは笑った。

「まぁちゃんの話を聞いただけで、天狗山の恐ろしさは十二分に伝わったよ。イメージとして一個小隊ぐらいなら一瞬で持っていかれそうだもんな」

 いっこしょうたい、って一個小隊だよね。

 ほんとに一瞬だ。一瞬でわたしの中の天狗山の意味が変わった。小さい天狗山と狭い无乃郷の怖ろしさが増した。二倍にも三倍にも、何倍にも膨れあがった。

 わたしはまじまじと恭輔さんを見つめた。恭輔さんと二人並んで同じものを見ていても、別の世界を見て違う世界を感じているようだ。迷信と科学みたいに。

「僕に見惚れてる? 嬉しいね」

 藤の蜜を求めてクマバチがブンブン羽音をたてていた。


 恭輔さんは无乃郷のことを知っても態度を変えなかったし、わたしの気持ちは恭輔さんにあるのだから、悩むことなどまったくないのに、いっしょに暮らすまで半年ほどぐだぐだあれこれ考えこんだ。

 つまるところ、恭輔さんに何か異変が起こるのが怖いのだ。わたしに何か手立てがあればいいけれど、何もない。もし天狗の影響のもとにあるものならば、救急車を呼ぶわけにはいかない。

 もしかしたら、いつか恭輔さんと无乃郷へ行くしかないかもしれない。もし消えるのならいっしょに消えよう。もしわたしだけ残ってしまったら、祖母のように天狗山の家か大叔父の家で朽ちていこう。わたしはそう覚悟を決めた。

 などと悲壮なことを考えたものの、恭輔さんとの生活は楽しく、あたたかく幸せな時間が流れていくものだった。


 喉元すぎれば熱さを忘れる。熱さの記憶は日々の流れに沈むけれど、決して忘れさせないとばかりに熱い気泡を浮かべてくる。

 でも日々の穏やかさは気泡の熱さを温いものと勘違いさせてしまう。勘違いの澱はゆったり積もり、記憶の怖れとなって不安を漂わせてゆく。

 恭輔さんと暮らす日々は穏やかで、幸せで、でもいつか壊れそうで、いつも不安が同居していた。  続く

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