第7話 アースゲイザーで
月最大の都市アースゲイザーはグレイロビーと同様、地下に築かれた都市で、人類史上最大の過密都市でもある。頭上を見上げればそこに地球があることから、アースゲイザーと名付けられた。荒れ狂うように進められた拡張工事は完了し、頻繁に繰り返された再開発も勢いが衰え、百年掛けてようやく、街は完成しつつある。
月面に無造作に置かれた巨大な箱は、アースゲイザー市内へ降りるためのエレベーターの入り口だ。タチバナロードのターミナルとは違い簡素な造りで、ライトアップも夜の期間しか行われない。
ゲートをくぐり抜けたムーンモービルは最初に、クリーンルームに入る。そこで砂塵の除去と、念のための滅菌を済ませてからエレベーターに乗る。ムーンモービル数台分の広さのエレベーターは、故障を疑うような振動とともに動き出した。改修や改良を放棄された旧式の設備は、修理不能の故障を起こせば、それっきり破棄される予定だ。エレベーターの壁には「アースゲイザーを訪れる際はシャトルで!」と書かれた張り紙が、目立つように張られていた。それを見付けて苦笑いをするカールに、ルグランは「乗れてよかっただろ」と言って笑った。
街の中を走るのは、コンパクトで洗練されたシティーモービルばかりだ。その群れの中を、異彩を放ちながらムーンモービルは進んだ。
ちょうど夜が始まった。天井から落ちる照明の明かりが弱まっていき、変わって、歓楽街からの放たれる光が天井を照らす。街から湧き上がる音は互いに弾き合い騒音に変わる。喧騒が喧騒を掻き消す狂乱の夜が訪れた。
歓楽街へ向かう人の流れを、カールはぼんやりと眺めていた。
「この雰囲気には慣れません」
「そうか?」
「いくらエネルギーが余ってるからって、無理やり騒ぐ必要は無いじゃないですか。何もかも過剰ですよ。余分なエネルギーを地球へ送り返せるなら、そうしてやりたいです」
「エネルギーが有り余っているおかげで、ルナティックは生まれてこれた」
「そうですけど・・・」
カールはチラリと頭上を見上げた。ちょうど天井がガラスの部分で、遥かな地球が覗いていた。
アースゲイザーには、広大な天井を支えるための柱が二十本あり、その内の九本は、直上にあるシャトルの発着場へ昇るエレベーターを兼ねている。それ以外はただの柱の役割を果たすだけだが、その内の居住区にある何本かは、基部の周囲に盛土し植林され、数十年かけて立派な山に育った。街並みから望むその風景には、ここが月の地下とは思えない豊かな緑が生い茂っている。
街の中心に聳える市庁舎ビルは、見上げる者に、圧倒的な存在感を誇示する。それは直径五百メートルのガラス張りの円柱で、天井を支える柱の内の一本でもある。
街を南北に貫くハイウェイを颯爽と駆け抜け、市庁舎ビルを貫くトンネルに突入する。その直前、ビル正面に貼り付けられた巨大モニターに、市長であるリン・ライオが登場した。金色に輝く強化服を纏い、黒縁の眼鏡の向こうで、力強い眼差しがこちらを見下ろしたように見えた。
市長選が迫るアースゲイザーでは、各候補者が各地で選挙活動を行っている。リン市長も同様で集票に余念がない。市庁舎正面の巨大モニターを独占できるのは現市長の特権で、リン市長はこれを最大限に利用する決意だ。
アースゲイザーの低い空に、夜の喧騒に負けない大音量の演説が響き渡る。
「私なら地球政府と対等に対話をすることが出来ます・・・。もしアンディ候補が当選すれば地球との対立を生み、確実な破滅への道を進む事になります」
ルグランの自宅は、南側の居住区にある。歓楽街の異様な喧騒も、ここでは囁くほどにしか聞こえてこない。速度を落として進み、共同駐車場に停車した。
家の前まで来ると、そこに、黒く長い髪が印象的な女性が出迎えに現れた。ルグランの妻のアスカだ。アスカはルグランに歩み寄ると、制服の両袖を掴み体を近づけた。二人は違う高さから見つめ合い、しばしの間、互いの温もりを確かめあってから、必死に遠くを見ていたカールを呼び、家の中へ招き入れた。
「俺のパートナーのアスカだ」ルグランはそう言ってアスカの肩を抱き、アスカは「あなたがカールね。ルーがお世話になってます」そう言って、小さくお辞儀をした。
カールも簡単に自己紹介を済ませて、リビングで寛いだ。月世界の英雄は、アースゲイザーの平均的な家で暮らす。そんな生活に満足しているルグランに、カールは安堵した。
結婚前のルグランが、一人の女性と小さな家に収まってしまうなど、誰も想像することができなかった。カールも、幾つか奔放過ぎるエピソードを耳にしたことがあり、そのせいで、ルグランのイメージはいいとは言えなかった。しかし、相棒となり、今こうして自宅に招かれ空気を感じてみて、すべてが誇張に過ぎなかったと確信した。ルグランに相棒に指名されたことを、カールは改めて誇りに思った。
アスカが夕食を用意してくれることになり、立ち上がろうとしたその時、長い黒髪が次々と肩を滑り落ち、カールの眼の前でキラキラと舞った。カールはこの時になって初めて、アスカのあまりにも整った顔立ちに目を奪われた。心の中で、「噂には聞いていたけど・・・!」と叫んだ。聞こえてはいないはずだが、何かを感じたルグランが、「お前には渡さないぞ」と耳元で囁いた。カールは慌てふためき、「そ、そんなつもりは!」と、顔を真っ赤にしながら必死に釈明した。カールをからかい、満足したルグランはニヤニヤしながら立ち上がり、「俺も手伝う」と言ってアスカのいるキッチンへ行ってしまった。
真っ赤になってしまった顔をなんとか冷やすため、別のことを考えようとして視線を定められずにいると、リビングの片隅に置かれた子供用のルナティックシミュレーターが目に入った。
「ラッシュっていったっけ、息子さん。もう休んでいるのだろうな。確か、もう一人女の子が・・・、アンナだっけ?」
次に招待されたときには、きっと会えるだろう。
夕食をご馳走になっている間、ルグランとアスカは時折、カールの存在を忘れたように甘い空気に包まれた。カールは落ち着かなかったが、食事が美味しかったのは間違いない。
そして、食事がおわる頃、テーブルに置かれている通信用パネルのスイッチが入り、音声のみが流れ始めた。
「ルー。帰っているんだろ。僕だ、アンディだ。ちょっといいか?」
兄からの通信に、アスカが明らかな嫌悪の表情を浮かべた。ルグランはそれに気付きつつも、気さくに返事をした。
「いいですよ、義兄さん。どうぞ」
アスカはそれを遮るようにアンディに向かって、「疲れているから後にして!ルーに関わらないで!」と言い放った。その迫力にカールは驚いた。
「アスカ、大丈夫だよ。義兄さん、続けてください」
パネルに映像が映し出される。そこにはアスカにそっくりの顔をした、強化服の男がいた。
「ルー、時間はあるか?選挙の応援を頼みたい」
「そんな事するわけ無いでしょう!やっと休めているんだから、邪魔をしないで!切るから!」
迫力が増したアスカを、ルグランは宥めながら話を続けた。
「いいですよ、明日ですね?」
「いや、直ぐがいい。打ち合わせがしたいんだ。明日は大事なんだよ。それから、君に会いたいって人がいて・・・。な、頼むよ」
アンディは目だけが笑わない笑顔を見せた。そこへ突然、どこからか女の子が現れ、パネルを持ち上げると、壁に向かって投げつけた。その女の子は、「ママをいじめないで!」と叫んで走り去り、奥の部屋に消えた。あっという間だった。きっと娘のアンナだ。
パネルは壊れることはなく、アンディは映されたままだ。怒っているらしく、「これで何度目だ!」と喚いた。ルグランが謝りながら拾い上げ、テーブルに戻した。アスカは泣き出しそうな顔で、そっぽを向いている。
穏やかな時間は、突然の嵐に吹き飛ばされた。
ルグランは、引き止めようとするアスカに「すぐ戻るから」と言い聞かせ出ていった。カールもここで帰らせてもらうことになり、アスカに見送られて家を出た。
「ごめんなさい。また来てね」
アスカは少し首を傾げて力なく微笑んだ。
「そうさせていただきます!」
カールは敬礼して、勢いよく走り去った。
カールは、ルグランが手配してくれたホテルへムーンモービルに乗り込み向かった。道中、想像以上に人目を引いた。
ムーンモービルのコンソールパネルを起動すると、予約してあるホテルへの道のりが、マップに記されていた。一週間分取ってあり、他にも、観光スポットと食事の美味しい店がマッピングされている。いつの間に設定していたのだろう?これなら一週間、暇をせずに済みそうだ。
街を出るまでの一週間、カールが街を観光していると、何度か、街頭テレビやインフォメーションパネルでルグランの姿を見かけた。市長選に立候補したアスカの兄であるアンディ・ヤシンの応援に駆り出されていて、アンディの行く先々に連れ回されていた。
ムーニーたちの英雄であるルグランの人気は絶大で、演説の途中にアンディに促されて前に出ると、ギャラリーの歓声がアースゲイザーの頑丈な天井を揺るがすほどに響き渡った。ルグランは歓声が鳴り止むのを、笑顔を崩さずに待ってから話し始めるが、その内容は、どこでもほとんど同じだった。
「俺の理想は、義兄さんの理想と同じだ。俺が言いたいことはほとんど、義兄さんが言ってくれている。義兄さんなら、みんなを今より幸せにしてくれるさ・・・」
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