しろぎつね

ひとは常に、手の届かぬものを追い求め。


指をすり抜けていく幸せに打ちひしがれ。



犯した罪を背負いながら。




タツは、ある村の娘。

その美しさも、山深い村では意味も持たぬ。

両親の畑仕事を覚え、やがて誰よりも働き、肌は日に焼け手足は逞しく。

まるで野山の生き物のように強く美しい女に育った。


隣家の男と結ばれても、日々の暮らしは何も変わることなく。

日が出れば起き、畑に出て、飯を炊き、夫と夜を営み。

また朝が来る。


朴訥で真面目な夫。

淡々と穏やかな日々。

ただ——タツには未だ子ができぬ。



ある春の日。

夫が足に傷を負い、タツはひとり畑仕事へ出た。


その帰り、山中の細道で足を滑らせ——

タツは深い崖を転げ落ちた。



気がつくと、頭の上に小さなろうそくが灯っている。

小さな小屋のこざっぱりとした床に、タツは寝かされていた。


「気がついたね」

振り返ったのは、美しい男。

囲炉裏の火影で、よく見えないが——

雪のように白い肌と、涼やかな目元。淡い桃色の艶やかな唇。


「怪我をしている。動かない方がいい」

手足に負った怪我は、丁寧に手当されていた。



男は朝早く外へ出かけ、夕暮れに戻る。

毎日タツの世話を黙って続ける男に、タツは見蕩れた。



日にちが経ち、怪我は治った。

「もう帰れるね」

男はそう微笑む。


「帰らない」

タツはひとこと、そう答えた。



その夜、タツは眠る男のそばへ寄ると、唇を重ねた。

とどめることなど、もうできない。

そのしなやかな身体を抱きしめ、首筋へ喰らいつく。

男は驚いたように僅かに抗ったが——やがて女を受け入れた。


肩も胸も、光る雪のように白く。

雪の色のまま、その身体は次第に熱を持ち。

なめらかな肌は、タツの指のひと撫でにさえ微かに震え。


涼やかな瞳と、淡い桃色に艶めく唇。

それはひんやりと甘く。



猛る男のように、タツはその身体を貪った。

——毎夜のように。


そして夜ごと、タツがその甘さに満たされた頃——

男はおもむろに身体を持ち上げると、タツを優しく覆った。



タツと男は、夫婦めおとのようだった。

ともに畑を耕し、ふたり分だけの糧を得て。


タツは知っていた。

——この幸せは間違いだと。



夜ごと、タツは苦しい息で男に口走った。

「私を一緒に連れていって。

さもなければ——今ここで、私を殺して」


男は、その言葉にいつも静かに微笑んだ。

タツの願いは全て叶えたが——この求めだけは、聞き入れなかった。



季節は過ぎ、また巡って来た春のある日。

その日から、男は戻らなかった。



タツは身籠っていた。


驚くほどすんなりと、その子は生まれた。


それはそれは美しい、雪のように清らかな男の子。



赤子を抱き、月を見に外へ出た。


そこには——光るような白い生き物の影。

こちらを見つめている。


——なんという長い一瞬。


その白い光は、瞬く間にするりと茂みへ消えていく。



あなた——!

叫ぼうとしたタツの声は、眼に見えぬ何かに鋭く制された。

——呼ぶな。

もう戻らねばならない——。



この世のものと思えない美しいしろぎつねを見ることは、それきり二度となかった。




息子は成長した。

男と生き写しの、それは美しい青年に。


タツは苦しんだ。

男が再び自分のもとに現れたような幻想に。


畑仕事を終え、共に歩く山道。

「母さん」

ぬかるんだ細道で、自分へ差し出される息子の手。

こわごわ、自分の手を預ける。


この手を強くたぐり寄せることは、決して許されない。

——その面影がどんなに恋しくても。



そして間もなく、この子も自分のもとを旅立つ。——後には、何も残らない。


それでも——

その日が来るのを、ただ待つしかなく。

そこから先は、たったひとりで。

タツは静かに老いていくだけ。



タツの賜ったものは、温かい幸せだったか。

それとも、毒のように甘い罰だったのか。



それは——タツにしかわからない。

そしてタツにも、わからない。





ひとは常に、手の届かぬものを追い求め。


指をすり抜けていく幸せに打ち拉がれ。



犯した罪を背負いながら。





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