第3話 広がるTDの波紋
「あー、高岡さんですか、推進委員会の久賀です」
妙に甲高い男の声が聞こえてきた。
「おはようございます」
「実は両替町の居酒屋で落書きがされていたっていう報告がありまして、何かご存じですか」
「それはTDのことでしょうか」
「うんうん、そんなことをうちの子が言っていたねえ」
琉花はTDについて簡単に説明した。話し終えたが、久賀は押し黙ったままだ。
「もしもし――」
「高岡さん。あのさ、そういうことってすぐに僕へ連絡してもらわないと困るんだよね」
久賀の声が一オクターブ低くなる。彼の機嫌が悪い時の声だ。
僕にも立場ってものがあるんだからさ、全然関係ない人からこの話を聞かされて僕が知らなかったなんて、いい恥さらしじゃないですか」
「全然知らない人と言いますと?」
「大石さんですよ。あの子が興奮して喋っているんで、いったい何かと思いましたよ」
「そうですか」
奈那ちゃんか。ため息をつきたいところをぐっとこらえた。彼女は市が雇った臨時職員で、久賀の下で働いていた。美術好きの素直で好感の持てる子なのだが、周囲の空気を読まないところがある。久賀の性格なら、臨時職員の奈那に対して見下した発言をしているはずなのだが、特に気づくこともなく、気さくに話しているのだろう。
彼女なら、当然TDの話は承知しているはずだから、SNSでのTDSMの発言と両替町の騒ぎを結びつけたのだ。市役所で無邪気に話している奈那と、横でプライドを傷つけられ、むっとした表情でその様子を見ている久賀が目に浮かぶ。
「特に今回は警察も出ているそうですし、迅速に報告してもらわなければ困りますよ」
「はい。申し訳ありません」
言いたいことはいくつもあるが、確かに久賀の存在を忘れていたのは事実だ。絵を見た時点で一報を入れておけば、久賀がへそを曲げることもなかったはずだ。
久賀の説教は十分近く続いた。五分もすると話の内容は繰り返しになり、言葉が右から左にすり抜けていく。受話器を押しつけた耳が痛くなり、途中で電話をたたき切りたい気持ちになるが、落ち着けと言い聞かせながら、相づちを打った。
この件に関してレポートを提出するよう言われて、ようやく解放された。受話器を戻し、「あー」とオヤジのような低い声を出してしまう。
「大丈夫ですか?」
隣にいた堀川が、心配そうな顔をして声を掛けた。
「うん、ありがとう」
事務所にいる他の職員は、同情した顔を見せたり、無視して自分の仕事をしたりと様々だ。その中で奥の席にいたワイシャツとスラックス姿の男が立ち上がり、近づいてきた。
「高岡さん、今日の件について、私にも詳しく説明してくれませんかねえ」
芝山はわずかに微笑みを浮かべながらも困惑した目をして琉花を見ていた。
そうだ、最初にこの人へ報告を上げなきゃいけないんだったと思う。
芝山良平は市役所から派遣された男で、今年で五十歳。坊主刈りにした頭は、脳天の毛がほぼ抜けていた。肩書きは、静岡アートパーティー事務局長だ。琉花と堀川が事務局長補佐として働いている。
琉花は元々フリーのライターで、アート系の記事を書いたり、ムックの編集をしたりしていた。全く売れなかったが、現代アート系の作家を紹介する本も出したことがあった。微々たる印税収入から、交通費をはじめとする取材費用を差し引いたら、完全に赤字だった。ただ好きな作家の人となりを取材できた上、雑誌の記事とは違って、深い部分まで書けたので、仕事としては充実した体験だった。しかも推進委員会の出席者が、この静岡アートパーティーでの人選をするにあたり、琉花の本を読んで声を掛けてくれたのだ。
市役所との契約期間は一年半。フリーランスにとっては一年半の間、安定した収入を得られるのはありがたいことだし、このプロジェクトを成功させられれば名前も売れるし、次の仕事へのステップにも繋がる。
ただし、疲れていた。トラブルが続くと、キャリアも何もかも投げ捨てて、このプロジェクトから撤退しようと思ったことが何度もある。
芝山に今朝の話をしていると、電話がかかってきた。パートの由里子が取り、琉花を見た。
「あの……。お話中に申し訳ありません、町田さんからお電話が入っています」
「町田?」
関係者の名前を思い出すが、頭に浮かんでこない、誰だ?
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