駅員の花子さん

生田英作

駅員の花子さん


 皆さんからのお便りをお伝えする『みんなの声』のコーナー。

 今日のテーマは、『近頃、困った事』。

 では、今日、最後のお便りです。

 東京都北区にお住いのラジオネーム△△さんから。


『DJトミーさん、初めまして。いつも楽しく聞いています』


 はいっ、初めまして~~っ。


『ボクは、都営○○線の××駅にいるツインテールの可愛い駅員さんが気になって困っています。事の始まりは去年の夏のことでした。八月のある日、××駅の近くの居酒屋であった飲み会の帰りに終電を逃してしまい「あ~っ、やっちまった」とボクがホームのベンチに座って頭を抱えていたら向かいのホームに彼女がいました。見えたのは後姿だけだったのですが「うわっ! かわいいっ!」と思ってすぐ向かいのホームへ走って行きました。ですが、ボクがそのホーム着いた時には、時すでに遅し、彼女はもうどこにもいませんでした。その後、その駅に行く度に彼女を探しているのですが、あれ以来一度として会ったことがありません。DJトミーさん、番組で是非彼女にインタビューして頂けないでしょうか』


 と言うね、東京都北区にお住いの△△さんからのお便りでした。

 さて――

 それって、軽くストーカーじゃねっ?

 とは言えね、DJトミーも男の子ですから。

 その気持ち、よーく分かりますっ!

 でもねぇ……

 この話、もしかして、いま流行ってるのかな~?

 確か、この前のは、東京メトロのどっかの駅だったよね?

 で、その前は確か……山手線の……

 そう、そうなんだよ。聞くたびに駅が違うんだよね。

 そう、しかも路線も違う、ってね。

 でもさ、駅もばらばらで路線もばらばらな訳。

 そんなのありえるの? って、思ってたんだけど、でも、『見た』って人がこんだけいる訳だしね。

 不思議だよね~。

 あっ、ごめんなさいね、△△さん。

 実はね、この話――


 ――あなたで七人目なんです。




 ***************





 通過列車が参りまーすっ。

 お乗りになれないのでご注意くださーいっ。




 

 ***************




「あれ?」


 何というのが適切なのか分からないが、そう、薄めのブルーが濃い感じのあのプラスチック製の駅の硬いベンチ。

 俺は、どうやら今の今までそんな所で寝ていたらしい。

 目を擦りつつ体を起こすと、薄暗い蛍光灯の明かりがぼんやりと俺の周囲を照らしていた。

 辺りは、真っ暗。

 目をこらして周囲を見回してみたが、明かりは全くと言っていいほど無い。

 普通、駅の周囲と言えば居酒屋やコンビニの一つもありそうなものだが、線路の向こう側、古いレールで造られたと思しき柵の向こう側は正真正銘の真っ暗闇。

 どうやら、乗り過ごしてとんでもない田舎駅まで来てしまったらしい。

 そんなに飲んだつもりは無かったんだけどなぁ……。

 と、言った所でホームのベンチで寝ていたのでは説得力ゼロだろう。

 割と最近引っ越したばかりで、この路線を使い始めて間もないからか、どうにも慣れない。

 そのせいか未だにこう言うポカをやる。

 とは言え、駅員さんに起こされた、と言う訳でもないから、まだ電車がある時間帯なのは間違いない。

 えーと……時間……時間は何時かな……

 うん? 

 時計は…………電池切れ?

 じゃあ、スマホだ。

 スマホ、スマホ……スマホは……と…………

 ありゃ、こっちもバッテリー切れ。

 なんだよ……。

 ツイてないなぁ。

 乗り過ごすわ、腕時計もスマホも肝心な時に役に立たないわ。

 ツイてない時は、とことんツイてない。

 うん、こりゃ、ツキが巡って来るまでどうにもならないパターンだ。

 ウロチョロしてないで、とっとと、反対方向へ行く電車に乗って家に帰ろう。

 と、次の電車は……

 って、おいおいっ!

 電光掲示板も無いの、この駅?

 時計は? 

 時刻表は?

 …………え? それも無いの?

 どうなってんのよ……。

 それに――

 今さらだけど、そもそも、ここはどこなんだ?

 駅名は……うーん、霞んでよく見えない。

 と言うか、やっぱり暗過ぎだよ、この駅。

 なんなんだろう?

 このじっとりと絡みついてくるような薄暗さ。

 ホームの柱や床も紗で覆ったみたいに霞んで見える。

 明かりも頭上に薄ぼんやりと灯る蛍光灯だけ。

 見回してみてもホームの上には売店もなければ自販機も無い。

 いや、周囲も含めれば駅のホーム以外何もない。

 周囲は、真の闇。

 どんだけ田舎なんだ、ここ?

 いまどき、田舎の駅だってそれぐらい当たり前にあるぞ。

 でも、まあ、文句を言ってもしょうがない。

 電車が来るまでの辛抱だ。

 電光掲示板もろくに無いのでいつ来るか分からないが、待ってればその内来るだろう。

 それに……

 今頃、気が付いたが、ホームの向こうの方に駅員が一人いる。

 ひどく小柄な駅員だった。

 長いツインテールの髪からして女性だろう。

 ホームの上に比較対象になるような物が何も無いので正確なところが分からないが、多分、百五十センチあるかないか。紺の制服の上下は、下がパンツで、てこてこ、とホームの端を歩く姿が、なかなかに可愛いらしい。

 と――

 こちらに気付いたのか、「うん?」と言った感じで振り向いた。

 少し離れている上に暗いせいか、茫洋としてしまって顔まではっきりとは分からない。

 しかし、回りにろくにコンビニもないような恐ろしく田舎の駅に見た目中学生ぐらいの小さな女性の駅員さん。

 ネットとかで話題になっていてもよさそうなものだ。

 うーむ……。

 なんてことを考えていたら、頭上で『ポーンッ!』と音がした。

 どうやら電車が来るらしい。

 やあれ、やれ、と立ち上がるとすかさず頭上からアナウンスが流れる。



『通過列車が参りまーすっ。お乗りにナれないのでご注意くださーいっ』



 えらく可愛らしい声だ。

 あの駅員だろうか。

 いやいや、そんな事を言っている場合じゃない。

 この路線は、急行以外にも『準急行』だの『快速特急』だのとえらく分かりづらいのだ。

 ほんとにこの駅は電光掲示板の一つも早く付けた方がいい。

 が、今さら急いだ所で、と言う話。

 急行の後には必ず普通が来る筈。

 待っていればいいだけさ。

 とかなんとか言っている内に、



 パァァァァァン!



 と、警笛が鳴って列車が走り込んで来た。

 びゅぅ! という風圧と共に跳び退って行く薄暗い車内と、その中の人々。

 かなり遅い時間帯の筈だが、結構乗っている。

 くたびれ切ったサラリーマンやOL、そして、どこかけだるそうな様子の無表情な人々――

 と、


「はははっ」


 俺は思わず笑ってしまった。

 太ったサラリーマン風が一人、握り締めた両の拳で扉をものすごい勢いで叩きながらなにやら叫んでいる。

 無論、見えたのは飛び退っていくほんの一瞬だが、その顔は必死そのもの。

 どうやら、俺と同じ口で最寄り駅を通過する特急にでも誤って乗ってしまったらしい。

 焦りなさんな、同志よ。

 停車駅で乗り換えて、戻ればよいのです。

 狭い日本、そんなに急いでどこへ行く。

 少々の同情と忍び笑いの俺を尻目にドジ一人を乗せた列車は、すごい勢いで目の前を通り過ぎて行く。

 ごぅ、と目の前の空間が鳴って最後尾の車両が瞬く間に闇の向こうへと消えて行った。

 と――

 俺は、ふと思った。


(あの列車……どこ行きだろう?)


 一番後ろの車両の行き先表示は、真っ黒だった。

 どうやら、金をかけていないのは駅だけではないようだ。

 しっかし、すげぇ路線だな……。

 千葉のどこぞの鉄道会社もビックリなんじゃないか?

 と、俺が顎を撫でていたその時だった。

 頭上で再び『ポーンッ!』と音がした。



『通過列車参りマーすっ。お乗りにナれないのでご注意クださーイっ』



 …………。

 まあ、しょうがない。

 特急やら、なんやら色々あるこの路線の運命さだめみたいな物だ。

 じっとりと額にかいていた汗に心地よい風がふわりと当たって、列車が再び、ホームへと滑り込んで来る。

 見慣れた先頭車両。

 その行き先は――


(…………おいおい、またかぁ?)


 ガラス窓の向こうにいる運転手。

 その丁度真上にあるべきはずの行き先が、また、真っ暗だった。

 だから、乗り間違えるヤツが出るんだよ……。

 が、そんな俺の感想とは無関係に、ごぅ! と走り込んで来る列車の轟音が再び俺とホームを包み込む。

 金属が奏でる甲高い轟音と共に目の前を流れて行く薄暗い蛍光灯の明かりに照らされた人々。

 水族館の水槽よろしく、四角い窓枠に囲まれた雑多な人々が無感動と無表情の見本のような状態で急行列車の振動に揺さぶられながら、闇夜を疾走して行く。


(うん?)


 どうやら、ドジはたくさんいるらしい。

 それも、今度はおばさん。

 薄手の白いセーターを着こんだおばさんだ。

 さすがに女性だけに扉を拳で叩いたりはしない。

 が――

 俺は、じっと目を凝らしてその姿をまじまじと見つめた。

 無論、じっと、見つめられるほどの時間的な余裕はない。

 だが、その一瞬に俺は、はっきりと見た。

引き攣った顔と異様なまでに見開いたその目。

 まるで何かに怯えるかのようにおばさんは、必死の表情で窓の外へと何かを叫んでいる。


(え? なんだって?)


 おばさんと俺は、瞬間的に目が合った。

 彼女は必死の表情で何かを叫び、俺に向けて何かを指差した。

 全ては、一瞬の出来事。

 あっ、と言う間の事だった。

 おばさんを乗せた列車は飛ぶように走り去り、最後尾車両のテールランプが刺すような赤い光の尾を引きながら飛ぶように闇へと吸い込まれていく。


「…………」


 今のは、一体何だったんだろう?

 俺に向けて何かを必死に訴えていたおばさん。


(…………………)


 あの様子は、どう考えても普通じゃない。


(なんだって言うんだ、一体……)


 いつしか、俺のうなじに、シャツの中にじっとりと不快な汗が滲んでいた。

 おばさんが何を言っていたのか、無論、俺には聞こえなかった。

 しかし、その口の動き……

 それは、間違いなくこう言っていた。



『うしろ、うしろ』


『そのひと、そのひと』



 俺の後ろに誰かいるのか?

 俺はゆっくりと背後を振り返った。


「――わぁっ!」




 いた。



 

 一体……いつから居たんだ?

 あの小さな駅員が、何故かそこにいた。

 小柄ながら「すっ」と伸びた背筋。

 長袖、長ズボンの制服に白い手袋。

 プラスチックで造ったかのように白く整いすぎていてどこか怖いようなその顔は、唯々、無言でじーっと前を見つめている。

 俺が見ていることに気付いているのかいないのか。

 その黒目がちな瞳は、じっ、と前を見つめたまま微動だにしない。

 不気味なほどに静まり返ったその冷たい佇まい。

 目の前に居るのにそこには居ない。

 何故か、そんな言葉が脳裏にチラついて、俺は思わず「ゾッ」とした。

 とは言え、いつまでもそんな駅員を見ていても仕方がない。


「…………」


 おずおずと前を向いて俺は、そっと、首筋の汗を拭う。

 周囲にあるのは、相変わらず、唯々、無言の蛍光灯の明かりに照らされた薄暗い駅のホーム。

 と、

 唯々、無言で俺の背後で人形のように佇む駅員が一人。

 ぽっかりと穴が開いたように二人以外誰もいない駅のホーム。

 真空状態のような無。

 俺は、遠くの闇を見つめながらそっと息を吐く。

 それにしても……

 一体、あのおばさんは、俺に何を伝えようとしたのだろう?


(………………)


 あの怯え切った表情……。

 胃の辺りに冷たい感触がじんわりと広がって行くと同時に俺の背中を不穏な戦慄がそろーりそろりと舐めるように駆け上って来る。


『後ろ、後ろ』


『その人、その人』


 あの言葉の意味は一体なんだ?

 素直に受け取れば、俺の後ろに立っている駅員なんだが……。

 だが、駅員を指差して何を言おうと言うんだ?

 まさか、駅員のせいで乗り間違えたとでも?


(…………)


 俺は、額の汗を何度も拭いながら大きく息を吐く。

 何となく背後から感じる強い視線。

 振り向きたいのを必死で堪えつつ、俺はなおもしつこく考え続ける。

 あのおばさんは一体何なんだ?

 何を言おうとしたんだろう?

 本当に電車を乗り間違えただけなんだろうか?

 ただ、電車を乗り間違えた、と言うだけであんな表情に人はなるだろうか?

 そして、その時、俺の脳裏に浮かんだのは、あのサラリーマン風の男だった。

 両の拳を握り締め、必死の形相で扉を叩いていた男。

 あの男は、一体……

 あの電車は――

 いや、いやいや。

 落ち着こう。

 考えが飛躍している。

 そうだ、まずは内容のはっきりしているおばさんの件から考えよう。

 やっぱり、問題はやはりあの言葉の意味か。

 普通に考えれば――

 やはり、あの駅員が……

 いや、いや、いや、普通ってなんだよ?

 そもそも、この駅が普通じゃない。

 異常なほどに薄暗いホームの照明。

 ホームには売店はおろか自販機もない。

 それどころか、電光掲示板も無ければ時計すらない。

 その上、周囲は真っ暗……。

 それに――


(……………………)


 額いっぱいに滲んだ汗をハンカチで拭いながら、俺は、ついに我慢できず、そっと背後を振り返った。

 と――




 いない。

 


 

 今度は、音も無く消えた。

 さっきまで俺の背後にいたあの駅員が……。

それがいつの間にか音も無く姿を消している。


(………………)


 ざわざわと背中の辺りが薄ら寒くなり、握り締めた掌に冷たい汗がじわじわと滲んで来る。

 そう、振り返ったホームの上はまったくの無人だった。


「……どうなってるんだ?」


 もちろん、思わずこぼれた俺の言葉を聞く者はいない。

 そう、ここ居るのは俺だけ。

 ただ、ただ、俺ひとり。

 蛍光灯の薄暗い明かりも、

 闇に沈むホームも、

 ただ、俺ひとりだけを照らし、

 ただ、俺ひとりだけがそこにいる。

 まるで、ここが舞台の上であるかのように。

 


 ぽつんと、ひとり。



 そして、そんな俺を嘲笑うかのように。

 突然、現れたかと思ったら、再び、突然、居なくなった駅員。

 そして、背中に感じたその彼女からと思しき強い視線。

 周囲をいま一度見回した俺の脳裏に突拍子もない考えが浮かぶ。

 もしかしたら――

 この駅も――

 あの電車の中の連中も――






 ――あの駅員が…………。






 そこまで考えた時、俺は背中に冷や水をぶっかけられたような気持ちになった。

 ここは……一体…………

 あの駅員は――


(お、落ち着け!)


 体の奥からせり上がって来る得体の知れない不安を必死で飲み込んで、俺は何とか平静を保とうとする。

 俺は、いい歳をして何を焦ってるんだ。

 ただ、乗り過ごしてド田舎の駅に来た、というだけじゃないか。

 なんてことない簡単な話だ。

 俺は、少し疲れているに違いない。

 だから、ナーバスに――




 いや




 いつしか顔全体にびっしょりとかいていた汗が、たらーりと頬を伝い、「ぽたん……」と落ちた。

 いま一度、周囲を見回すが状況に何の変化も無い。


(………………)


 否――

 俺は、気が付いてはいけない事に気が付いてしまったのだ。

 



 ない。




 この駅には――

 そう、この駅には――

 泡立つように体の表面に鳥肌が立ち、俺の体を悪寒が包み込む。

 ひどく寒い。

 そのくせ、俺の喉はからからに乾いてしまって飲み込む唾の一滴も湧いてこなかった。

 どく、どくっ、と打ち震えるように高鳴り始めた胸の鼓動。

 俺の喉が「コクン……」と空しく鳴った。

 そう。

 この駅には、



 

 出口がない。




 俺が、いま居るホームはいわゆる島型で、ホームの左右に列車が停車し乗客が乗降できるようになっている。が、そういった島型のホームに必ずなければいけない物がある。

 そう、階段だ。

 島型のホームから改札を通って駅を出るのに必ず必要なもの。

 ホームの上に設けられた駅舎を抜けて出るための上りの階段、あるいは地下通路を通ってレールの向こう側に設けられた駅舎に向かうための下りの階段。

 このホームには、そのための階段が




 どこにもない。




(どうなってるんだ……)


 俺の首筋を冷たい汗が伝う。

 じゃあ、ホームの両端はどうだ?

 両端に出口があるタイプの駅なんじゃないのか?

 一縷の望みを込めて俺は、ホームの端へと目を凝らす。

 電車が消えて行った進行方向のホームの端。

 逆側の電車がやって来た方のホームの端。

 が、

 そこには間違いなくあった。

 青錆びたグリーンの鉄柵。

 ホームの上からも下からも、誰も入って来れぬよう設けられた柵が。

 が、それは、つまり――

 そう、




 このホームからは、どこへも行けない。




 と、いう事だ。


(………………………………………………)


 気が付くと手が微かに震えていた。

 目の前の景色が急にとてつもなく恐ろしいものに見えて来た。

 そして、なによりあの駅員。

 可愛らしい?

 そう。

 ホームの端を歩く後姿を見た時、確かに俺はそう思った。

 だが、あの冷たく整い切った相貌を俺はなんと表現すればよいのだろう。

 特にあの黒目がちの瞳を。

 あの、何も見ていない、古井戸の底を覗き込んだような得体の知れない色を湛えたあの瞳を。

 それに、あの制服……

 あれは明らかに冬服だ。

いまは、八月なのに。

まさか……あの駅員は……

 早鐘のように鳴り続ける胸の鼓動。

 荒い息を吐きながら俺は、無意識の内に動かない腕時計とスマホを何度もいじり始めていた。

 無意味と分かっている。

 だが、やめられない。


(動け、動け、動け!)


 が、当然の如く何の変化もなかった。

 針の止まった文字盤。

 真っ暗なスマホの液晶画面。


(本当に……どうなってるんだ!)


 どうすれば――




 ポォォォーーーンッ!




 突然、頭上から大きな音がして俺は「ビクンッ!」と飛び上がった。

 同時に――




『列車ガ参りマースッ。白線ノ内ガワまデ下ガッテオマチクダさーいっ』



「――――っ!」


 あの駅員は、俺の真後ろにいた。

 ほんの数秒前まで誰も居なかったそこに。

 体中から冷たい汗が噴き出ると同時に彼女のその漆黒の瞳が、見ているようで何も見ていない空っぽの瞳が、今度は振り返った俺の顔を容赦なく「じーっ」と見つめて来る。

 しかも――


(この駅員、マイクも何も持ってないのに……どうやってアナウンスしたんだ?)


 背中から腕に掛けて冷たい物が俺を包み込み、俺は、じわじわと体の奥から震え出していた。

 どうしたも、こうしたもない。

 ここにあるもの全て、後ろにいる駅員も含めて全てが――


(イカれてやがる……)


 そうだ、この駅はおかしい。

 そして、この駅員もやはり変だ。

 いや、もう明らかにおかしい。

 否、人間とは思えない。

 おれは、闇の向こうに見え始めた列車の仄かな明かりを焦がれるように待ちわびながら、居ても立っても居られず、ホームの端へといま一歩近づく。

 とにかく、この場所から一刻も早く、一刻も早くこの駅から出たい。

 この不気味な駅員の傍から一刻も早く逃れたい。

 とにかく、電車に乗ってさえしまえば――

 たとえ、どんな辺鄙な所だってここよりはマシだ。

 程無く、ごぅ、という風の音と共に列車がホームに滑り込んで来る。

 やって来たのは相変わらず、行き先もよく分からない電車。

 だが、この駅員と駅からおさらばできるなら、もう、何だっていい。

 薄暗い列車の車内を見つめながら俺は、掌いっぱいにかいた汗を強く握り締める。

 やがて、列車が完全に停車すると「ぷしゅぅ」と圧縮空気の音がして扉が開いた。

 俺は、追い立てられるように扉の中へ。




 なっ…………




 俺は、声を出すことも出来ずに凍り付いた。

 目に付いたのは、斜め前の三人掛けに一人で座っていた太った男。

 斜めに傾いで、眠っているかのように目を瞑ったその男は、




 両の足が無かった。




 引きちぎられたかのようにだらりと垂れ下がる不自然な太もも。

 その先からポタリ、ポタリと落ちる真っ赤な雫。

 そして、すぐ傍のつり革に掴まった女性は、焦点の合わない瞳を左右に巡らせながら、口の端からだらだらとよだれを垂らし、さらに、向かいの扉に寄り掛かるパンチパーマの目つきの虚ろな男はシャツの腹の部分が真っ赤に染まり、その背後に座っている喪服の男に至っては、首に食い込んだ縄が……


「…………………………」


 車内にいる人間は、どれもどこかがおかしい。

 まさか……

 この人たちは…………

 



 本当に――



 

 そう、思って俺が一歩足を引いたその時だった。

 



 どんっ!

 



 背中に感じた鈍い衝撃と共に俺はもんどりうって列車の床に尻もちを付く。

 慌てて立ち上がろうとした俺が手を伸ばしたその瞬間だった。

 その駅員を見た。

 濡れたような黒髪のツインテール。

 一重まぶたの漆黒の瞳。

 突き出された両の手に嵌めた純白の手袋。

 俺を見つめるその顔に身の毛もよだつ笑みが滲んだその次の瞬間――

 

 ぷしゅぅ、と言う圧縮空気の音と共に扉が閉まった。




 ***************




 列車が参りマーすっ。

 お乗りのお客様は、オ急ぎくだサーいっ。



 ………………



 ……………………



 うふフ……



 ふフふふフフフふふふふ…………




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駅員の花子さん 生田英作 @Eisaku404

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