第4話 作倉志織、怒る
「ひっこりーさんかな。清水区の会場でやる予定のアーティスト」
隣にいた芝山が呟いて、腑に落ちた。ひっこりーの本名は町田祐介だ。
「あ、きっとそうですね。ありがとうございます」
琉花は慌てて受話器を取り、保留の点滅が付いているボタンを押した。
「事務局の高岡です。何かありましたか」
「実は今度ここに設置する作品の件で相談がありまして」
琉花は受話器を左手で持ちながら、右手でマウスを操作して、ひっこりーのファイルを呼び出した。モニターに彼が提出した完成予定図のスケッチが映し出された。鹿やライオンといった野生動物が、キラキラと輝いている。面を特殊なフィルムで覆った動物の張り子を作り、様々な照明を使って輝かせるという展示物だ。
「この中で猿を設置する予定なんですけど、隣の人に反対されちゃって」
「でも、展示物については商店街の方に了解を取ってありますし、両隣の商店主さんも納得しているはずですが」
「実は予定変更がありまして、猿を歩道に出して置きたいんです。でもそれだと歩行者とか自転車にぶつかって危ないから止めてくれって言われているんですよ」
受話器を手で押さえ、ため息をつく。
「高岡さん、どうしましたか」
「ひっこりーさん、展示物は定められた敷地内に収めると規約に出ているはずです」
「ちょっとだけなんですよ。いいじゃないですか」
「よくありません」
「でも、看板とか商品なんかを、歩道に出している店とかあるじゃないですか」
「展示物はトイレットペーパーとかじゃないんです。ああいうのは本来警察へ許可が必要で、黙認されているだけなんですからね。今回のイベントは役所が関わっているんですから、コンプライアンスは最優先されなければいけないんです」
「じゃあ警察に許可を取れば」
「もう出来ません。企画段階でそういう提案があれば検討しましたけど、開催まであと三ヶ月を切っているんです。正直、私たちもそこまで行う余裕なんかないんですから」
ひっこりーはまだ何か言いたそうな雰囲気だったが、半ば一方的に電話を切った。つい声を荒らげてしまった自分に嫌悪感が染み渡り、また、ため息をつく。まだ仕事が始まったばかりなのに、今日は何回ため息をついたのだろうか。
ひっこりーの作品は、過去にもいくつか見たこともあったが、個人的に嫌いな作家ではない。テクノロジーと野生をテーマにして精力的に作品を作り上げており、若手でも注目株の一つだ。しかし、簡単に警察の許可をとればなんて常識のないことを言われれば、腹が立ってくる。
「今度は何が起きましたか?」
芝山が心配そうに琉花を覗き込んだ。琉花は朝の件と合わせて説明をした。
「ひっこりーさんの件に関しては、これから僕が行って改めて説明してきましょう」
「はい、よろしくお願いします」
芝山が自分の席に戻ってハンガーに掛けてあったジャケットを手に取り、事務所から出て行った。彼はアートに関する知識は皆無だったし、大きな企画を仕切るという仕事も初めてだということもあり、佇まいからして頼りなさが滲み出ていた。そのせいで、本来芝山経由で来なければならない情報や外部からの伝達事項が、琉花へ直接来ることが度々ある。こういう流れはよくないと思いつつも、どうせ最終的に自分へ話が振られてくるのだし、いいかと思う自分もいた。
それでも芝山は市役所の人間だけあって、役所内の他の部課に対する根回しはきっちりやってくれていた。
それに比べて、この男はなんとかならないのだろうかと思い、隣の席に座っている堀川をチラリと見た。彼は電話に出ながら、困った顔をして、盛んに頷いていた。彼とは一年以上、一緒に働いているが、怒ったり、声を荒らげたりしたのを見たことがない。優しい性格なのかもしれないが、あれこれと指図したり調整したりする際、聞き分けのない相手が出てくる場合もある。そんな時は強く言うことも必要だが、彼はできなかった。最終的に困り果てて、琉花に助けを求めてくる。ただ、現役で国立の美大を出ているだけあって、美術に関する知識は豊富だ。アーティストたちとも話が合う。飲み会で、アーティストたちと堀川が話をしていると、どことなく阻害感を覚えてしまうときがある。文系の大学を出た自分の限界を感じるときだった。
「高岡さん」堀川が受話器を押さえて話しかけてきた。「作倉さんが代わってくださいと言っています」
作倉志織。名前を聞いた途端、胃がぎゅっと詰めつけられる感覚を覚えた。琉花が頷くと、堀川は電話を保留にした。受話器を取り、保留を解除する。
「高岡さん、おはようございます。作倉です」
快活で、ややかすれた女性の声が聞こえてきた。
「おはようございます。今日は何か」
「ひっこりー君の件を聞きまして電話しました」
このオバサンに話がいっちゃったのか。琉花は心の中で舌打ちした。
「あなた、ひっこりー君の提案を時間がないからと言う理由で、はねのけたんですってね」
いきなり声のトーンが鋼のように硬くなり、冷たさを帯びる。
「あ……。はい」
「アーティストっていうのはね、みんな人生を掛けて作品を作り上げているの。その活動を事務方が時間がないから駄目だって言うのはどういう了見なの? あたしだって過去に何度も警察とやり合ってきたから、連中の頭の固さは重々承知よ。でもね、それを突破していかなきゃならないのが、あなたたちの役目なのよ」
志織という名前とは裏腹に、全然しおらしくない口調で責め立ててくる。
作倉志織は今年六十五歳で、静岡アートパーティー推進委員の一人だった。彼女は国内外の美術館で学芸員として勤務した後、フリーのキュレーターとして独立。海外を含むいくつもの芸術祭へチーフキュレーターとして運営に参加した。現在では評論をする傍ら、美術展の企画運営を行う会社を運営していた。キュレーションおよび、アート系の評論家としては重鎮である。彼女は琉花が目指しているキャリアの到達点であると同時に、彼女から無能の烙印を押されたら、この業界での出世の可能性がないことを意味する。
「申し訳ありません。実はTDの件で、いろいろとテンパっておりまして、つい拒否するような言動をとってしまいました」
「TDって。静岡にも出たの?」
「朝一に連絡を受けまして、私もさっき現場に行ってきたところです。TDSMの声明もアップされましたので、真正な物に違いありません」
琉花は詳細を説明した。
「画像は撮ったの? すぐあたしに送ってちょうだい」
「はい。すぐに送らせていただきます」
「頼むわ。それと、ひっこりー君の件にはきっちり対応してちょうだい」
「承知しました。失礼します」
電話を切り、大きく息を吐く。
「作倉さん、かなり怒ってましたけど、どうでしたか」
堀川が不安げな目で見ていた。
「さっきのTDの話をしたら、ひっこりーの件はそっちのけで食いついてきたわ。彼女がまだ知らなくてよかった」
そう言いながら、琉花はTDの画像を作倉のメールアドレスへ送るため、パソコンを操作した。作倉は美術関係者の中でも、いち早くTDを評価した一人で、関心は高い。
ただし、作倉の怒りはとりあえず回避したものの、ひっこりーの件については警察へ出向かなければならないだろう。申請書類の作成する時間を含めたら、いくつかの仕事を端折ったり、夜中に回したりしなければならない。頭が痛い。
「あっ」
思わず声を上げてしまい、一斉に琉花へスタッフの視線が集中した。
「芝山さんがひっこりーさんのところへ向かっていたんだ」
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