第2話 怒りの猫パンチ

 私は顔を洗うため、洗面台に向かった。

 大理石のような高級な石を使い、洒落た金の細工を施した大きな鏡が掛かっている。

 その鏡に、今の自分の顔が映る。

 緩いウエーブがかかったライトブラウンのロングヘアに、エメラルド色の瞳。肌は、自分で言うのもなんだけど、透き通るように白い。

 これが転生した今の私、ミール国第八王女ユノレアの姿だ。

 転生前の子供っぽくて地味な自分と比べると、まるで別人のようで、初めは戸惑った。まるで外国人なんだもの。


 洗顔を終えると、滑らかな生地のネグリジェから、ふんわりとしたピンクベースのドレスに着替える。

 専属の侍女を呼べば着替えさせてくれるけど、私は子供のころにそれとなく断った。

 王女の振る舞いとして失格なのかもしれないけれど、前世の記憶がある私にはどうしても抵抗がある行為だ。何せ私は転生前の世界では定食屋の娘。ちょっとしたドレスを毎日、着替えさせてもらうなんて、いたたまれなってしまう。

 髪を整え、軽く香水を吹きかけて、


「お待たせしました。お入り下さいな、エメル魔導師」


 お姫様然とした態度で彼を迎え入れる。すぐにかちゃりとドアが開いて、背の高い、ローブを纏った男性が顔を覗かせた。


「貴方だけかい」

「ええ。あ、いえ、シロがいるわ」

「そうだったね」


 彼はクスリと笑うと部屋に入って、ドアを閉めた。そして、


「何だ自分の誕生日だってのに、寝坊か? もう昼過ぎてるぞ、結乃ゆの


 がらりと態度を変え、手近なソファーに長い足を組んで座った。「今日は俺たちの大事な日だろ?」

「ごめん、青野君。昨日嬉しくて眠れなくて」

「俺もだ。お前のことで胸がいっぱいだったよ」

「もう、青野君ってば。恥ずかしいよ」

 私も「お姫様」から「川村結乃」に戻る。うん、こっちのほうがしっくりくる。いくら転生してお姫様生活を十六年やっているといっても、私は根っからの庶民気質なのだ。ううん、この世界に私が染まらなかったのは、きっと、この世界でも青野君に絶対会えるって、信じていたから……、なんてね。


 転生前、私と青野君は同じ高校の一年生で、クラスも一緒だった。

 どうやらデート中に死んでしまったようで、二人そろってこの世界……異世界に転生した。

 私がこの平和な国ミールのお姫様で、青野君がこの国に仕えている魔導師エメル。


 そしてなんと、今日私たちは婚約するのだ。

 この世界で三か月前出会った私たち。

 お互いすごく喜んだけれど、突然すぎるし、身分の差があって、すぐには婚約をお父様とお母様に許してもらえなかった。

 この三か月間、青野君は魔導師として王宮に仕え、誠意とその実力を示してくれた。そしてようやくお父様が折れ、私の十六歳の誕生日に、青野君を正式な婚約者と認めてもらえることになったのだ。

 私は王女だけれど姉が七人もいるので、別の国にお嫁にだされる予定もなかったことが幸いした。


 このときは本当に第八王女でよかった、と思った。


「三か月前、青野君が私を見つけてくれて、とっても嬉しかったよ。よく私だってわかったね。見た目、以前の私と全然違うのに」

 私は青野君の隣にそっと座って、彼を見つめた。

 エメル魔導師に転生した青野君は私と同じ十六歳。すっごく大人っぽく見えるけど、一緒に転生したからやっぱり同じ年なんだね。高校生だったころ黒髪のストレートだった髪が、今は落ち着いたベージュ色のくせ毛になっている。ちょっと前髪が長いかなあ。切ってあげたい。

 私がじっと見つめているからか、青野君は「なんだよ、そんな見つめて」と真剣な眼差しを私に向けた。


「俺はお前がどんな姿だろうと見つけられる。お前だって、そうだろう?」


 きゃー!! 王子様みたい、青野君!


「もちろんだよ、青野君。私も、貴方が青野君だって、すぐにわかった」



(わかってねーーーー!!)



「え?」

「どうした、結乃」

「今なんか声が……」

「気のせいだよ。気のせい。十六歳の誕生日おめでとう、結乃。今までなかなか二人っきりになれなかったけど、これからは……」


 え!? 突然の甘いムード。

 こ、これは、まさかキス? あの、灯台デートの続きってこと? キ、キスしちゃうの? もう、青野君てば、婚約前なのに、気が早いんだから……。


(させるか!!)


 そのとき、目にも止まらぬ速さで、猫パンチが青野君に炸裂した。

「シロ!?」

 シロは空中を一回転して、割り込む形で私と青野君の間に着地する。着地するなり青野君に向かって威嚇し、戦闘態勢。尻尾は三倍くらいに太くなっている。

「もう、シロってば、最近どうしちゃったの。三か月前までは大人しい猫だったのに」

「腹が減って気が立ってんだよ。気にすんな」

 青野君は猫パンチされて傷がついた頬を軽くさすった。一瞬光ったかと思うと傷はきれいに消える。さすがは一級魔導師だ。

「ごめんごめんシロ。すっかり忘れてた。今フードあげるからね」


(違う! フードじゃない! 俺だよ俺! 青野白夜びゃくやは俺! この天然結乃!)


「もう、シロってば、ジタバタしちゃって、可愛い」


 私は戸棚をあけて、フードを取り出した。

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