第2話 招かれざる訪問者
祖母は祖父とよく花札をやっていた。肩を揉む、足のマッサージ、差し入れの菓子、イチゴを一粒、リンゴを剥くのはどっち、などの小さな賭けを楽しんでいた。
小学生のわたしは坊主めくりの相手をしてもらっていた。
祖父が天狗に連れていかれてから、祖母はわたしを相手に「こいこい」をするようになった。
高校三年になって、祖母との花札勝負はわたしの勝ちが多くなってきた。
祖母が手に持った札をパラリと落とした。おばあちゃん、集中力がなくなってきたのかな。
「おばあちゃん、坊主めくりにする?」
だが祖母は「しっ」と言って片膝立ちになった。
さくさくと軽快な足音が近づいている。話し声がきこえる。
「あんたらぁ、天狗山へ入っちゃならんぞ」
東隣の首藤のじいさまの声がする。
「しょうがないなぁ。まぁちゃんはここにいろ」
よっこらしょと立ち上がり、祖母は外へ出た。
玄関から外の様子をうかがうと、やっぱりあの四人だった。
「私たちはこの无乃郷の調査に来てるんです。
天王神社の森に入ってみましたけれど、本殿というか社というか、あるのは鳥居だけで、あとは何もない神社ですね。そのあたりの事も知りたいのですが……」
「それがどうした。氏子でもないに勝手に天王様の森へ入りおって。帰れ、帰れ」
じいさまは邪険に追い払う。
「この山、立ち入り禁止じゃないでしょ。入るな、なんて言う権利があるんですか」
「ある。ここは私有地だ」
「あなたの?」
「いや、わしじゃない。山守曽乃ってお人だ」
「管理を任されてらっしゃるの?」
「山守様からこの山を預かっとる。わしらは守り人として……」
「じゃあ、あなたの言うことに従う必要はないですね。苦情は山守さんから直接私にくださるようお願いします」
のっけから喧嘩ごしだ。
痩せた女性だ。細身と言いづらいほどに痩せている。グレイのキャップを目深にかぶり顔がバイザー隠れて表情が見えない。
髪を一つに結えて、キャップの後ろのアジャスターの隙間から尻尾のように出している。
なにがお願いしますよ。あなた、話しかたが横柄すぎるでしょ。
わたしはキレて暴走しそうだったので、とにかく家の中にいた。気がつくと歯軋りしていた。
家の中の空気が変わっていた。指先がピリピリする。隙間だらけの空気、その隙間に身体が粒になって吸いこまれそうな感覚。キーンと金属質の耳鳴りがして頭が痛くなる。
天狗の気だ。天狗が動いているのだ。
祖母が「いかん、真希。外へ出ろ」と小声で言い、わたしの腕を引っぱった。
「今日はほんとに日が悪い。危なすぎる」
祖母の顔色は青白く、眉間に深いシワを寄せている。
じいさまはキャップをかぶった女をにらみながら黙っていた。深呼吸のようなため息にあきらめの鬱屈が混じり重苦しい。
ほかの三人は気乗りしなさそうに、「菅野さん、帰りましょう」と口々に言う。
「ガイドブックにも天狗山は道に迷いやすくて危険だ、とありますから。星五つの危険度で星五つですよ、ここ。私有地なので許可なく入れないとありますし」
一番背の高い男が言った。
「じゃあ、あなたたちは帰ってください。こんな低くてなだらかな山のどこが星五つの危険度なの。ガイドブックが間違ってるのよ。私一人で行きます。まったく……」
「菅野さん。車は一台しかありませんよ。帰りの足はどうするんですか? やめてください」
「ほんとに、もう。こんな田舎でもタクシーぐらい呼べるでしょ。どうぞおかまいなく。まったく、もう」
背の高い男がむっとした顔で踵を返すとほかの二人も回れ右をした。
菅野の「まったく……」は誰の癇にも障るだろう。イヤなやつの見本だ。
わたしもむっとしている。横柄で傲慢で身勝手で……ほかにも言葉がないのかな。思いつかないのがめちゃくちゃ悔しい。
「菅野さんとやら、ほんとに今日は危ない日だ。天狗が動いとるで」
たまらず祖母が口をはさんだ。
「そういう昔話の核心を調査に来たんです。それであなたがたも迷信から解放されるんだから! 邪魔しないでください。ぜひとも天狗に会いたいですわ」
「あんたなんかの調査で解放されるほど天狗は甘かねえ」
こぶしをぎゅっとにぎっている祖母の両腕が小刻みに震えている。
「おばあちゃんの言うとおりです。今日は天狗が動いています」
「あなた、高校生? 高校生にもなって、まだ迷信を信じてそんなこと言ってるの? お利口さんだこと」
わたしもこぶしをぎゅっとにぎり黙った。たかが高校三年生、でもね、ここのことはアンタよりよく知ってる。
菅野はついてこない三人をにらみつけるとぷいっと背中を見せ、そのまま天狗山の森へ入っていった。
天狗山に入り口はないし道もない。
だが人を呼びこむように、入り口はここですよというように、少しだけ開いた場所がある。獣道よりあいまいな道。木々と下草の隙間のような細道だ。
菅野は誘われるようにその入り口を入った。十歩も歩いて振りかえれば入り口がどこかわからなくなるのに。森が帰り道を隠すのに。
じいさまは祖母に頭を下げ、「わしがついて行きますで。美衣さん、すまんですな。お先にな」と言って菅野の後を追った。
祖母が深々と頭をさげているあいだに、じいさまも森のなかへ入っていった。
残された三人は先に帰るわけにもいかず、祖母の家で菅野さんを待たせてもらいたいと言う。
「この家ん中は天狗の気が入りこんどるもんで、なんか障りがあるといかんから、よそからきた人は入れられん」
祖母は渋い顔だ。
わたしは軒先に置いてある縁台と小さい折り畳みテーブルを出した。滅多に使わないので雨と埃で汚れている。仕方がないので濡れタオルでゴシゴシ拭く。
水ぐらい出さなくちゃ。そうすると、家の中に長く置いてあるグラスを使わないわけにいかない。
よそ者に天狗山に長くあった物を使わせたくはない。天狗の気が染み込んで何か悪さをするんじゃないかと心配だ。
祖母は口癖のようにわたしに聞かせてきた。
母は気に入ったデザインを見つけては祖母のためにグラスを買ってくる。茶箪笥の棚に十個以上並んでいる。母が気に入ったグラスばかりだ。
わたしはその中からなるべく最近買ったものを三つ選んだ。
グラス三つにペットボトルから水を注ぐ。グラスのまわりに水滴が涼しげにつく。
ついでに今日大叔父が持たせてくれた水羊羹を出す。水羊羹のプラカップに小さいスプーンがついている。皿もスプーンも使わずにすむ。
「もらったばかりで冷えてないけど、よかったら……」
祖母は客を歓迎しない。天狗の守り人は皆そうだ。
わたしはグラスに注いだ水をおいしそうに飲む三人を憂鬱な気分で見た。
「ステキなグラスですね」
女性は男たちのグラスも鑑賞するように見た。
母お気に入りのグラスだ。それだけで彼女に好感を持った。
三つのグラスはここ一年以内の買い物だ。気にするほどのことはないと自分に言い聞かせるが、もっと神経質になって気にするべきだとわたしの心が反論する。
三人は菅野を待つという。晴れてじんわり気温が上がっている。なので冷蔵庫からペットボトルを出してきた。
ペットボトルは一週間ほど冷蔵庫に入っていたはずだ。いいだろうか?。井戸水よりは無事だろう。
水羊羹はついさっき大叔父に持たされたものだ。冷蔵庫に五分ほどしか入っていない。こちらは大丈夫だろう。
三人とも水羊羹を二口三口で平らげた。それぞれ、グラスに水を追加する。
祖母は天狗の障りを心配するが、どんな障りがあるのかはわからないのだ。
わたしは背の高い、カメラを持った男にガイドブックを見せてもらった。
小さい記事だけど確かに无乃郷が載っている。天狗山については「危険な場所なので近づかないように」と一行あった。
ガイドブックに写真も地図も載ってないのに、この人たちは探しあてて来た。
祖母にそう伝えると、祖母は小さく舌打ちした。
じいさまは菅野を追っていった。菅野を追って天狗山へ入ったじいさまは戻ってこないだろう。天狗が動いているのだから。
祖母は怒っているのだ。わがまま女がじいさまの残りわずかな寿命を終わらせてしまう。
ずっと自分の死を願ってきたじいさまに、菅野が死出のチャンスを与えてしまった。
祖母は、一人で行くことにしたじいさまにも怒っている。
祖母は、天狗山と无乃郷のこれからの事を祖母に背負わせて、じいさまは一人死を求めて菅野についていったと思っているのだ。
わたしもそう思える。じいさまは勝手だと思った。
祖母とじいさま、どっちが残るか相談していたのだろうか。おばあちゃんは、一人天狗山に残ることを承知したんだろうか。
おばあちゃんが一人になってしまった。 続く
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