第3話 天狗山と夜叉の褥

 祖母はいかにもお年寄りな雰囲気を醸し出して三人に話しかけ、ついでのように根掘り葉掘り聞きいている。

 男二人は背の高い米田くんと坂野くんで大学三年、女は富士崎さんで大学二年だと自己紹介した。

 三人とも大学は別々で、菅野のサークルに入っているという。

 山へ入った菅野史栄は三六歳、文化人類学で博士の学位を持ち、いまは准教授の椅子を狙っているらしい。三人とも菅野を嫌っているようなそぶりをみせる。

「でも、菅野さんの研究は興味深いんです」富士崎さんが呟いた。


 下を向いたまま浮かない表情の三人に、祖母は天狗山の伝説を話しだした。


 この山は、山と呼ぶには高さが足りんただの丘だが、昔っから天狗がいる。

 どれくらい昔だって? そんなもんはわからんワ。

 天狗は女が好きだが男でもかまわないようだ。

 だから女が行方不明になりゃ、天狗にさらわれたといい、男が戻らんと、天狗が連れてったというんだな。

 天狗は手にいれた獲物をなぶり、いたぶり、女ならぞんぶんにもてあそぶ。満足すると、夜叉に献上するんだ。 

 夜叉はそれを褥で心ゆくまで楽しみ、喰らう。


「ま、そんな話だ。天狗山から戻らなかったもんは、いくら待っても帰ってくることはない。事情を知る警察は行方不明届を受けとるだけだ」

 ひたいを指圧しながら、祖母は天狗山の入り口を見つめている。天狗山に獣はいない。鳥もいない。祖母の庭で虫を見たことがない。

 无乃郷の里には虫がいる。鳥が餌をついばむ姿を見ることもある。无乃口近くならネズミやイタチがいたりする。

 鳥の声は遠くに聞こえる。天狗山のまわりの山で啼いている鳥たちだ。

 風が弱くなり陽射しが強くなってきた。

 米田さんが「夜叉の褥という場所があるんですか?」と訊く。

「あるよ。この道をまっすぐいくだけだ」

 祖母は家の前の道を指し、夜叉の褥の方を指さした。じいさまの家と天狗山の入り口を左に見ながら、整備されていない森の道をいく。バイクなら走れるかもしれない。軽自動車もなんとか通れる。

「歩いて、どうかな十五分か二十分ぐらいだな。行くんか?」

「いえ」とんでもないとばかりに米田さんは首を振った。

「どのあたりにあるのか知っておきたいと思っただけです」

「これはさっきのじいさまから聞いた話だが、よそ者が夜叉の褥を見に言ったことがあったんだ。三年前か四年前か、そんぐらい前のこった。

 その男は前々日に、「怪奇現象探索」という研究会のような六人グループが天狗山に入ったはずだと言った。

 じいさまもわしも隣の伊藤加奈江さんも気がつかなんだ。

 六人もの人間が天狗山へ入ったなら、気がつかないはずはない。天狗が動いとるならわかるはずだ。

 その男は、『天狗山には見張りの家が五つあるから、気がつかれないように一人一人静かに入ったはずだ』と言うんだ。

『俺は、天狗山の話は噂じゃなくてホントの事だから、こっそり无乃郷に入ったとしても、天狗山には絶対に入るな。きつくそう言ったんだ。おまえたちに話したことを後悔させないでくれと喚きましたよ』

 その男はしゃべってしまったことを心底後悔していた。軽率だったと自分を責めていた。

 男の祖父母が柏酒(ひゃっき)村の出なんだそうだ。无乃郷を囲んどる村だ。无乃郷は地図には載っとらん。ま、柏酒村の北のはずれにあるわけだが。

 六人グループは日帰りの予定だったんだ。だが次の日にも帰らなんだ。スマホも応答しない。それで何が起こったのか気がついたってことさ。

 自分のおしゃべりな口がどれほどの災いをもたらしたか、後悔と懺悔で初めて天王神社に手を合わせたと言っとった。バカモンが。

 男はまず夜叉の褥に行ったんだ。天狗が献上した六人が、もしかしたら夜叉の褥にいるかもしれん。いたら助けることができるかもしれん、と思ったんだな。

 だが夜叉の褥に六人の姿はなく、手や足、頭、指先、とにかく身体のいろいろな部分が十個以上あったと言う。いつくあるのか十まで数えて、それ以上は数えれなんだと。バカモンが。

 しばらく見とったら、どれもがゆっくりだがさらさらと崩れていくのに気がついて、怖ろしくなって戻ってきたらしい。

 じいさまはそのグループが天狗山に入ったことに気がつけなんだ自分を責めとった。

 加奈江さんはずっと下を向いて聞いとった。そいで、ひとっ言も話さんと家へ入ってしまったんだ」

 祖母はしかめっ面になり、「その男はじいさまに夜叉の褥の話をして、『ちょっと森の中を探してきます』と言って、じいさまが止めるのも聞かずに天狗山へ入ってった。

 じいさまも、男に戻る気はないんだろうと察して追わなんだ。

 結局じいさまはその男が戻ったところを見ておらんと言っていた。

 よそ者が天狗山へ入ると、じいさまは日暮れまで外で帰りを待つことが多いから、申し訳ないことだ。

 その男はとうとう天狗山から出てこなかったんだろうな」

「たとえばじいさまがトイレにいっている間に帰っていったというようなことは……?」

「ないことはないかもしれん。天狗が動いてないこともあるにはあるからな。だがじいさまも私も、あの時、天狗が動いたと感じていたんだ。ひどく頭が痛かった。

 いいか、しっかり憶えとけ。

 どんなことがあっても天狗山には立ち入らんこった。自分の運など信じるな。天狗も夜叉も恐ろしいぞ」

「はい。肝に命じます」米田さんははっきり言った。

「あの男も気の毒だ。六人が行方不明のままなのはあの男の責任じゃない。行ったらいかんという忠告を聞かなんだのがいかんのだ」

 唇をかみ虚空をにらむ米田さんを横目で見て、坂野さんは怖がりな性分を隠しもせずにうなずいた。


「无乃郷の无は無と同じ意味だ。あってはならぬ場所、無き場所なんだ。

 だがこのごろは隠しておくべき場所をそうと知らず見せてしまう。見つけてしまう。早うここを無くさなならんに、どうすりゃいいか誰も知らんのだ」

 途方にくれたような祖母の顔を、米田さんはじっと見つめていた。

「あの」富士崎さんが小さな声をだした。

「じつは私、あの……山王神社で安らいだ気持ちになったんです。何があったとか言うわけじゃなくて、なんというか……」

 富士崎さんは困ったような表情で天狗山の入り口を見た

「どこかへ引きこまれる感じ……」わたしはそう言ってみた。

「そうです。そんな感じです。よく陽が射す明るい森ですね。森に歓迎されてると感じました」

 それきり富士崎さんはうつむいて黙った。

 男二人は首をかしげ、米田さんが「そんな感じはしなかったな」と言う。

「静かで居心地のいい森だったと思うけど。よく茂っているけど鬱蒼感がなくて明るい森だよね」

 そう言う坂野さんに、富士崎さんは嬉しそうな笑みを浮かべた。

「私、ちゃんとお参りできてよかった」

 富士崎さんを見る祖母がなにか問いたげな表情をした。口を開きそうになったが迷うように閉じてしまった。

 わたしは富士崎さんの袖を引き、米田さんと坂野さんから少し離れてもらった。

「富士崎さん、もしかして家族に无乃郷出身の人がいる?」

 富士崎さんは小さくうなずき「祖父と……」

 祖母が富士崎さんとわたしに、あっちへ、と首をすこし横へ向けて目配せした。

「米田くんと坂野くんは菅野と同じ大学なんか?」祖母がまた訊く。

「いえ、僕たちは三人とも別々で…………」

 わたしは富士崎さんの腕にふれて、内緒話が聞こえない程度に離れて、米田さんと坂野さんに背を向けた。

「わたしと同じ? 天狗の守り人の血が濃いの?」

「真希さんはご両親ともに守り人に近いんですか?」

「おばあちゃんが母の母です。父は无乃郷と無縁です」

「そうなの」

 富士崎さんは眼をふせて数秒考えこむような顔をした。

「真希さんは大丈夫ですね。父は婿養子に入って富士崎姓ですが、もとは佐藤です。最後の佐藤の長男なの。母は父の従兄妹、祖母が父の叔母にあたるんです。なんだか近すぎて近親相姦ぎりぎりですよね。

 佐藤の家は昭和の中ごろから分家を无乃郷から遠ざけるために、本家つまり天狗の守り人の家だけで継ないでいこうとしたようなのです。本家が守り人を背負うから、分家は无乃郷を出て自由に暮せばいいって」

 盗み聞きをするように風がとおっていった。

「……近親相姦もしてきたと思います。いまでも兄はよく无乃郷に通っています。ほら、あの家」

 富士崎さんは西の奥の家を指さした。

「連休中こちらへ来てるので、今日もいると思います。兄は……いえ、何でもないです」

 わたしはお兄さんについての続きが訊きたかったけど、訊くと富士崎さんを困らせてしまいそうな気がした。

「たぶんうちも……天狗山の五軒とも、いとこ同志の結婚が珍しくなかったんだろうな。柏酒村の人たちは无乃郷とは距離をとってるし。

 うちの兄、邦弘は一度も无乃郷に来てないの。母と叔母は小さい頃に无乃郷を離れて、叔母はそれから一度も来てないはず。おばあちゃんに来るなって言われてるんだって。

 母とわたしだけ何で天狗山の家へ出入りできるんだろうとよく思ってる。

 なんというか、守り人の家は天狗山の裾にあるけど、天狗山じゃないからわたしも出入りできるのかな。

 だけど天狗山に近すぎるから、祖母はわたしを長居させない」

 一息ついて、「でも、不満に思ってるわけじゃないんですよ」と付け加えた。

「いいのよ、大丈夫。自分ではどうしようもないことだし、眼をそむけたってなくなるわけじゃない。私、ここへは来たのははじめてなの。好奇心に負けちゃったわ。

 真希さんも……なにはともあれ肩の力を抜いていこうね……いろいろうまくいきますように」

 富士崎さんはわたしの右手を両手で包んだ。わたしも左手をそえて両手で握手した。左薬指に銀の指輪を見つけた。

「私、名前はまどかです」

「まどかさん」

 坂野さんが心配そうにこちらを見ている。まどかさんはもういちどわたしの手をギュッと握ってから離して、坂野さんのそばに立った。

 わたしは坂野さんの指にも銀の指輪を見つけた。

 

 佐藤家から離れた場所にある大叔父の家より大きくて、大叔父の家と同じぐらい古い家に、今日はまどかさんのお兄さんがいる。

 畑に緑が映えているのは、富士崎さんのお兄さんが手入れしているからだ。大叔父の畑のように。

 畑にお兄さんの姿が見えないということは、ひと仕事終えてゆっくりお茶でも飲んでいるのかもしれない。


 天狗山の木々を抜けて、あの嫌な金属質の臭いが漂ってくる。風が消えている。

 悪い前兆。

 こんな時は頭が痛くなるのだ。

 みしりと頭蓋骨を握られるような頭痛がしてきた。眼を開けていられないほどだ。

 まどかさんも眼を閉じて、指で額をもんでいる。

 頭痛がとくとく脈打つように強くなってきた。  続く

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