第10話 イレンシアの場合 1.2

   ◇


 天馬が街に紛れ込んでいるという話は、あっという間に人々の口から口へと伝えられた。

 知ることのできなかったのは、水盤と札を頼りにしていたヴィミラニエくらいだろう。

 彼女は突然水盤から現れた半人半妖の姿の「人ではないもの」と対峙していたのだ。

 その存在は、水盤を使えなくしたばかりか、外の出来事やこれからいかにすべきかといったことを知る手立てである札も押さえ込む、魔性の生き物だった。

「そなたは何者じゃ」

「お前、失礼な奴ね」

 互いが互いを見た目通りではないと判断する。

「人間のくせにこんなもので水を従わせようというの。ふぅん……おまえ、石女うまずめなの」

「魚類に言われとうはないわ。わらわは水盤と札を操る占い師、そなたごときに邪魔はされとうない」

 ちょうど腰から下が魚であり、手と耳に水掻きがあり、上半身は水色の髪の長い少女であるところのマリエラが、黒衣を纏い札を手に持つアルビノの少女姿の女性であるヴィミラニエと火花を散らして対面していた。

「はんっ、たかだか人間風情が水を操るですって。アタシを前によく言えたこと」

「素性不明の魚類に良いや悪いが分かろうか」

「魚類魚類って言うけれどね、人間の方がもっと素性が分からないわね。アタシはこの世界に水が生まれると同時に誕生したの、お前みたいな失礼な奴、よくエリュンシーディエラが存在を許したこと」

「他国の始祖になんぞ許されずとも構わぬでな。ティルディシア一国に肩入れするような輩なぞどうとでもない」

「あーら、カラトラヴィアから南は全てティルディス王家のものだったのを、イリナフィーディエラが慈悲を以てくれてやったんじゃなかったかしら、新興国に」

「新たに立ったものを国として認めるしかないほど大きゅうしたは、どこの凡蔵かの」

「凡蔵ってのは、確かウルフィ辺りまで追い詰められたのに、元は同じ国の人間なのだから生きる道を助けてやろうっていうイリナフィーディエラのおかげで生き残れた方を言うのじゃないかしら」

「だとすれば蜂起の目を摘まなんだイリナ某(なにがし)の失策よの。己が平らげた国をわざわざ弟に残すなぞ、愚の骨頂じゃ」

「それではなぜお前は存在しているの。アタシは殺しちゃえばいいと思ったのよ、蜂起の首謀者の一族皆。温情をかけてもらった相手を悪し様に言うのは感心しないわね」

「何が温情ぞ。肥沃な東の地を取りたは覚えておろう。オアシス以外不毛の土地を我らが国に押し付けただけではないかえ。豊かな土地を希(こいねが)うは王族として当然のこと、不安定な隣国に豊かな国土を任せるわけにはまいらぬ」

「不安定を作り出したのはだぁれ。お前のように人間にしては不遜な力を持つ者が、イリナフィーディエラの子孫を妬んだからじゃないの」

「ほぅ、わらわが願いが叶うて王が倒れたと。よう買うてくだされるものよ」

「人間の澱んだ感情はアタシたちの世界も侵食するの。勝手に入り込まないでちょうだい、おちびちゃん。それこそ不遜というものよ」

「わらわを見た目通りと思うてか」

「四十年ちょっと生きたくらいで長生きを主張するのはやめることね、おちびちゃん」

 いつもとは違う室内の様子を侍女たちがそっと伺うが、舌戦の間に割って入る勇者はいない。

「大年増に小さいと言われてもの、痒うもないわ」

「あぁら、じゃ、お前を拘束してみましょうか。幸い傷付けるななんて生易しいこと、言われてないもの、反抗したんだわと言って水の檻に閉じ込めてやる」

「するが良い、斯様なことで軍を引く我が国ではない」

 王は、激昂することはあってもけして従うことはないとヴィミラニエが胸を張る。

「そう、じゃ、遠慮なく」

 見た目年齢に似合わぬ凄艶な笑みとともに、マリエラが水盤に手をついた。

 水が、生き物のように揺らぐ。

 その雫は、ありえないはずの紅。

「この紅はイレンシラディエラに通う血。強き者の血潮。人を縛るには人、なればこれもお前が望んだこと」

 雫がヴィミラニエに向かい飛ぶ。いくつかは皮膚を裂き、いくつかは穹窿状の籠を作った。

 痛みと驚きにヴィミラニエは札を取り落とした。札は水の檻からこぼれて落ちたが、ヴィミラニエは中空の籠の中に縫い止められたままだった。

「ヴィーラ様!」

 数人の侍女が外と中を隔てる布の中からまろび出た。

 主が囚われるに至り、ただならぬと武器を手にしている。

「無礼であろう小娘、即刻術を解くが良い!」

 手に手に武器を持ち、水盤の上に浮かぶマリエラをめがけて突進してくる。

「ふぅん、どっちが小娘なのかしら、ねぇ」

 面倒とばかりに言うと、紅に染まった水盤の水が矢となり、向かってくる女どもを串刺しにした。末期の悲鳴を上げて、侍女たちが倒れ伏す。

「――何たること」

 ヴィミラニエは、籠の中から見ていることしかできなかった。

「アタシが小娘ですって、ねぇ。お前、おちびちゃん、この馬鹿達はアンタのために死んだのよ。あぁ、そう、一人逃れているわねぇ」

 カーテンの中で、年若い侍女が、武器を片手に震えている。

 マリエラはその武器を容赦なく撃ち落とし、濃い碧の瞳でその侍女を見た。

「ひ、ぁ、……ば、化け物! ヴィーラ様を、お放しなさい……っ」

「化け物、ねぇ。無知って恐ろしいのね、――ヴィミラニエ・フィダ・ソヴァロ」

 マリエラがヴィミラニエの名前をゆっくりと正確に発すると、まるで心臓を鷲掴みにされたような苦しみがヴィミラニエを襲った。

「あら、アタシが人間風情の名を読み取れないとでも思っていたの。無知は罪よ」

 肩の高さまで上げた右腕に、紅の雫が矢となって収束する。

「アタシ、化け物呼ばわりされて許してあげるほど、優しくないのよ。そうね、お前はアタシが使ってあげる。お前はアタシの手足になるの。知ってるかもしれないけどね、人間の七割は、水から成っているの、だからアタシは、人間を操れるの。いいこと、ヴィミラニエ。人が水を操るのじゃなくて、水が人を操るのよ」

 紅の矢は、侍女の額に吸い込まれていった。

 血は、流れない。矢が刺さったわけではないが、確かに矢は侍女の頭に入り込んでいった。

 ふらりと侍女が立ち上がる。

「机について。そう、手紙を書くの。良い子ねぇ、そう、ヴィミラニエは安全な場所へ移動したから心配はしないようにって綴るのよ」

 書き上げられた手紙が、水の檻の中、ヴィミラニエの真ん前に入ってきた。

「署名なさい」

 きっとヴィミラニエに睨みつけられても、マリエラは動じない。

 手紙とともに檻の中に入ってきたインク壺を手に取ると、マリエラめがけて投げつけた。

 が、インク壺は檻の中から出てはいかなかった。

 紅の檻をわずか黒く染めただけで、小さな壺はヴィミラニエの傍らに転がった。

「馬鹿ねぇ、お前。それだって液体でしょうに」

 ころころと鈴を鳴らすようにマリエラは笑う。

「そうね、札を一枚もらうわ。何が良いかしら。風のカード、それとも、王者。あぁ、血潮のも良いわ。どれにしようかしら」

 ヴィミラニエが取り落とした札が、全て水盤の上に集まっていた。

「これにしましょう、死神。冥府の女王フリオナ」

 手紙と一緒に小さく丸めて、鳥便用の筒に入れる。

「お前の弟は何と読み解くかしら。急いで帰ってくるかしら」

「そなたの思い通りになぞならぬ」

「わが弟は賢いゆえ、とでも言いたいの。馬鹿じゃないの。さ、お前はこれを早急に鳥便で出して頂戴。行き先はグラン・クラン王の陣」

 ヴィミラニエの白い肌が蒼白になる。

 ぴしゃんと水盤の表面を、マリエラの尾が弾いた。

 嘲笑うマリエラの向こうの窓から、普段聞こえるはずのない喧騒が聞こえた。争っているようである。

 ヴィミラニエは、王のいない間に賊の侵入を許すなど、とほぞんだ。

 精霊の作った水の檻の中から出ることは途方も無く難しいのだと、ヴィミラニエは悟った。


   ◇


 竜が再び姿を現したのは、百七十騎が王宮の二の郭にあるシーダ・イリ神殿の近くに揃った時だった。その竜をめがけて駆けてきたミューリとフォーリも、神殿の前へ降り立った。

「で、団長。どうすりゃ良いんだい」

「臨戦態勢をとっておけ。すぐに聖女様が飛び出してくるさ」

「あれが聖女様ってタマかねぇ。確かにかなり腕は立つがなぁ」

「聖女様が弱かったらどうすんだよ、俺たちをまとめあげてこそ、認められるもんじゃねぇのか。だろう、ヴァシー」

「そうだな、エンティ。あいつの手のひらにゃ剣ダコがある。昨日今日でつくもんじゃねぇし、第一こん中であいつに喧嘩売ろうってバカは混じってねぇよな」

 事実、カウシェンブルで議会の承認を得たあとのイリの行動は素早かった。

 大量のアレンジュラ金貨を追加で届けさせ、商都ネーリフの外れに、百七十一騎の騎馬を用意した。

 海風で錆びた剣は砥ぎに出され、砥いでも使えないものには新しい換えの剣を配った。

 また、海の男たちが得意とする弓もひとつずつ点検し、充分な量の矢も与えられた。おかに上がって巡礼の姿をしても違和感のない衣装と、いざというときに使う鳥便用の鳩も用意された。その他の携行する食料や衣装等も含めた輜重である。相当量になった。

 おかでも思う存分働けると豪語したものの中から百七十人を厳選した。

 まず馬に乗れる事が大前提で、馬上で弓の放てるもの、剣をよく使うものなどひとりひとりをよく精査した。

 そして最後に、簡単な手合わせまでした。たったひとりの少女に、大の大人がきりきり舞いさせられた。少女だと侮った者たちは、自分の思い違いをまざと見せつけられたのである。

「アイリーン姫の再来ねぇ」

「あの竜があのお嬢ちゃんのもんなら、マジでアイリーン姫の再来だな」

『それは違う。竜は巫女の願いしか聞かない』

 ミューリが訂正する。

『イリはふたりいる。イレンシアとイリアーディ。二人でアイリーン姫一人分だ』

 フォーリが口を添えた。精霊のあいだでは既に当然のこととなっているようだった。

 神殿の前はちょっとした広場になっている。馬を木陰で休ませ、傭兵たちは巡礼姿で神殿の入口にいた。

 銀の鱗煌めく竜が広場に降り立つと、ミューリとフォーリが首を下げた。竜は天馬以上の精霊なのだ。礼は尽くさなければならない。

『いと気高きお方、お会いできて光栄です』

「我が巫女の願いによりこの場まで参った。巫女の姉姫を匿うに良き場所はあろうかな」

 小さな広場は、竜一匹で占拠した形になってしまった。上空では、アシュレイが旋回している。

『まずは御身を小さくなされることです』

「なるほど。目立つ故な」

 言うが早いか、銀の髪の麗人に戻った。

『この神殿の礼拝堂ではいかがでしょうか。どなたでも入れます』

 天馬には人の身を取る術を持つものは少ない。大きさも普通の騎馬と変わらないため、翼を丁寧に折りたたんで素の姿でいる。

 竜の姿が消えたのを見て、アシュレイが空から降りてきた。

「すごいね、みんなもう集まってたんだ」

「遅いぞ、聖女様。しっかし、まぁなんともな姿になってるなぁ」

 ドレスは傷塗れで血も滲み、上等の絹地がただの襤褸になっている。

「この服、動きやすいのは及第点として、耐久性がなさすぎるな。あ、ヴァシー、紹介するよ。セレンディア王女殿下だ」

 アシュレイが前膝を折ると、イリの手を借りて貴婦人が――それもエルシラ女王の姿絵から出てきたような美女が、降り立った。

「セレンディア様、こっちはセフィオン・ヴァスフォート・アートゥアール。傭兵団の団長で、将軍の正当な後継者だ」

「勘当されてますがね」

 セレンディアは扇をはらりとひらいた。

 口元を隠し、典雅に応える。

「よう参られた。わたくしはセレンディア・フォーナ・クルー・グリュンディル。危なきところを聖女様と竜の君に助けられましたの。――そう、トゥアの将軍はルノーヴィアにおられましてよ」

「このあと、行く羽目になるんですかね」

「わたくしを少なくともルノーヴィアまで送ってくださいますのでしょう」

 それから、竜のために場所を空けて木陰に隠れた皆を見渡し、一言言った。

「ご武運をお祈りしておりますわ」

 本物の豪奢なドレスを着た、本物の貴婦人である。

 傭兵団が感涙に咽いだのは当然の話だった。

「ねぇ竜の君」

「どうした聖女殿」

「どこで待っててくれる」

「この神殿がよかろうと言われた。礼拝堂なれば、誰が行ったとてかまわぬ場所と聞いたが」

「ま、灯台の元暗しって言うしね。了解。王様が来ちゃったらどうする」

「何、背に姉姫を乗せてティルディシアに帰るまでだ」

「あら、それはいけませんわ。わたくしを救う役目はイリ、あなたにありましてよ。そのほうが効果的ですもの」

「おい、どこまで俺らを引っ張ってく気だ」

 ヴァシーはこちらが劣勢なのを分かっている。

「とりあえずルノーヴィアまで。これからヴィーラ姫を攫って、ついでにリアダール砦も叩き潰す」

 さらりととんでもないことを言う口である。

 ヴィーラ姫は、おそらく、攫えよう。

 けれど。

「ついでにってなぁ、お前、砦にゃ何人いるんだよ」

「王様と親衛隊抜きで二千くらいかな。でも、ルノーヴィアには仲間がいるんだよ。呼応すれば挟み撃ちできる」

「よく調べたもんだ」

「だって死にたくないもん」

「もん、じゃねぇ、もん、じゃ」

 こういうところが子どもなのである。冷静に状況判断しているのに比べて、理由の落差といったら。

 しかし言い方はともかくとして、戦いに赴くにあたって万全の準備をするのは当然なのだ。

「ねぇセレンディア様。馬車、用意できる?」

「神殿に申し付けましてよ。早駈けできるものが良いのでしょう」

「うん。できれば八頭だて、無理でも六頭だてくらいの、神殿の紋章入りの。リゾリウァルトの人に気付かれないように」

「あの蛮族は神殿組織を知らなくてよ。わたくしが逃げたことを、王に伝えたとしても」

「巡礼服一式、この金貨で買って、身につけておいて。竜の君も。お願い」

 ほほほとセレンディアが声を上げて笑った。

「わたくしに買い物をせよとは、聖女様は豪胆ですこと」

 それも一興。

 セレンディアにとって、衣装の仕度は侍女の仕事だった。

「傭兵さんたちには、剣をふるって働いてもらわないといけないから、お付きの者は準備できないんだ」

 笑われようが何を言われようが、兵は割けない。イリに兵が与えられなかったのと同じだ。

「分かりましてよ、聖女様。従いましょう」

「竜の君には、馬車に付ける馬をよく見て欲しい。走れないのは、ダメだ」

「これも契約の内か」

 シェンハーディは皮肉に言う。こくこくとイリは頷いた。

「私の代わりに。私はこれから、ヴィーラ姫を攫ってこなくちゃだから」

「よかろう。引き受けた」

 強引なお願いも、イリが言うと可愛いおねだりに聞こえる気がしないでもない。

 末恐ろしい聖女様だな、とヴァシーは思ったが、口には出さなかった。

「なぁ聖女様、そろそろ俺たちゃ働きたくてムズムズしてるんだが、話は終わったかい」

 エンティがイリの頭をぽんぽんと撫でて訊いた。

「わかった。行こう。ヴィーラ姫に行き着いた人は、呼び笛を吹くこと。笛が聞こえたら返事の笛を鳴らして、撤退したら全員ここに集まること。以上よろしく」

「じゃ、行くぜ、野郎ども!」

 応、と勇ましい声が広場に響いた。

 イリには頼もしい味方だった。


 一の郭の城門は、あっという間に突破された。

 ヴァシーが空の上から塀の上の見回りに矢を射掛けると同時に、傭兵たちにより門番が瞬殺された。

 塀を飛び越えて、誰も乗せていない身軽なフォーリが、内側から門を蹴破った。天馬が強いわけである。

 一の郭にいた兵たちは、襲われることを想定していなかったため、数で劣る傭兵団を大軍と読み間違え、混乱のまま蹂躙された。

「野郎ども、金と女は後回しだ!」

 駿馬を駆るエンティは、生き生きしていた。

 海の男と言われるカウシェンブルの傭兵団は、陸(おか)でも果敢に戦った。

 疾駆する馬上は、荒波に揉まれる小舟の上と同じだ。次々に矢を射て、城兵を確実に減らしていった。

 表の乱戦が内宮にまで聞こえると、侍女たちは取るものとりあえず逃げだした。妾妃たちも同様である。気骨のあるものは、ヴィーラ姫のもとへ集まろうと武器を手にして内宮を走った。

 城を預かっていた老将は、蜂の巣をつついたような混乱に怒号を発していた。

「ヴィミラニエ様をお守りせよ! えぇい、どこの者が来たのだ!」

 チェーンメイルに矢の刺さった兵が、老将に進言する。

「旗印がありませんが、騎馬が内宮に迫っております」

「く、王の不在を狙った反乱か」

 しかし、王は善政を敷いていたはずである。反乱の兆候などなかったではないか。

 赤ら顔を真っ赤にして、老将は叫んだ。

「騎馬だと! 囲い込んで馬から射殺せ!」

 老将の声はよく響いた。これはいい値段の首になると、傭兵たちは喜んだ。

 階段を駆け上がり、開け放たれている扉に片っ端から突っ込んでいく。

「城代の首はアレンジュラ二十枚だぞ! 首を忘れず拾ってこいよ!」

 一方、イリは上空から内宮の庭に降り立った。四方が石造りの部屋になっている。武器を手にした侍女たちが、大慌てで陽のあたる一画に集っていた。

 イリは、ヴィミラニエを他の誰にも渡す気がなかった。

 マリエラがいる。精霊と対峙して、海の男たちが何をするかは分からなかったが、何となくそれは避けたほうがいいような気がしていた。

 何しろ、マリエラは(下半身は別として)見た目は少女である。敵地にいる子どもは、特に内宮の中にいる子どもは、ウルハーグ王の血縁にあたると考える者がいないではない――特に、血が頭に昇っている今は。

 同士打ちは避けたかったのだ。

 侍女たちの悲鳴が上がる。それも、続々と武器を持つ侍女たちが集う方角である。

「フォウラーン、マリエラかな」

『以外に誰がいる』

 精霊は、気に入らない人を殺すのを厭わない。

 温厚と言われる竜も、例外ではない。ましてや、気性の荒い天馬や、気位の高い四精霊の長は、精霊ではないものを意志あるものと認めない。

 ヴィミラニエの居室の前まで来ると、明らかな血臭が辺りに濃厚に広がっていた。

「マリエラ!」

 イリは騎乗したまま飛び込んだ。

 アシュレイを認めたマリエラは、ようやく来た、というふうにイリを手招きした。

『ごちゃごちゃ五月蝿いからね、お姫様以外は殺しといたわ』

 あっけらかんとした報告である。

「うん……まぁ、面倒がなくなっていいんだけどね」

 死体の山は同時に武器の宝庫だった。

『で。それが、石のヴィーラよ』

 顎で示した先に、水の檻があった。

 紅の水はまるで血のようで、穹窿状に細かく編まれた水の中にいるヴィミラニエが血を流しているようにも見える。

「傷、付けたの」

『ちょっとだけよ。イレンシラディエラ、あなた貧血っぽくなってたりしない』

「しないけど」

『あの赤、あなたの血だから』

「人使い荒いなぁ。斬ったはったで大変だったんだぞ」

 確かにひどい格好である。ナグラーダとイクテヤールとの戦いで付けられた傷は手当されておらず、白いレースには血が滲んでいた。

「あ、笛、笛。急がないと王様帰ってきちゃうよ」

 ひゅーい、ひゅーいと笛を鳴らすと、あちこちから応じたとばかり笛の音が上がった。

 退却の合図である。

「マリエラ、籠ごと移動できるの」

『もちろん』

「じゃ、この窓から出よう。アシュレイ、もうひと翔びお願い」

『そのあとにはルノーヴィアまで駆けなくちゃなんだろうに』

 それまで悄然としていたヴィミラニエが、水の檻を叩いた。

「わらわを捕らえる気かえ」

「うん。大事な切り札なんだ。講和がなったら返してあげるから、おとなしくしててね」

 見れば自分より年少に見える少女である。子どもを宥めるようにイリは言った。

 しかし、ヴィミラニエには屈辱でしかない。

「あれ、でもマリエラ、ヴィーラ姫って、ウルハーグ王より年上じゃなかったっけ」

 今さらのように訊く。

 マリエラは腰に手を当てて首を傾げた。

『残念ながら四十年以上モノよ。人間風情がどんな魔法を使ったかしらないけど』

 エルシラ女王の時代から存在する水の精の長は、ばっさりと切り捨てる。

「じゃ、やっぱり退却だ。でもその籠、目立つなぁ」

『ギリギリまで小っちゃくする? まぁ、居心地は最低になるけど』

「捕虜は丁重にもてなせ、ってね。しょうがないからそのまま翔ぶか」

 マリエラが、するりとイリの腕に入り込んだ。

「――そなた、何者じゃ」

 ヴィミラニエが問う。

 イリは少し考えた。なんと言えばおとなしくしていてもらえるか。

「んーっと、ティルディシアの天騎士で、どうやら王女らしい、イリ・トゥア」

「斯様な王女がいるものか。ティルディシアにはセレンディアとイリアーディしか居らぬはずじゃ」

「残念でした。イリアーディの双子の妹なんだ」

 がくりとヴィミラニエの肩から力が抜ける。

「そなた過日キユナータの東の広場に来たかえ」

「さっすが占い師。そこまで分かってて、私にたどり着かなかったのは、私たちの運がいいってことだな」

 戦場にはあるまじき、太陽のような笑みで返す。

「強き精霊に守られた小さき星……」

 小さいなどと侮っていた。弟の力強さに比べ、なんと小さいことかと、気にはなったが無視をした。

「アシュレイ、いっくよー」

 せぃっと空へ駆け出した。水の籠はついてくる。

 それだけ確認すると、一気に二の郭の神殿前へ向かった。

 眼下には、退却する傭兵たちが見える。

 いつの間にか、彼らを追い越していた。

 まずは、初戦勝利。それを確信した。


 広場には馬車が停まっていた。イリの注文通りの、八頭だての豪華なものだ。これを使うのは、上位の神官に限られている。それでもセレンディアは金を嗅がせて出させた。

 御者は、いない。

 馬車の中には既に二名の巡礼姿の乗客がいる。セレンディアとシェンハーディだ。

 乗り込んで、外を伺っていた。

 イクテヤールがナグラーダとともに神殿の表から旅装で出て行ったのも、馬車の中から確認した。

 幸い彼らは、神殿の馬車が神殿前に停められているのに、何の疑問も抱かなかった。あまりにも目立つ乗り物である。まさか、隠れて出ようというセレンディアが乗っているなど思いもつかない。セレンディアがここに来るまで馬車を捨てなかったのを知っているのに、だ。

 笛の音が城内から聞こえてきたのを、イクテヤールもナグラーダも聞いていない。その前に、国王軍と合流するため、出て行ったのだ。

 イリはヴィミラニエを探していたときに上空から二騎の騎馬が駆け去っていくのを確認していた。それが戦った二人だということを、フォウラーンの知覚を通して知った。

 もう安全。

 ふわりとアシュレイの蹄が地面へと降りる。あとをついてきた水の籠もゆっくりと地面へと下ろされ、乾いた石畳に底辺が触れると、紅の水が四散した。

「逃げられるとは思わないほうがいいよ」

 ばらばらと、傭兵たちが姿を現す。どこに置いていたのか、巡礼者の布をその身にまとっている。返り血を隠すのにも好都合だ。

「聖女様、一人も欠けちゃいませんぜ」

 血にまみれた剣を片手に、エンティが報告してきた。

「この子どもは?」

「ヴィミラニエ王姉殿下だ」

「とても四十の坂を超えてるようにゃ見えねぇけどなぁ」

 イリはヴィミラニエが身につけていたマントを脱がし、その腰紐で彼女の両腕を縛った。

 水盤も札もない彼女は、ただの子どもと変わりはない。

「大丈夫、馬に乗せようってんじゃないから」

 瞳を不安に揺らせる外見少女を前に、微笑んでみせる。余裕の表情だ。

 乾いた地面へ座り込むヴィミラニエの前に、どさりと首が転がされた。王姉の表情がこわばる。

「こいつの名前、あんた、知ってんな」

 エンティがヴィミラニエの顔を覗き込んだ。

 苦悶の表情のまま凍りついた首から、ヴィミラニエは目を反らせた。だんまりを決め込んでいるようだ。

「城代だな」

 重ねてエンティが訊くと、ヴィミラニエの顔がさっと蒼く変わった。

「おい、この首あげたの、誰だ」

「はいよ、副団長、俺だ」

「ギル、お前か。大手柄だぜ」

 イリは馬車の中から革袋を出した。ずしりと重たいそれを、ギルと呼ばれた男に手渡す。

「アレンジュラ、二十枚だったよね」

 誰かが口笛を吹く。

「聖女様から直々にいただけるなんてな、滅多にねぇぞ。ありがたくもらっとけ」

 エンティはギルの肩を叩いた。

「王姉殿下、馬車に乗って」

 イリが言うと、既に席についていたセレンディアから声がかかる。

「グラン・クランのヴィミラニエ姫といえば、名高い為政者でしてよね。お話がしてみとうございますわ」

 捕らえていたはずのセレンディアの声に対して、ヴィミラニエはまた沈黙を返した。

「失礼」

 ヴァシーがひょいとヴィミラニエを抱え上げ、馬車の中へと下ろす。

「席に座ってたほうが、乗り心地はいいぜ」

 そう言うと、馬車の扉を閉めた。

「じゃ、街道外れの丘まで戻るぞ。そこで一晩過ごす」

 外はもう夕闇が迫っている。

 この時間から動き出す巡礼は珍しい。だが、一刻も早く、戻ってこようとしているはずのウルハーグ王から遠ざからなければならなかった。

 イリは馬車の御者台に座り、手綱を取った。

「私たちは街道沿いに行く。こんな馬車が街道から外れてたらおかしいからね」

「戦力が少なくねぇか」

「竜の君がいるさ。あとカルディアなんだけど、もうちょっと借りてていい、戦力に欲しい」

「だとよ、どうする」

『セフィオン、そなたが良いというなら構わぬが……わらわのおらぬ場所で死んではならぬえ』

 豪華な馬車は目立つが、天馬も目立つ。天騎士はそこらへんに転がっているものではないのだ。少なくとも戦時下である以上、軍についていないものは敵とみなされる。そう考えなければならない。

「アシュレイ、この前駆け抜けたとこだったら、朝までにルノーヴィアまで着けるかな」

『敵がいなければね、イリ。今回は迂回していかないといけない。だから午前中に着けるように努力しよう』

「みんな、迂回しつつ二日でリアダールまで駆けきって。アシュレイ、その予定を親父殿たちに伝えて欲しい」

 うへぇ、とか、鬼だ、とかいろんな声は上がったが、ヴァシーが仲間を宥めるように言った。

「十四のちびすけが二日で行けると踏んだんだ、大の男が、それも屈強な海の男が、陸(おか)でくたばんじゃねぇぞ」

「それ、普通の十四なら納得いくんだけどなぁ、団長」

「私は至って普通の、十四の天騎士だよ」

 みんながどっと笑う。ありえねぇ、どこ見て言ってんだ、と。

 戦いの緊張がほぐれたところで、ヴァシーが団長らしく皆に命じた。

「じゃ、散開して丘に集合、一晩明かしたら眠らず駆け飛ばせ。行くぜ、野郎ども」

『水場は馬が知っている、干上がることだけはない』

 アシュレイが付け加えた。

 一面が海でも塩水は飲めたものではない。水があっても飲めないのと、飲める水がある場所を知っている仲間がいるのとは大違いだ。船の上で干上がりかけた経験を持つ傭兵も少なくはない。少なくとも選ばれた百七十人は生き延びるため何が必要かを知っている。

 一行は、ばらばらになって城下へ姿を消した。

 イリはドレスの上にヴィミラニエから剥ぎ取った黒のマントをまとった。目立つドレスの赤が見えない上に、神官の旅装にも見える。馬に鞭を入れ、夕闇の中、リアダール砦に通じる街道に進路を定めた。

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