第十一章

 澪は吐き気を感じて立ちあがった。指の隙間から血が滴り落ちる。吐血するのは初めてだった。澪はその場に崩れ落ちた。


 身体がいうことをきかない。


 声がでない。


 呼吸が苦しい。


 再び吐血をする。弱っている姿を、部下に見られたくない。トップに立つ者がこのような姿を見せてしまえば、不満が噴出するだろう。不審に思う人間も出てくるはずである。


 それに、何年もかかって作り上げてきた指揮系統も、機能しなくなるのと同時に信頼を壊してしまう。


 全てが崩壊してしまう。


 それだけは、避けなければいけなかった。


「はっきり、言ってくれていい」

「なら、はっきりと言います。身体に異常が見られます。小さい頃からですか?」

「見て見ぬふりをしてきたからな」

「もっと、早く相談していただければ……治療法があったかもしれません。あなたは必要な方です」

「運命ならば受け入れるしかない」

「組織の者には伝えますか?」

「伝えるつもりはない」


 視界が揺らぐ中、本橋家に勤める医者のやりとりを不意に思いだす。


 隠して、隠して。


 隠し続けて。


 視線をそらし続けて。


 完璧な自分というものを作りあげて。


 亡き両親でさえ気がつかずにいた。


 (そういえば、知っているのが一人いたな)


 白蘭会最強と言われ亡き両親の執事だった男が。


 舜は小さい頃交わしたこのことを誰にも言うなと約束を守り、本橋家を去った。


 今は引退して福祉界で働いている。


 どちらにしろ、要兄様と決着がつくまで死ねない。


 何とか耐えしのぐしかない。やり過ごすしかない。澪は血に濡れた自分の手をギリっと握りしめる。


 必死に肺に空気を送り込む。ヒュー、ヒューといった掠れた呼吸音がその場に響く。肩で呼吸を何回か繰り返しているうちに、徐々に落ち着いてくる。


 近くの壁に手をつきゆっくりと立ちあがる。ようやく、動けるまでに回復をした。まずは、血の始末をしなければならない。


 澪は雑巾で血を拭き取り、洗い流す。血を綺麗洗い流すと背筋を伸ばし――何事もなかったように歩きだした。


***************


「澪様。まだ、起きていらっしゃったのですか?」

「涼、文」


 涼と文だけは解放したかった。文は子供を生んで、涼は奥さんを見つけて結婚してほしかった。今まで、狭い世界に閉じ込めてきた分、幸せになってほしかった。

 

 普通の生活をしてほしかった。


 ささやかな暮らしをしてほしかった。


 澪に囚われず、自分の足で歩いていてほしかった。


 夢を追いかけてほしかった。


 それが、澪の願いでもあった。


*********************


「顔色が悪いですし、少しお痩せになりましたか?」


 文は澪の頬に手をおいた。


(暖かい)

 

 この手を掴めたら、どれだけいいだろう。すがれたら、どれだけいいだろう。ずっと、こうしていたい気持ちになる。


 ただ、いくら相手が文とはいえ自分の立場がある。甘やかされるつもりはない。澪は文の手をソッとどかす。文が寂しそうな表情になる。こんな表情をさせれいるのは、自分なのだと自覚していた。 


 文と涼が深く聞かず何も言ってこないのは、優しさがあってからだろう。


***********************


「そうか、普段と変わらないと思うが」

「休める時は休んでください。私たちはあなたが倒れないか心配です」


「文に涼」

「――はい」


 澪に呼ばれて二人の声が揃う。涼と文が姿勢を崩すことはない。


「解放されたらどの道に進みたい?」


 その言葉は、別れを示唆しているみたいで、涼と文に不安が広がっていく。


 今まで、澪に寄り添ってきてこのような不安を感じることはなかった。澪の手前である。二人がその不安を、顔に出すことはない。


 だが、人の気持ちに敏感な澪のことである。どこまで、この不安を隠し通せることができるのか分からない。


「私は子供が好きなので、福祉の道に進みたいと思っています」

「私は考え中です」

「澪様?」

「何でもない。文。須田さんはどうしている?」

「学校にはきちんと通っています。時々、友達と遊んで帰ることもあるみたいです」

「彼女はそれでいい」


 あかりにとって普通の生活をできる限りさせてあげたい。


 支配下においているとはいえ、あかりを縛るつもりはなかった。


 あかりはあくまで一般人であり、拘束をするつもりはない。


「お願いですから、休めるときは休んでください」


 涼の言葉に澪は手をあげて答えた。


「文。違和感あったよな?」

「うん。澪様は私たちに何かを隠している」

「文はどうする?」


 この不安を払拭するかどうか。


 「私は――」


 例え、どのような結果になろうとも。


「澪様を見守ろうと思う」

「そうだな。澪様を支える。それが、俺たちの仕事だ。お前も変わったな」

「どのように?」

「強くなった。俺を追いかけ回していた頃とは違う」

「澪様のためではなく、自分のためにも強くならないといけなかったから。兄さんは変わらないね」

「俺も変わったさ」

「ううん。仲間思いのところは変わらない」

「別々な場所にいても、俺たちは兄弟だ。それだけは、変わらない」

「ありがとう」


 二人は星空を見あげた。

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