第一章

 あかりは名刺を持ったまま、寮の部屋でうろうろしていた。結局、澪に貰った名刺は捨てずに取っておいたままだった。


 電話をかけるか。


 やめようか。


 澪に上着を返すためだが、名刺に書いてある電話番号を入力しても、携帯電話の発信ボタンを押す勇気がない。あの冷たい眼差しに、耐えられる自信がない。


 うまく会話ができるかどうかの勇気がなかった。どうすればいいのか、考えがまとまらない。

 勇気ででない。


*************


「何を迷っているのですか?」


 本橋家から送られてきた執事――野田文に突然声をかけられて、あかりは発信ボタンを押してしまう。


 澪はすぐにでた。


『どうぜ、文あたりに驚いてかけてしまったのだろう?』

 

 澪の淡々とした声が聞こえてくる。


「はい――そのとおりです」


 すでに、澪に読まれておりあかりは情けない気持ちになる。


『いい加減彼女の気配になれろ』

「一般人の私には無理です」

『雑談はここまでにして、用件は何だ?』

「借りていた上着を返そうと思いまして」


 緊張で声が震えているのがわかった。


『別に処分してくれてもかまわない』

「私は気になります」

『真面目だな』

「澪様。どうしますか?」


 話しにならないと思ったのだろう。文が漆黒の瞳を細めて、あかりの携帯を奪う。


『文』


 澪の一言で文が判断する。


「私が案内いたします」

「頼む」


 文は携帯を切りあかりに返した。


 あかりが入室している寮は一人部屋で、誰も文句を言う人はいない。


******************


「準備してください」

 

 文の言葉にあかりは慌てて準備を始めた。


「え――マンション?」


 文に連れてこられたあかりは、マンションを見あげた。よく、ドラマや映画で見る大きな屋敷を想像していた。


 それに、沢山の部下が並んでいて頭をさげている印象しかなかった。


「そこまで、驚くことでしょうか?」


 文が聞いてくる。


「いや、意外で」

「テレビドラマと現実は違います。澪様。須田様をお連れしました」


 文がドアをノックする。


「――入れ」

「失礼いたします」


 文は一礼して部屋をでた。


 澪の机には大量の書類が積まれていた。視線は常に書類に向けられており、あかりを見ることはない。文章を見るスピードも速く、名前を書く文字は達筆だった。


 澪は読み終わった書類とまだのものをわけていく。ある程度、仕事に慣れている者の行動だった。

 

 部屋の中もテレビもなく本棚と洋服を入れるタンス、パソコン、鏡、仕事用のデスクぐらいしか置かれていなかった。本当に仕事のみに特化して利用している部屋なのだろう。

 

 寂しい部屋だなというのがあかりの第一印象だった。


「あ……あの。上着、ありがとうございました」


 緊張でうまく声がでない。そこで、初めて澪があかりを見た。


「気にしなくていいと言ったのに」


 澪は椅子から立ちあがった。


 目の前に立たれて、あかりは身体をピクリと震わせる。澪の細い指があかりの首筋をいたずらになぞる。


 あの男たちのように、不快ではなくて。


 ぞくぞくとした快楽が身体を駆け巡っていく。


 全身から力がぬけていく。


 澪が不意にあかりの唇をふさぐ。


「ん――ぅ」


 大人のキスに先ほどからまともに立っていられない。へたすれば、呼吸さえも奪われてしまいそうだった。崩れ落ちそうになる身体を、澪が背中に腕を回して支える。身体に甘いしびれが走る。

 何もかもあかりにとって、初体験だった。


*******************


 その間に、澪は消毒をするとあかりの耳にピアスの穴を開けた。本橋家の家紋――桐の花が描かれたピアスを通す。


 あかりはようやく解放された。


 どうやら、ピアッサーから注意をそらすための行動だったらしい。一瞬、澪に抱かれるかと思った。


 心臓が未だに激しく音を立てている。それぐらい、強烈なキスだった。


「勘違いするなよ。私は未成年を抱くほど落ちぶれてはいない。耳を確認してみろ」


 澪に促されてあかりは耳を触る。


 硬い石の感触があった。


「ピアス?」

 

 あかりは姿見の鏡に、自分の姿を映す。雑貨店などで売っているピアスとは違う。


 重厚感があり高級そうだった。貫禄があり、歴史を感じさせた。


「須田あかり。お前を本橋家の支配下におく」


 こちらの監視下においておけば、相手は近寄ってこない。好き勝手にはできない。  

 戦えないあかりに澪がとった防衛策だった。


*******************


「どういうことですか?」

「白蘭会に入ったということだ。あくまで仮の契約だが」

「私、やくざになったということですか?」

 

 あかりの頭が真っ白になる。混乱して話についていけない。誰かに助けを求めようにも、ここにはあかりと澪しかいない。


 言葉がでなかった。


「戦えと言っているわけではない。自分の身を守るためだと思うといい。反論は許さない。自分の運のなさを恨め」

 

学校もここから通えと言っているのだろう。


「引っ越しとかどうすれば……?」

「涼たちが必要最低限の物はそろえてくれている」

「あの……涼とは誰のことでしょうか?」


 あかりは恐る恐る澪に尋ねる。


「ああ。文の兄だ。文と同じく、私に仕えている。いずれ、涼とも会うことになるだろう。それと、警告だ」

「警告ですか?」

「蒼蘭会には気をつけろ」

「兄のグループだ」

「お兄さんがいるのに、一緒に暮らしていないのですね」

「あの兄の怖さをいずれ、知ることになるさ」


 澪は仕事に戻る。


 あかりは邪魔にならないように、静かに部屋をでるしかなかった。


              


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