引きこもりのプリンスは、冴えないあたしの夢を見る。
青嶋幻
第1話 TD現る
午前九時十分。夏の日差しは既に十分過ぎるぐらい強い。顔や首筋からにじみ出す汗をハンカチで拭いながら、まだ人通りの少ない繁華街を足早に歩いていく。
堀川の話からすると、恐らくこの近くだろう。琉花は今まで差していた日傘を畳み、肩にかけていたトートバッグへしまった。どうせ日傘を差して現場に着けば、肌のケアには無頓着な男性から、何を優雅な格好で来てやがると、冷たい視線を浴びるに違いないからだ。
伊勢丹の前を通り過ぎ、本通に向かって歩いていく。狭い道にさしかかるたび、堀川たちがいないか左右を確かめたが、それらしき人影は見当たらない。トートバッグから携帯電話を取りだして、堀川の番号を呼び出した。
「高岡です。伊勢丹の近くに来たんだけど、どこにいるの?」
「えーっと、伊勢丹のですね、玄関がありますね。あの裏手の入ったところです」
妙に間延びした声が聞こえてくる。しかも要領を得ない。朝から苛々させるんじゃないよと出かかった言葉をぐっと押さえる。
「近くに何か目印はないの」
「えっーとですねえ。飲み屋さんの看板が多いです。『ラウンジ・ブルー』っていう看板とか――」
「そこって、両替町の通りなの?」
「あ、そうですそうです」
先にそれを言えよと怒鳴りつけそうになったので、反射的に電話を切った。
左の道へ入り、足早に進んでいく。両替町の通りへ出たところで、パトカーが目に入った。小走りになって、人だかりになっている場所へ急いだ。
和風居酒屋らしき店の前で、制服の警官が二人と、見知らぬ老人が一人いる。そしておろおろと口を半開きにして目を泳がせながら、彼らを見ている男がいる。ひょろ長く痩せて、度の強そうなセルフレームの眼鏡をかけていた。堀川雅彦だ。
「おはようございます。静岡アートパーティー事務局の高岡です」
声を張り上げると、男たちが一斉に琉花を見た。二人の警官は落ち着いた表情。老人はいらついた顔をしている。堀川はあからさまにほっとした顔をしていた。琉花は警官と老人に名刺を差し出した。
「あんたたちも、この町を盛り上げてくれるのはありがたいんだけどね、人の迷惑を考えなきゃいかんよ」
「はあ……」
「大木さん、まだアーティストの人が犯人だって決まったわけじゃないんですから、落ち着いてください」
声を荒らげる老人を警官の一人がいさめた。
「だってよ、この間だってあんたたちが呼んだ奴がやらかしただろ。今日のもそうに決まってるさ」
琉花は思い出し、胃がぎゅっと締め付けられた。先日渡瀬紀彦というアーティストが、パフォーマンス・アートと称して呉服町の交差点で消火器をぶちまけるパフォーマンスをしたからだ。
事務局も寝耳に水で、市民からの抗議でようやく自体に気づいたという状態だった。当然警察にも通報され、後日こっぴどく叱られた。市民からも抗議の電話が相次ぎ、後日行われた会議では、プロジェクトの中止を検討される始末だった。結局再発防止策を警察に提示し、渡瀬は契約を解除することで落ち着いた。
「あの……。まずその絵を見せていただけませんか」
「あっちだよ」
老人が歩き出す。琉花はその後を付いていった。老人は月決めと書いてある駐車場の中へ入った。胸まであるスチールの柵の上から、ちょうどパトカーが止まっていた居酒屋のトタン壁が見える。
「あれだよ」
トタン壁に、三十センチ四方の小さな絵があった。赤い背景に、シンプルなタッチで鳥が描かれている。茶色と緑、紫の三色が使われており、今にも飛び立とうと、大きく翼を広げていた。羽根や目と言ったディティールは省略されており、一見無造作に書いたように見えるが、構図は配色と合わせて絶妙にバランスされている。
琉花は息を飲み、堀川を見た。「これ……どう思う?」
魅入られたように絵を見つめていた堀川は、はっとしたように隣いた琉花を見た。真剣な目をして頷く。
「出ましたよ」
「堀川君もそう思うのね」
「おい、何やってんだよ。とっととこいつを消す手配をしてくんねえか」
怒鳴る老人に、堀川は困った顔で琉花を見る。「どうしたらいいんでしょうか」
堀川が困っていたのは、老人のクレーム多対応だけではなかった。琉花は深呼吸をして、じわじわと立ち上ってきた興奮を抑えながら老人に向き直る。
「これを消すのは、少々お待ちいただけませんか?」
「何を言ってやがる、こんな落書きされて、俺は困ってんだよ」
「これは――落書きじゃないかもしれないんです」
「はあ? これが落書きじゃないなら何なんだよ」
「鑑定を依頼しなければわかりませんが、本物だとしたら、現在数百万、何年かしたら更に価値が上がる可能性があります」
老人の開きかけた口が止まり、ぽかんとした目になった。
「どういうことさ、誰か偉い先生が描いたってのかい?」
改めて絵を見る。この色使いと構図。器用なアーティストなら、ある程度同じように描けるかもしれないが、細部までは真似できない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます