第2話 謎のTD

「あのお爺さん、僕らの話を聞いたらノリノリになっちゃいましたねえ。まだ決まったわけでもないのに、工務店を呼んじゃって、壁を交換してくれだなんて」

「贋作の可能性もあるって言っているんだし、やるのはあの人の勝手でしょ。それに、本物だとしたら雨風に晒されないうちに保護出来るんだし、いいことよ」

 琉花はデジカメで撮影した画像を、早坂幸広のアドレスへメール添付で送った。彼は『トイレのドア』の絵が最初に発見された光家美術館の学芸員だった。

 光家美術館は明治時代から続く光家商事グループが運営する私設美術館で、東京都の丸の内にある。この美術館をたまたま訪れていた、映画監督の香田義広によって絵は発見された。美術館にあるトイレの個室を開けたところ、内側に、四十センチ✕三十センチほどの大きさで、南国らしきの虫の絵が描かれていた。大胆な配色と、細かい描写を省いたデザイン画を思わせる構図は、熊谷守一を彷彿させた。しかし、彼の絵よりもシャープなタッチで、より現代的な匂いを放っている。

 この絵に一目惚れした香田が、半ば無理矢理トイレのドアごと譲り受けたのが始まりだった。彼が絵をSNSで披露したとたん、大きな反響があった。香田は海外での映画祭でも多数賞を受けていたため、世界からも反応があり、画像は拡散された。

 程なくして、同じ作家の手によるとみられる作品がSNSにアップされるようになった。絵が発見された場所は様々だった。公園の滑り台、家の壁、公民館の廊下へ描かれている物もあった。不思議なのは絵が描かれていた場所に防犯カメラが設置されていたも関わらず、作者の姿が確認できなかったことだ。とあるデパートの壁に描かれたときは、防犯カメラの画像が一瞬消えた後に絵が現れていた。これは映像を加工しているんだ。いや、超常的な力が働いているんだといった議論が沸き起こり、更に注目されるようになった。

 琉花の携帯から着信音が鳴り出した。早坂からだった。

「高岡さん、画像を確認しました」

 興奮気味の声が聞こえてきた。

「あの画像、早坂さんはどう思いますか」

「現物を見ないと最終的な判断は出来ませんが、本物ではないかと考えます」

「私もそう思います」

「現在、このことを知っている方を教えてもらえますか」

「私ともう一人のスタッフに、描かれた壁を所有している方、それに警察だけです。もちろん、口外しないよう言ってあります」

「ありがとうございます。この後、TDSMから声明があるかですね」

 TDSMというのはSNSで立ち上げられたアカウントで、トイレのドアのスポークスマンの略称とされている。『トイレのドア』が話題に上るにつれ、偽物の絵もSNSに出回るようになった。明らかに稚拙な物から、本物かにわかに判別不明なものもある。それを区別したのがTDSMだ。彼は『トイレのドア』がこれまで描いた場所のリストを提示した。これだけであれば真偽は不明だったが、各絵の解説と特徴を発信し始めた。そのディティールは正確で、明らかに現物を見なければわからなかった。発見された場所を説明する文章も正確で、関係者でなければわからないような情報も含まれていた。

 これを機にTDSMが『トイレのドア』のスポークスマンである事が認知され、『トイレのドア』もTDと呼ばれるようになった。

「声明がアップされましたよ」

 堀川が興奮した声を上げながら、琉花に携帯電話の画面を見せた。


 本日、TDが静岡市葵区内において、画像をアップしました。

 題名は「極楽鳥の午後」

 多くの方に見ていただければ幸いです。


「早坂さん、TDSMから声明が出ました。所有者へ連絡を入れますので一旦切ります」

「はい、頼みます」

 琉花は電話を切り、さっき登録したばかりの老人の電話番語を呼び出した。すぐに出た老人に、TDSMから認知されたと告げると同時に、作品を保護するようお願いした。

「わかった。大工には、新しい壁はまだいいから、とりあえず絵だけ切りに来いって言っとくよ」

「ええ。お願いします。出来れば大工さんが来る間、シートで覆ってもらった方が安全かと思います」

 今年の冬、ネットオークションに出品されたTDの絵が、二百五十万円で落札されたとき、美術関係者に衝撃が走った。以前にもTDの絵がオークションに出されることはあったが、数万といったレベルだった。それがオカルト的な話題もあって、多くの人たちに知られるようになり、相場が急速に上がった結果だった。業界的には単なる希少品の扱いだったが、ここへきて、一部の画廊が触手を伸ばし始めていた。

 ここまで価格が上がり、誰の目にもさらされる状況なら、当然絵を盗む者や、いたずらで故意に傷つけようとする者もいる。TDSMのつぶやきをきっかけに、すでにファンが静岡へ向かっているはずだ。彼らが純粋に絵やTDに対して好意を持っていたらいいが、必ずしもそうとは限らない。TDの意向とは反するかもしれないが、第三者からはなるべく隔離した方がいい。

 老人との電話をしている最中、事務所の固定電話が鳴った。堀川が出て困った顔をして琉花を見始めた。老人との電話を切ると、受話器を押さえ「久賀さんです」と言った。

 琉花は小さく息を吐いた。「何の用なの?」

「今日のTDの絵について、話をしたいみたいです」

「代わるわ。電話を保留にして」

 堀川が受話器を置くと、もう一度小さく息を吐き、受話器を取って保留ボタンを押した。

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