ドーナツ日和
hibana
第1話 そして朝日は昇った
川本裕と川本里子は科学者であり、夫婦だった。
研究者としてお互いを高め合い、人として愛し合う。とても幸せな結婚生活だった。裕が病に倒れるまでは。
物音に目を覚ました里子は、ベッドの横にある時計に手を翳した。数字が浮かび上がる。時刻は1時半。
隣に寝ていたはずの裕がいない。「あなた」と呼びかけるが返事はなかった。段々目が覚めてくる。
彼がこの部屋にいないということの意味を考えて、呼吸を整えながら里子は起き上がった。
物音に誘われて、里子は地下へ続く階段を降りる。研究室の電気はついていないが、確かに物音は聞こえてきた。認証コードを入れてドアを開ける。「あなた」と言いながら里子は、祈るように前を見た。
「ああ、君か」
裕はそう言ったが、しかし里子を見ることはなかった。ただ一心不乱に、PC型端末の画面を叩いている。何をしているのか、と里子は聞かなかった。裕が柔らかな口調で「初期化のパスワードを教えてくれ」と言う。
「何を初期化するというの?」
「俺を、だよ。決まってるだろ、ハニー」
ため息をつきそうになるのを空咳でごまかして、里子は注意深く「何のこと?」と尋ねた。初めて裕は振り向いて、「川本裕はもうとっくに死んでる。3年くらい前が妥当か? 俺は何体目の代替機だ」と目を細める。
今度こそ深くため息をついて、「どうしてわかったの、裕くん」と彼を見た。裕は声を上げて笑い、「
「ねえ、だからって性急だわ。どうして初期化なんて?」
何とか彼を引き留めようと、里子はゆっくりと近づいた。それをぼんやりと見て、裕は不意にまた端末と向かい合う。
「別に。自殺ぐらいするだろう、機械だって。なんせ失恋をするぐらいだからな」
「失、恋?」
俺は君を愛しているよ、と裕は言った。「私もよ」と里子も頷く。
「いいや、それは違うだろ」
「違わないわ、私は」
「君が愛してるのは川本裕じゃないか」
「……そうよ、何が違うの」
「俺は川本裕ではない。君が誰より知っているはずだ」
そんなことはない、とすぐに言えなかった。「俺はただの無機物だ」と裕が呟く。
「君はただの無機物に、夫の記憶と思考パターンをインストールした。その結果が俺だ。満足したか? しなかったろ。いつだって君は俺を試していた」
「何が気に入らなかったの」
「それは俺が聞きたいよ。俺は、俺の考えうる一番自然な言動を心掛けた。だけどな、ハニー。俺が何か言うたびにするたびに、君は『本物の川本裕であればその言動を選んだだろうか』と考えていただろう」
言葉に詰まって、里子はただその場に突っ立っていた。裕もそれ以上は言及せず、「君の誕生日も俺の誕生日も違うな。あと1回でロックがかかるか? そうだな、あとは結婚記念日か」と独り言ちる。思わず里子は、「待って」と縋った。
「それは、私が未熟なせいだわ。もっと完成度を上げられる。あなたをもっと“川本裕”に近づけられる」
裕は手を止めた。それから、苛立ちをあらわにして振り返る。
「何様のつもりだ」
そう、冷たい声が響いた。里子は思わず身を竦ませる。
「思いあがるな。同じ存在を造り出そうと言うのか? それとも君にとって俺は……川本裕は、簡単に機械に代えられる存在だったのか」
「そんな、こと……私は、ただ……」
ため息を、ついた。彼の自称するところの“ただの無機物”が、ひどく思い悩んでようやく答えを出した時のように、どこか苦痛の色すら浮かべて、ため息をついた。
「君を置いていってしまったことは、本当に情けなく思うよ」と彼は言う。「もし立場が逆であれば、俺も君と同じことをしたろうとも思う」
喉を震わせた。悲しげに、だけどしっかりとした眼差しで。「そして君も、同じように俺を諭すだろうと信じている」と続けた。
「いいかい、君はね。きっとどれだけやっても満足できないよ。君の造る機械は本物にはならない。本物にならない限り、君はいつまでも『本物の川本裕ならば』と自分のこともその機械のことも呪い続けるだろう」
それからまた端末を叩いて、数字を入れる。「犬でも飼うといい。可愛いぞ」なんて、ちょっと笑った。
振り返って裕は、「おいで」と里子を手招きする。画面を見ると、すでに初期化は始まっていた。今ならキャンセルでなかったことになるが、里子は悩んだ末にうつむきながら彼のもとへ歩いた。
「愛しているよ、里子ちゃん」と、彼はまるで付き合いたてのころのように里子を呼んだ。
「だけど、もう二度と俺を起こすな。届かない領域に手を伸ばし続ける君も、そんな君の期待に応えようとするただの無機物も――――等しく哀れだ」
里子は何だかどっと疲れたような気持ちで、「裕くんのこと、愛してた」と囁いた。「知っているよ、今となっては憎らしいほど」と言いながら裕はうつむく。
「君は決して、俺を都合のいい従順な機械としては造らなかった。だから俺は今こうしている。川本裕と川本里子の結婚生活には、誰もが――――機械ですら羨む愛と信頼があったと、俺が保証しよう。だからもう終わりだ、里子」
子供をあやす親のように、裕はそう言った。里子も小さく頷く。
「手を握っていてくれるか」と裕が微笑む。また里子は頷いて、その手を掴んだ。
ああ、と裕は瞬きをしてそれを見る。「そうか、やっぱりこの手も……君の夫のものとは違うんだな」と、痛いのを我慢するような笑顔で言った。違うの、と里子は強く裕の手を握る。
すうっと裕は目を閉じた。
「どうして俺に、涙を流す機能なんてつけたんだ? どうせ本物にならないのなら、欲しくなかった」
裕が、里子によりかかった。少しずつ重みを増していく。違うの、と里子はもう一度はっきり言った。
「私きっと、またあなたに恋をしていた。手をつなぐたび、こんなにときめいていたのに」
眠りに落ちた無機物は、もう二度と応えない。端末画面には、2人の出会った日が表示されていた。
しばらく、里子は彼の隣で眠っていた。食事もとらずにそうしていた。やがてそのまま2日ほど経ち里子は――――
「溜まっている仕事が大変なことになるわ」と飛び起きた。
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