第89話 高原前夜
レン高原。
アデルニア王国領土と聖国アズガルドの間にある高原。強い霊脈が通っている土地故か、永遠の厳冬が満ちている。荒涼とした白銀、或いは灰色が広がるその場所は、求道者の為の巡礼の地とされており、険しい道を経てアズガルド本土へ至る事が出来るのだ。
だが、荒涼としながらも、厳しき信仰への道程を魅せていた高原の地は、他ならぬ聖職者らの軍勢によって塗られていた。
最高議会により、アデルニア王国を見捨て、レン高原で帝国の軍勢を迎え撃つことを決定した聖国。アズガルド領内たるレン高原ならば、万全に迎撃が可能と考えたのだ。
世界の守護者を名乗る聖国が、星の守り手たるユグドラス教が、神敵が駆る珍妙な兵器を恐れ庇護者を見捨てる――低俗な皮肉にすらならない。秘蹟機関第十席次、カーライン・シェジャ・アーチボルトは思考する。
「……寒いな」
憂鬱な気分を紛らわすように、取り合えず感じた事を適当に喋る。
レン高原の寒さは厳しい。首都ヴァナヘイムよりもずっと寒い。聖区カダスで暖を取ったのがずっと昔のように感じてしまう。カーラインは法衣の上から被った防寒具の内に手を潜り込ませる。
レン高原での帝国軍迎撃に駆り出されたのは、
「うう、顔が痛いです」
横に立ったアイリス・エウォル・アーレントは涙目になりながら、極寒の風で赤らんだ顔を手で覆う。魔術部隊の一員として配属されているアイリスとカーライン。天幕の中、時間を潰すべく談笑している。
「ひぃ~、手が氷菓みたいになってるー」
風除けと保温を兼ねて手で顔を覆ったアイリスだが、その手自体がかじかんでいるせいで逆効果だったようだ。涙目になりながら情けない声を上げる。
「ふふ、大丈夫かアーレント……じゃなくて、アイリス」
「もー最悪ですよ! レン高原がこんな、こんにゃ……さぶいなんて!」
「確かに、中々堪える風だ。……高原に来るのは、初めてか?」
手を擦り合わせて暖を取るアイリスは、カーラインの言葉で顔を上げた。
「そーなんですよ。ワタシ、レン高原に来るのは初めてで……。何せ、北側の――イーファル共和国の出身ですから」
イーファル共和国……アズガルド側の小国であり隣国だ。彼女はその小国出身だったようだ。火が付いたのか、アイリスは嬉しそうに話し出す。
「ほら、アテラロアって聞いたことないですか? 芸術の都と名高いイーファル国の街です。ワタシのお父さんが作った楽器も、あそこに納品されてたりもしたんです。たまに行くと、どこでも音楽が鳴っていたり、鮮やかな街並みが綺麗だったり目に痛かったりして――兎に角、派手な街でした」
懐かしそうな顔をして、楽しそうに身の上を語るアイリス。戦闘を控えているというのに、とても明るい。彼女の快活さはいっそ呆れるほどであり、故にこそコチラの気も和らぐ。
「そうか、アイリスの御父上は楽器職人と以前言っていたな。ああ、アテラロアは聞いたことがあるよ。アイリスが言ったように、有名な芸術の街だしな。後は確か――」
芸術の街について思い出していたカーラインだが、記憶の底より引き出した情報が、この場の談笑でするには相応しくない内容だったのにはっとして、首を振って話を逸らす。
「……うむ。楽器職人とは興味深いな。楽器といえど様々な種類があるだろう、御父上はどんなモノを作っていたんだ?」
「弦楽器が主でしたよー。リュートとか、ヴァイオリンとか」
「ほう。アイリスは、楽器を演奏出来たりするのか?」
「えへへ、それが恥ずかしながら、からっきしで……。弦で手を切ったり、壊しちゃったりで全く触らせて貰えませんでした」
「ふふ、そうか。何というか、イメージ通りだな」
「むむ! どういう意味ですかそれ!」
揶揄われたアイリスは頬をぷっくりと膨らませてむくれる。分かりやすい反応に、カーラインは思わす吹き出した。
「ふ、ふふ……すまんアイリス」
乙女二人、談笑に花を咲かせていた所に天幕が捲れ、誰かが入ってくる。
「失礼します」
現れたのは鴉の獣人種の男だ。纏う白い法衣には、背には翼の意匠が入った文様が刻まれている。
「
そう声を掛けるカーライン。鴉の男は静かに頷いた。
飛空戦力としては現在侵攻中の帝国魔導戦艦に及ぶべくもないが、制空権確保を行わず座視すればどうなるか、アデルニアの一件で判明している。だからこそ聖国唯一の航空戦力を防衛に投入しているのだ。
これ以外にも召喚術式連隊を新設し、
「敵軍、観測可能距離到達まで凡そ三時間です。ご準備を」
「分かった。――フレン団長は?」
律翼軍の団長はフレンが勤めている。フレンという聖国最強の航空戦力は、秘蹟機関内だけで運用するには惜しく、律翼軍という飛行部隊を率いるにはこれ以上ない存在だ。勇者に権力を与えるに等しい行為だが、様々な制約を設けている上で、律翼軍を指揮させている。
「後方で我々律翼軍の指揮をとっておられています。団長自身も、すぐに出撃するかと」
「そうか……」
「伝令の為、自分はこれにて失礼します」
そういって天幕から去った
「いよいよ、始まるのか」
「そうですね……帝国が攻めてくる――また」
アイリスの物言いにカーラインは僅かに疑問を覚えるが、何かを言及する事なく天幕を出る。天幕で遮られていた冷風に煽られ、カーラインは目を細める。
「……」
来たる戦の気配を察してか、カーラインもアイリスも、先ほどまでの様子を潜めて固く沈黙する。極寒の風の中には、僅かな死臭が混ざり始めているような気がしてならない。
◇◇◇
アデルニアを制圧したリヴィト准将率いる、第一魔導飛空隊。旗艦ヨハネと後続の地上侵攻軍は、アデルニアに臨時拠点を築いた。――驚くべきことに、アデルニア制圧に要したのは魔導戦艦に備えられた兵器のみであり、後続の地上軍の兵站には殆ど負荷が掛かっていない。消耗した戦艦付属の銃弾類も、移送艦からの転移装置で補給可能。殆ど万全の状態でアデルニアを北上出来たのだ。
暫定王都バルメッラを制圧した帝国軍は、現国王アルマンに降伏を勧告。――待っていた聖国の支援を終ぞ受けることなく、アルマンは苦渋の決断として降伏の為、味気ない調印式を執り行った。
「――では、この書類に調印を」
圧倒的技術力に蹂躙されたアデルニア王国に突きつけられた、事実上の無条件降伏。数枚の書類と、現国王アルマンの調印だけで、それは為される。――たったそれだけで、数百年に渡る国の歴史は終わるのだ。
軍に同行した政務官の前で、アルマン国王は奥歯を噛みしめ、組んだ手を震わせる。冷や汗が机に置かれた書類に流れ落ちる。
「……っ」
国璽を持つ手が震える。意図せず苦悶の声が漏れ出る様子は、敗戦国の王としてある意味相応しい。
武装した兵と政務官の冷酷な視線を受け、アルマンの手は震え、右往左往した後、ゆっくりと押印した。
「これで………構わんな?」
怯えた上目遣いで、政務官を見上げるアルマン。帝国の政務官は鷹揚に頷いた。
「ええ、これで一切の問題はありません。お手数をお掛けして申し訳ありませんね、アルマン国王陛下」
恙なく調印式を終えた政務官は、兵士を伴って項垂れるアルマンに背を向けた。
「――終わったようだな」
暫定王都バルメッラを占領し、補給を済ませた帝国軍。旗艦ヨハネに戻った政務官は、指揮官たるリヴィト准将に迎えられた。
「はい閣下、全て問題無く」
「そうか。これで晴れて、アデルニア州の出来上がりというワケだな」
「そうでもありませんよ。完全に現王政を骨抜きにする必要がありますからね。アルマン王の殺害――後に、対抗派閥の旧王朝主流派を利用し――」
「――旧王朝の血筋である少年を操り人形にし、完全なる新体制の足掛かりにする、か。ふん、アデルニアの人心を掌握するには、わかりやすいイコンが必要だからな」
「仰る通りです、閣下」
アデルニア王国の制圧によって得られるのは、豊かな土地と食料、そして人員だ。だが土地を耕し食料を得るには、それを行う人員が必要だ。そしてヒトを動かすには、飴と鞭と信用がいる。かつて平和だったアデルニア最後の王朝、その血を引く者を用いれば多少はやりやすくなる――という判断だろう。
上の政治に付き合わされる身としては、実につまらない。とはいえこれも仕事。軍属である以上、多少は政治的知識も必要なのだ。
「補給を済ませたら、アデルニアを北上。レン高原から首都ヴァナヘイムへ向かう。……ヴァーロムが落ちた以上、互いの首都を如何に素早く落とせるかという勝負だ。油断も逡巡も必要ない、全てを素早く蹂躙するぞ!」
リヴィト准将の激を受けた軍は、レン高原に進軍する。待ち構える聖国と、進む帝国が衝突しようとしていた。
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