第6話 更に最低な人

「あたしに用なんですか? 広田さんの担当は堀川ですけど」

 事務所を見回したが、運悪く堀川の姿は見えない。いたら有無を言わさず代わってもらったのに。

「今日は仕事と直接関係ないんだ。今日、琉花はTDの絵を見たんだろ」

「ええ。確かに見ましたよ。でも堀川も一緒にいましたから。堀川から聞いたらどうですか」

「もちろん堀川君からも聞いたよ。だけどあいつじゃ要領を得ないし、君から聞いた方がわかりやすいしね」

 このプロジェクトへ広田が参加すると聞いたとき、本気で辞めようかと思ったときもある。しかし向こうは琉花が事務局にいることを承知で参加してきたのだ。逃げたと思われるのも癪だった。それに狭い業界だし、今後、彼とバッティングしなければならない事態も何度か出てくるだろうと思い、踏みとどまった。

「ねえ、聞いてんの?」

 この軽さと図々しさ。二年前と変わらない。琉花は電話をたたき切りたい衝動を抑え、これは仕事だと、心の中で呪文のように二回唱えたあと、TDについて説明した。

「ふうん、そうなんだ。ありがとう。ところでさ、今日は暇?」

「え?」

「久々に、二人で飲みに行かないかと思ってさ」

「行きませんっ」

 力任せに電話をたたき切った。やっちまったなと思いながら、視線を上げたら由里子と目が合った。さっと目をそらす。

 広田とあたしの関係が、訳ありだとばれちゃったなと思う。まあいいか。どうせ十月を過ぎたらこのプロジェクトも解散なんだし。

「ちょっと外のコンビニで、コーヒーを買ってきます」

 琉花は立ち上がり、バッグを持って事務所を出た。エレベーターに乗り、一人になると、壁にもたれかかり、心臓が落ち着くのを待った。

 広田亮、三十四歳。元々はコミックアートから出てきた作家で、二十代から注目を浴び始めた。現在ではギャラリーで単独の個展を定期的に行い、過去にニューヨークでも個展を開催したこともある。端正なルックスでもあり、女性ファンが多く、何度か大手企業の広告に使われたこともある。

 ただし、彼はクズだ。

 事務所のあるビルを出て、斜め向かいにあるコンビニへ向かう。強い日差しと、足下から立ち上ってくる午後の熱気で、頭がくらくらしてくる。

 そういえば、あのときもこんな季節だったなと思い、周囲の暑さとは違う種類の熱が体の芯から脳天に向かって立ち上っていく。

 コンビニのドアを開け、冷気を浴びた。ほっとすると同時に、体が少し重くなっているのを意識した。こうも暑い寒いを繰り返すと、体がおかしくなるなと思い、あえてホットコーヒーを購入して、イートインスペースに座って飲み始めた。

 スマホを適当にいじっていると、広田と付き合っていた頃の記憶が嫌でも蘇ってくる。

 広田と最初にあったのは雑誌の取材だった。その時に連絡先を交換し、その日のうちに食事の誘いがあった。ルックスもよいし、以前から気になっていた作家なので即諾した。程なく琉花は広田と付き合うようになった。今から思えば、広田にとって自分は、ネギを背負ったカモだったんだろうと思う。

 琉花は雑誌企画会議に参加するたび、広田の作品を載せるよう提案すようになった。そんなある日、会議が終わった後、年上の女性ライターから呼びかけられた。

「あんた、広田と付き合っているんだって」

 彼女は薄笑いを浮かべながら、冷たい目で見ていた。

「あ、はい」

 戸惑いながら頷くと、口元の笑みが拡がった。

「人が誰と付き合おうと関係ないけどさ、あいつと付き合うのはおすすめしないわね」

「どうして……ですか」

 不穏なものを感じながら、恐る恐る尋ねた。彼女は目をいやらしく輝かせながら、広田の女性関係を話し始めた。

 彼女の話によると、広田は現在琉花を含めて、四人の女性と付き合っているという。一人は前夫から財産分与で得た莫大な資産を持っている四十代の女。もう一人は琉花も面識のある三十代の女性編集者、もう一人は二十歳の女子大生という。広田は友人に、四十代の女性は財布、女性編集者と琉花は広報委員、二十歳の女子大生はマスコットと呼んでいるらしい。

「よくわかんないけどね、あんた、うまく使われちゃっているんじゃないの」

 頭が真っ白になり、呆然とした目になっている琉花に、押し殺すような笑い声を浴びせ、女は去って行った。

 大阪から帰ってきた広田を、東京駅で待って詰問した。最初は全否定して、告げ口をしたライターの名前を言い当てた。彼曰く、かつてそのライターと付き合っていたが、別れた後、ストーカーまがいに自分の悪口を周囲に言い立てて、迷惑しているとのことだった。しかし、あらかじめ連絡を取っていた女性編集者も現れると、言い逃れしようがなくなり、逆ギレした。

 それからしばらくの間は記憶が飛んでいる。気づいたときは一人、炎天下の八重洲口でぼんやり立っていた。手にはなぜか、サックスブルーをした布の切れ端を握っていた。それが広田の着ていたTシャツだと気づいたとき、ひどく汚らわしく思え、どこかへ飛んでいけと、投げつけるように離した。切れ端は意志に反し、目の前ではらはらと、力なく落ちていった。

 怒り、悲しみ、屈辱が溢れかえり、いつの間にか声を上げて泣いていた。

 サボっていても、ろくなことしか思い出しやしない。事務所へ戻ろう。琉花は立ち上がり、飲みかけのコーヒーを持ってコンビニを出た。

 再び強い日差しを浴びたときだった。周囲の風景が揺れたかと思うと、大きく歪み始めた。やばい、熱中症を起こしたのかと思う。身構えたが、意外にも足下がふらついている感覚はないし、意識もはっきりしている。

 周囲の風景が、流れる水へ水彩絵の具を落としたように、左右に伸び始め、形を崩していく。

「何? どういうこと」

 形が消え、色彩だけが混じり合い、輝きながら流れている。

 やがて色彩は消え、真っ白に輝く世界に変わっていったかと思うと、再び色彩が現れる。

 色彩は輪郭を形作り始める。しかし、それは今まで見ていた街の風景とは違っている気がした。

 思わず紙のコーヒーカップを握りしめてしまい、コーヒーが手にこぼれた。

「熱っ」

 思わず手を離した瞬間、流れが止まった。

 世界が巻き戻されるようにして、一瞬で風景が戻った。

 強い太陽の日差しが戻り、まぶしくて目を瞬かせた。目の前を、カゴを押す宅配便の男が歩いていく。心臓が激しく鼓動している。

 足下を見る。こぼれたコーヒーが水たまりを作り、琉花のスニーカーの縁を濡らしていた。蓋が外れて空になったカップを取り上げ、コンビニのゴミ箱へ棄てた。

 一体あれは何だったのだろうか。今日は朝のTDから始まって、さっきの広田の件まで、今日はいろいろなことが起き過ぎた。ストレスで精神的にどうかなってしまったのだろうか。

 もう一度コーヒーを買う気にもなれず、重い足取りで事務所のあるビルへ戻った。壁のボタンを押し、エレベータが降りてくるのを待ちながら、さっきの光景を思い出す。

 あの色彩に、何かが見えた気がした。

 羽ばたこうとしている鳥。それは朝に見たTDの鳥を思わせた。

 とうとうあたしも絵の妄想を見るまでになってしまったのか。ある意味、美術ファンとしては本望なのかもしれないが、こんなことが何度も続くようだったら医者に診てもらった方がいいかもしれない。琉花は開いたドアに滑り込み、五階のボタンを押した。

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