第5話 最低な人
すぐに芝山の携帯へ電話を掛けたが、繋がらない。すでに車へ乗ってしまったのだろう。律儀な芝山のことだから、運転中は間違いなく電話へ出ることはない。清水区の現場に着いてから、携帯をチェックしてくれればいいのだが、スルーしてひっこりーに出来ない説明をされたら、話がややこしくなる。加えていくら温厚な芝山だとしても、わざわざ出向いてメンツを潰される形になるのだから、謝らなければならない。
時計を見るとすでに十時四十五分だ。十一時に市立美術館のスタッフと打ち合わせをしなければならない。ここから市立美術館まで歩いて約十分。もう、出て行かなければ間に合わない。志織にメールを送り、芝山の留守電にひっこりーと合うのは待って欲しいと告げた。堀川には芝山から連絡があったら説明してくれと頼んで事務所を飛び出す。
約束の三分前、汗だくで市立美術館のある葵タワーへ飛び込み、ほっと息をついて打ち合わせに入る。終わったのは十一時五十五分。芝山の携帯へ電話を掛ける。
「本当に申し訳ありません」
「大丈夫ですよ。事情は堀川君から聞きました。ひっこりーさんにも説明しましたし、作倉さんにもお詫びの電話を入れておきましたから」
「ありがとうございます」
芝山の穏やかな声を聞いて、思わず涙が出そうになるが、駄目だ駄目だと自分を叱咤する。もう一度お詫びを言って電話を切ると、腰の力が抜けてきて、ロビーの椅子にどっかりと座り込んだ。
――アーティストっていうのはね、みんな人生を掛けて作品を作り上げているの――
志織の言葉が蘇り、改めて心に突き刺さった。アーティストとして成功して高収入を得るなんて、ほんの一握りでしかない。宝くじで高額当選するよりも難しいだろう。それでも彼らが多くの時間と手間を掛けて作品を作り続けるのは、芸術を愛し、湧き上がる情熱を抑えられないからだ。作品の優劣とは別に、アーティストとして活動する人たちは、それだけで尊重されなければならない。
あたしも考えが足りなかった。反省しなければと思う。堀川へ昼食を食べて事務所へ戻る旨を伝え、葵タワーを出た。
事務所の近くにあるそば屋へ立ち寄り、ほとんどメニューも見ずに、梅おろしそばをたのんだ。暑くなってから、脂っこい物は受け付けなくなっている。体力を付けるため、夜はそれでもなるべく肉を食べるようにしているが、昼は胃がむかついて午後に響くので、ほとんどそばかうどんだ。
食事が出てくるまでの間、スマホからSNSをチェックする。TDの絵はすでにインスタやツイッターに画像がアップされていた。三十分前のリプライには、もうシートで隠されちゃったと書いてあったので、老人が琉花の忠告を守っているのがわかった。
程なく出てきた梅おろしそばを五分で食べ終え、会計をして店を出た。熱い太陽光を浴びながら、事務所のあるビルへ駆け込み、再び冷気に晒される。エレベーターへ乗り、五階の事務所へ戻った。照明の消された事務所では薄暗い中、芝山が一人でパソコンのモニターへ向かってメールを打っていた。
「芝山さん。先ほどは申し訳ありませんでした」
琉花は改めて芝山に頭を下げた。芝山はモニターから視線を移し、穏やかな笑みを浮かべた。
「いえいえ、作倉さんもこういったプロジェクトではプロですが、事務局の大変さはわかっていると言っていましたよ。だから高岡さんには注意をしたけど、決して怒っていないと伝えてくださいと言っていました」
「はい、ありがとうございます」
もう一度頭を下げる。
「それと別件ですが、ちょっと私の母親の具合が悪いと病院から電話がありまして、午後から早退させてもらいます」
「はい……。承知しました」
「申し訳ありませんけど」
笑みを浮かべたまま呟く芝山に、反射的に困惑した顔を浮かべてしまう。休みは労働者に与えられた権利だし、母親の具合が悪くて早退するならなおさら仕方の無いことだ。
しかし、こちらも死ぬほど忙しいのだから、もう少し申し訳なさそうに言ってもいいではないか。少なくとも、微笑みながら言う話ではない。琉花は午後からスケジュールを思い出しながら、芝山がいない場合に不具合がないか検討する。
問題なし。
再び頭を下げて、自分の席へ戻った。あー、さっき感謝したのが損した気分だ。漫然とメールをチェックしながら、芝山に対してふつふつと怒りが涌いてくる。午後一時になって仕事を再開すると、芝山はパソコンをシャットダウンして、そそくさと事務所から出て行った。
「芝山さんもマイペースよねえ」
背後から声を掛けられて振り返る。いつの間にか背後に女性が立っていた。池谷由里子、琉花より二十年上の四十九歳の臨時職員だ。少々小太りで、化粧気のない頬に、所々シミが目立っていた。今日はグレイのスラックスと薄いピンクのブラウスで、クリーム色のカーディガンを羽織っている。
「これ、今度の会議に使う資料です」
机の横にホチキスで閉じた資料の山を置いた。
「ありがとうございます」
「私も役所関係の仕事って初めてだけど、こう偉い人が休んでばかりいたら、民間なら問題になるのにね、公務員って違うのかしら」
あからさまに呟く由里子にたいして、曖昧に頷く。彼女は地元採用で、主に琉花たちの補助的な仕事を行っている。大学生の息子が東京にいて、仕送りの足しにするために働いているのだという。
部数をチェックして明日会議へ持って行くために紙袋へ資料を入れた。午後は打ち合わせもないので、返信しなければならないメールを打ち始めた。
午後三時、午前中の遅れをある程度取り戻し、仕事の目処が見えてきた。ひっこりーの所に行って、警察に申請するための打ち合わせをしなくちゃと思っていると、携帯電話に着信があった。プライベートで使用されている物だ。メールやLINEならともかく、昼間自分の携帯に着信があるなんて滅多にない。訝しげに思いながら、電話を取った。
心臓が一回、大きく鼓動した。登録されていない番号だったが、見覚えはあった。二年前に削除した番号だった。悩んだが、そのまま放置した。三十秒ほど鳴り続けたが、ようやく諦めたのか、バイブレーションが止んだ。ほっと息を吐く。
今度は事務所の固定電話が鳴り始めた。
「高岡さん、広田亮さんからお電話が入っています」
電話を受けた由里子が声を掛けた。再び、心臓が一回大きく鼓動した。電話の保留音が赤く点滅している。生々しく、そして苦々しい記憶が蘇り、心臓の鼓動する感覚が、明らかに早くなっていた。受話器を取り、保留を解除した。「高岡です」
「久しぶり、広田です」
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