第2話 そしてまた桜は散る
俺の名前は川本裕。科学者だ。
何だか長く眠っていたような気がする。目覚めたとき、妻は五体投地で号泣していた。
諸君らは寝起きに自分の伴侶が五体投地で号泣していたという経験があるか? 俺は初めてだったがなかなかくるものがあるぞ。まず、『俺が悪いのかな』と思う。彼女の様子がおかしい時は大体俺が悪いからだ。
思わずあんぐりと口を開けて、妻に駆け寄る。
「一体どうしたっていうんだ、里子。どこか痛いか? それとも俺のせいで陰口を言われたのか?」
妻である里子は、静かに首を横に振った。それからやはりわんわんと泣いて、「再起動しちゃったぁ。ごめんなさぁい」と繰り返している。
「え? 俺に謝ってる?」
「あなた、私が造ったAIロボットなの。本人は3年前に死んでしまったから」
最悪のサプライズである。いや、彼女の身に何かがあったという想定を最悪だとすると、最悪の一歩手前のサプライズである。
「どうりで記憶の混乱があると」
「やっぱり
ちなみに妻も科学者である。「それが本当なら、俺の方が絶対に上手くやるぜ」と眉をひそめておく。彼女が「そればっかり言わないでよ」と睨むので、俺は何だかわからないながらに「ご、ごめんね」と言った。
「で、どうして泣いてたんだ。俺が死んだのは3年前なんだろ。もしかして毎晩、今の勢いで泣いてるの? 俺が死んだ当初どうしてたの?」
「今となっては、あの時脱水で死んでいればと思うこともあるわ」
「早まるな」
妻は涙を拭き、「あのね」と話し出した。
「あなたって5人目なんだけど」
「すごーくやる気なくなった、今」
「4人目のあなたは、自ら初期化して眠ったの」
「自殺みたいなもん?」
「それでその4人目のあなたと最後に、もうあなたを起こしたりしないって約束したの」
「“あなた”がゲシュタルト崩壊してよくわからない。『あなたA』とか差分化してくれる?」
つまり、今まで里子は計4人も『
可愛いな。そんなに俺が好きか。
「だって大勢の人が、私に裕くんの分まで期待してるのよ。正直もうキャパオーバーだわ。猫の手だっていいから借りたい」
思いのほか、現実的な理由で再起動されていた。
俺はコンマ3秒考えて、「わかった」と答える。
「確か俺は5人目だったな。俺の名前は今から05だ」
「ぜろごー?」
「そして俺は君のことを博士と呼ぶ」
「あなただって博士だったのだけど」
いいから、と言って里子の目の前に手のひらを出して見せた。
「俺を道具として使うか? もし君がそう割り切れるのなら、いいぞ。俺は君の力になるとも」
里子は俺の目の前でひとしきり悩んで、それから小さくうなづいた。
「よろしくお願いします、裕くん」
「今度裕くんとか呼んだら、二度と再起動できないようにぶっ壊れてやるからな」
まずは溜まった仕事の話を、と通されたリビングを見て俺は驚愕する。
「な、何この荒れっぷり! 君、掃除はよくやる方だったろ」
「気づかなかった。そんなにひどい?」
あまりにもあまりにも衝撃的だったので、まさか全てドッキリではないかと俺は訝しんだ。しかし里子は本気でしょげている。
「私、あなたがいないとダメね……」
「俺も君がいないとダメだよ。主にメンテナンス的な意味で」
「嬉しい……」
里子がちょっと泣いた。俺はちょっと引いた。
ため息をついて俺は頭をかく。「君、根を詰めすぎだ。散歩でも行こう」と里子の手を取った。
外に出ると、弱い日差しが降ってくる。まだ明け方のようだ。
「見てみろ博士。桜が咲いてるぞ」
「ねえ“博士”ってとっても違和感がある」
「俺だってその違和感と戦っているんだよ、君も早く05と呼べよ格好いいだろ」
季節は春か。5年前――――俺の記憶で5年前だから、現在からは8年ほど前になるのか。緑化運動が盛り上がって、ここらも桜並木が復活した。
「あなたが死んだ日も、こんな風に天気が良かった」そう里子は呟く。へえ、とか俺は言っておく。どう反応していいものか。
「それでね、あなた、最期に何か言いかけたのよ。『きみの』って言ったの。でも結局聞けなかった」
「ふうん」
それから訥々と、里子は“川本裕”が死んだ日の話をし始める。どうやら俺は病死だったようだ。半年かけて弱っていき、里子を残して死んだ。
俺は腕を組んで、なるほどと思った。4人目のAIロボットが望んで眠りにつくのも頷ける。これはまるで――――他の男の話をされている気分だ。
ほどほどに相槌を打って、俺は桜を見た。若いころに里子と2人で、夜桜を見に行ったことを思い出す。ああ、とにかく桜なんかより里子のことを見ていたな。そんな記憶すら、まるで拙い映画のように作り物めいている。
「あなた?」
たったひとつ、業腹だが“川本裕”のために俺は言ってやらなければならなかった。
「俺が最期に何か言いかけていたと言ったろ」
「ええ」
「死人に口なしだ、もう推測することしかできないが――――たぶん川本裕は、『君の未来を愛している』と。そう言いたかったんじゃないか」
君の選択を。君がこれから愛するすべてを。君の過去現在の集積である未来を。
愛している、と。
里子は動きを止めたまま、ぽろぽろと泣き出した。俺の嫁はこうまで泣き虫だったか、と呆れる。それから里子は、ごしごしと涙を拭って大きく頷いた。
「私、頑張るわ」
「そうか」
そして唐突にというか、凄い勢いで里子は俺の肩をつかんだ。
「でも今は本当に切羽詰まってるから、助けてください……ぜろごー」
「……マジで何で死んだんだよ、俺の馬鹿」
妙にやる気になってしまった里子に引きずられ、俺は家に帰った。AIロボットなど、誰が造ろうと思ったのか。おかげで生前の自分のケツを拭く羽目になった。
「博士」と、妻に呼びかける。「何ですか05」と里子も軽やかに答える。
「仕事の前に、俺の取説があったら貰っていい?」
「自分の取扱説明書を求めるAIは初めて」
「悪いけど、俺も今かなり不安な状況だから」
妻は困ったような顔で「ごめんなさい、起こしてしまって」と目を伏せる。俺は肩をすくめて「別に」と呟く。
そんなことはいいから笑っていろよ。
俺は彼女の夫の記憶と思考パターンをインストールされた、ただの無機物だ。
それでも恐らく、この世界において誰よりも里子を愛している。彼女の笑顔を、どんな絶景より美しいと思う。
開け放された窓から『機械のくせに美しいも何もわかるものか』とあざ笑うような、桜吹雪が舞い込んだ。
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