第7話 最悪な目に遭い、不思議な動物に会う

 結局仕事が終わったのは、午後十時過ぎだった。午前中、あれだけトラブったのに、この時間でなんとかなったのだから、よしとしなければならないだろう。事務所はすでに琉花一人となっていた。パソコンを閉じて立ち上がり、トートバッグを肩に掛け、事務所の電気を消した。戸締まりをして廊下に出る。エレベーターで一階に降り、守衛室にいる管理人に挨拶して裏口から出た。

 昼間の熱気はこの時間になってもまだ続いていた。風は緩く、湿り気を帯びていた。たちまち全身から汗が滲み出てくる。昼から何も食べていなかったが、暑さのせいか食欲は出てこないし、この時間帯でご飯を食べたら、間違いなく脂肪に変換されてしまう。ただ、ここで何か食べておかないと、明日から体が持たない。近くのうどん屋で素のざるうどんを食べて駅へ向かった。

 長沼にある賃貸マンションへ向かうため、新静岡駅へ向かう。すでにシャッターが閉まっている呉服町の通りを歩き、スクランブル交差点を左折して御幸通りの地下道をくぐった。セノバの前を通って新静岡駅へ向かう。

 背後から視線を感じ、反射的に振り向いた。

 歩道には男女が歩いていたが、琉花を見ている者はいなかった。気のせいなんだろうなと思い、再び歩き出したが、違和感は残った。うどん店から出てきたときも、わずかに感じていたのだ。

 新静岡駅から静鉄に乗り、柚木駅で降りた。護国神社方面へ向かって歩き、途中にある三階建てのマンションへ入っていった。階段を上り、二階にある自分の部屋の鍵を開け、中へ入ろうとしたときだ。

 また、背後から視線を感じた。

 振り向くと、背後に男が立っていた。坊主頭でひょろ長く、白いマスクを掛けている。瞳孔が開き、血走った目で琉花を見ていた。

 やばい。声を上げようとした瞬間、男の両手が伸び、首を絞められた。叫び声は呻きにしかならなかった。そのまま部屋へ押し込まれる。

 ドアが閉まり、暗闇の中、男に脚を払われて押し倒された。側頭部を床に打ち付けて、一瞬意識が飛んだ。首を絞める力は更に強まり、目の前がチカチカしてきた。殺されると思い、全身に恐怖が走った。

 玄関の壁に警備会社へ繋がる警報ボタンがあったが、この状態で手が届くはずがなかった。男の腕を掴んで引き剥がそうとするがびくともしない。膝で突き上げるが男は体重を掛けて、ぐいぐい首を絞めてくる。

 突然腕が離れた。思い切り息を吸った。

 目の前に、銀色に暗く輝く物が見えた。ナイフだ。

 男の体重がのしかかってくる。髪の毛も掴まれて、動けない。

「叫んだら刺すぞ」

 男が、聞き覚えのある声を耳元でささやいた。

「渡瀬さん……どうして」

 男の頬骨が歪み、ニタリと笑った。

 渡瀬紀彦。二ヶ月前、呉服町のスクランブル交差点で消火器をぶちまけた男だ。

 琉花の担当で、事前に知り合いのライターから、思い込みが激しい男だから注意してと言われていた。構えながら顔合わせに臨んだが、案外気さくで、最後では冗談を言えるまでに打ち解けて、ほっとしたのを覚えている。

 しばらくすると、渡瀬から食事の誘いがあった。悪い印象はなかったので打ち合わせを兼ねてという条件で応じることにした。会話の中で、渡瀬はアーティストと担当という関係以上のものを臨んでいるのがありありとわかった。悪い気はしなかったが、プロジェクトが進んでいる中で、恋愛感情を持ち込むことは出来ないと断った。以前、そういうことがあってトラブルになった経験があったからだ。

 すると渡瀬は突然態度を一変させた。気さくな性格は影を潜め、何かと運営に文句を言い始めたり、勝手に物事を進めようとしたりした。

 その帰結が消化器ぶちまけ事件だった。騒動を起こしたのも、琉花に対する当てつけが多分にあったのだろう。

「おねがい、馬鹿なことをしないで。離して」

 自分に落ち着けと言い聞かせながら話す。

「わかってるさ。でもな、あんたは俺をコケにしたんだ。問題を起こしたら、これ幸いと、率先して俺を追い出した。その報いを受けてもらわないとな」

「そんなことをしたら、あなたのキャリアが終わっちゃうのよ」

「もう終わってるさ。アートパーティーを追い出された後、みんな俺を避けている。もう芸術祭になんか呼ばれないだろうし、無理して個展を開いても、客なんか来やしないさ」

 血走った目が輝きを増すのに吐き気を覚えながら、何かないかと手を探った。右手がトートバッグに触れる。

 この中に、折りたたみの日傘があった。

 渡瀬に気づかれないよう、そっとバッグの中に手を入れ、日傘を探した。

 あった。日傘をつかみ、ゆっくりと引き出す。

 渡瀬はマスクを引き下げ、生臭い息が吹きかかった時、

 右手を振り上げて、日傘の先端を突き刺すように渡瀬の頭部へ思い切り、ぶつけた。

「ギャッ」

 渡瀬の顔が大きく目を見開きながら叫んだ瞬間、琉花は彼を押しのけ、立ち上がった。

 玄関へ向かって走り出す。

 ドアノブを掴んだとき、服を掴まれて引っ張られた。ドアノブから手が離れ、思い切り仰向けに倒された。背中と後頭部を強打し、体が痺れたように動かない。

 足下に渡瀬が立っていた。薄闇の中、にやけた顔は消失していた。怒りで眉間に皺を寄せ、食いしばった歯をむき出している。怒りを帯びた熱気を発散させているが、目だけはガラス玉のように冷たい。そして、手にはナイフ。

「殺す」

 馬乗りになり、逆手に持ち直したナイフを振り上げる。

 もう駄目だ、殺される。

 そう思った瞬間、周囲が動き始めた。

「何?」

 薄暗い玄関の光景が流れるように形を失い、やがて世界全体が真っ白に輝いていた。程なく輝きの中に微妙な濃淡を持ち始めたかと思うと、左右へ流れるように色彩を放ち始めた。昼間見た光景と同じだ。

 渡瀬はナイフを振り上げたまま、固まっていた。

「お前……。何をした」

「あたしにわかるわけないでしょ」

 こいつもあたしと同じ光景を見ているんだ。だとしたら、これは幻覚とかではないの?

 渡瀬が立ち上がり、唖然とした顔で周囲を見回している。

 その時、渡瀬の背後――玄関があるはずの場所――で色彩が固定化して、何かが形作られようとしていた。茶色と緑、紫の三色。

 TDの描いた鳥だ。

 翼を広げた姿が立ち現れる。それは絵と違って巨大だ。

 この世に現存しているどんな鳥よりも遙かに大きい。鋭く伸びた嘴は、渡瀬の体ぐらい

あり、大きく広げた翼は、単身者用のマンションの幅を優に超えている。

 鳥は羽ばたきながら、渡瀬の頭上へ降り立とうとしている。風圧を感じて、ようやく渡瀬がその存在に気づき、振り向いた。

「ああっ」

 叫び声を上げながら逃げようとしたが、ぐいと湾曲した四本の鉤爪が渡瀬の背中を掴んだ。渡瀬の体が浮かび上がったかと思うと、鳥に体を持っていかれた。

 渡瀬の脚が目の前を通り過ぎ、鳥は羽ばたきながら、飛び去っていく。みるみるうちに鳥と渡瀬は小さくなり、やがて視界から消えていった。

 何が起こったんだろうか。琉花は唖然としながら改めて周囲を見た。周囲は木々が生い茂り、赤や青、黄色といった様々な色の花が咲いていた。華やかだが、一度も見たことのない種類だ。風は吹いておらず、暑くもなく寒くもない。空は太陽が見えないが、全体からぼんやりと光が注いでいる。

 ここは一体どこなんだ。まさかあたしは渡瀬に殺されて、死後の世界にでも来てしまったのだろうか。そう思うと、ひどく怖くなり、その場へしゃがみ込んでしまった。

「大丈夫だよ。心配することなんて何にもないのさ」

 どこからか子供の声が聞こえてくる。子供のように甲高い声だったが、風邪を引いたみたいに、少ししゃがれている。

 前方の茂みが揺れ始めた。いつでも逃げられるよう、身構えた。

 にゅっと肩が出てきた。灰色の毛に覆われていて、その先は二本に別れた黒い蹄になっていた。

 体全体が露わになり、琉花はいきなり胸を叩かれたように、「ひっ」と声を上げた。

 身長は百二十センチほどの小太りな体型で、紺と白のボーダーTシャツと白い半ズボン姿だ。口吻が突き出し、黒い鼻以外は茶色がかった灰色の毛で覆われていた。つぶらな黒い目をしており、耳はピンと立ち、額からは短い角が伸びている。

「よっ」

 ボーダーTシャツの生物は、短い蹄の手を挙げながら近づいてきた。

「これは何……」

「これ呼ばわりはないでしょ。僕にだって、名前はあるんだからね」

 琉花は怖くなり、足をもつれさせながら走り出した。

「おーい、ちょっと待ってよ。そんなに走ったら危ないよ」

 背後から声が聞こえたが、構わず走る。前方は足で踏み固めかれただけのような、獣道が続いていた。左右は相変わらず見たこともない木々が茂っている。

 ここは一体どこよ。道は緩いカーブになり、少し上り坂になった。その時、

 不意に足下から地面の感覚がなくなった。下を見る。

 道はいきなり急な下り坂になっていた。一応道にはなっているが、崖に近い。

 琉花はバランスを取ろうとしたが、つんのめるようにして、頭から滑り落ちた。顔を保護しようと、体を丸めたら、そのまま、斜面を転がり始める。

「助けてっ」叫ぶが、スピードは落ちないどころか、どんどん勢いを付けていく。

 強い衝撃を背中に受け、体全体に拡がった。

 目の前が、真っ白になる。

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