成人の日

 その日、播磨は学校からの配布物を届けるために重松の家へ向かっていた。

 生徒会長で公共の仕事を請け負い慣れている播磨に、担任は当然のように配達の仕事を頼んだ。

「お前、確か重松と同じ中学出身だったろ? 悪いけど、届けてやってくれないか。進路希望を全員から漏れなく聞き取らなきゃならんのだ。高二も後半、将来を決める大事な時期だってのに、あいつ最近ますます学校サボる日が増えてるな。いくら咎めても、教師の言うこと聞く気なんか爪の先ほどもなさそうだし——重松のお父さんって、霞ヶ関のお偉いさんだよな? 親子で正反対なタイプってのもあるんだなあ」

「……親がそうだから子供がそうなる、ってのもあると思いますが」

「ん?」

「いえ、なんでもないです。帰りに届けますので」

 播磨は配布物を受け取ると、いつもと変わらない穏やかな笑顔でそう答えた。


 自宅の最寄り駅を降りると、播磨はいつもの道と反対方向へ自転車を漕いだ。重松とは中学時代に同じクラスになったことがあり、家の場所も知っている。駅から5分ほどの高級住宅街にある大きな邸宅の前に自転車を止め、立派な門を潜った播磨は玄関の呼び鈴を押した。

「はい」

 細い声がインターホンに応答する。

「大和くんと同じクラスの播磨と言います。高校から預かったものがあって、届けに来ました」

「——今開けます」

 玄関のドアを開け、華奢で小柄な女性が現れた。

 その眼差しは不安げに揺れている。

「あの……大和、今日も学校に行っていないの?」

「え……はい、朝からずっと来ていませんでした」

「……」

 その人は、小さな白い顔を俯ける。

 緩いウェーブのかかった栗色の髪が、柔らかなベージュのカーディガンの肩に一筋落ちかかった。黒い細身のセーターに淡いグレーのロングスカートが、ほっそりとした身体の線を一層強調し、大きな玄関のドアを支える腕が心許なく思えるほどだ。

 長い睫毛が伏せられ、明るい茶色の瞳から光が消えた。

「あ、あの……これ」

 播磨は、思い出したように慌てて鞄に手を突っ込むと、担任に渡されたA4サイズの封筒をガサガサと取り出した。

「あ……ごめんなさいね。お友達が届けに来てくれたって、大和に伝えます。えっと……もう一度、お名前いいかしら?」

「播磨です。播磨 正樹」

 なぜだかよくわからないまま、播磨は自分のフルネームをはっきりと彼女に伝えた。

「播磨 正樹くんね。わざわざここまで届けてくれて、ありがとう」

 封筒を受け取り、彼女はやっとにっこりと微笑んだ。

 微笑んでも隠すことのできないその疲れた表情を、播磨は思わずじっと見つめた。

「あの……」

「え?」

「いえ……

 もし、大和のことで、何か心配なこととか、学校でのあいつの様子とか、気になるんでしたら……俺、あいつのこと、少しは教えられるかもしれないと思って」

「——え……?」

 彼女の瞳に、驚きと微かな期待の混じり合った色が浮かんだ。

「担任も、生徒の一人ひとりの様子なんてまともに見てないから……

 俺のLINEと携帯の番号、伝えときますから……もし何か心配でしたら、俺にメッセージでももらえれば、少しはお役に立てるかもしれません。

 あ、もちろんあなたがご迷惑でなければ」

「……ありがとう」

 息子の同級生の思わぬ言葉に緊張が途切れたのか、彼女の表情が柔らかく変化した。

「あの子、最近どんどん様子が変わってしまって……父親と同じ道を目指していたはずが、急に卑屈になって、何かを諦めたような投げやりな言葉や乱暴な行動が増えて。

『どうせお前には無理だ』って、夫があの子に言ったのよ。はっきりと。毎日深夜まで帰らない父親が、たまたま息子の顔を見た時に言う言葉じゃない。——親として、絶対に言ってはいけない言葉だったのに。

 なのに、私は夫に一言も反論できないの。以前言い合いになった時に、夫に激しく掴みかかられたことがあって——それからは、あの人の機嫌を損ねるのが恐ろしくて。

 最近は、大和から『ババア』って怒鳴られるのも、もう慣れてしまったわ。私は、あの子を何とか支えて、励ましたいのに……」

 彼女は、何かたがが外れでもしたかのようにボロボロと呟きを零す。

 その細い肩が小刻みに震えていることに、播磨は気づいた。


「——あの。

 何かあったら、電話でも、メッセージでも、なんでもください。別にどんな内容でもいいです。

 どうせ深夜まで勉強してますし、何時でも大丈夫ですから」

 気づけば、そんなおかしな言葉が自分の口を衝いて出ていた。

 あまりに突飛な申し出だとわかっていても、言わずにはいられなかった。

 力のこもった播磨の声に、彼女は我に返ったように播磨に視線を合わせた。

「やだ、ごめんなさい。変なこと喋っちゃって。こんな恥ずかしい話、ここだけの秘密にしてね。お願い。

 ——ありがとう、播磨くん」

 青ざめた頬でぎこちなく表情を強張らせながら、それでも彼女は何とか口元を引き上げて微笑んだ。





 冷たい雨の降る成人式の式典が終わり、浴びるように酒を飲んだ大和は、夜遅く帰宅した。一浪して何とか二流大学に入ったが、講義などまともに受ける気にならず、アルバイトもろくに続かない。

 親のせいだ。鬼のように冷徹な父親と、いつも辛気臭え母親。

「成人式とかまじうぜえ……なんの式だよ、ったく。二十歳はたちがなんだっての」

 荒々しく玄関を開けてドカドカと廊下を歩く。

 キッチンの食器棚からグラスを取り水を飲もうとして、ふとダイニングテーブルの上に何かが置いてあるのが目に入った。

「なんだこれ」

 それは、離婚届だった。

 既に母の名前の記入と押印が済んでいる。

 その横に、小さなメモ書き。


「————」

 突然、喉が詰まるような感覚を覚え、大和はメモ書きを乱暴に掴み、震える指で中身を読む。


『大和、成人おめでとう。あなたも、もう大人ね。

 ずっと私の心を支え続けてくれた人のところへ行きます。あなたがこの手紙に気づく頃には、もう日本を発っていると思うわ。母さんが英語堪能なんて、知らなかったでしょう?

 私の心の穴に気づき、私の言葉を聞き、私をひとりの人間として扱ってくれたのは、彼だけでした。彼が見守ってくれたから、私は今日までこの家で耐えることができた。

 私も、今日からはこの檻から自由になろうと思います。 はるか


 鞄からスマホを掴み出し、母のスマホへ電話をするが、電源は切れている。馬鹿のように繰り返し通話ボタンを押したが、結果は変わらなかった。

 父へも電話をしたが、出るはずがない。いつものことだ。


「おい、ふざけるな——!!

 どこのどいつだよ、その男は!?


 ……母さん……」



 スマホを壁へ投げつけ、大和は頭を抱えて床に蹲った。




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