第9話 イレンシアの場合 1.1
その日、キユナータの晴れた空に、銀色の竜が舞った。
シーダ・イリ神殿の真上で旋回すると、尖塔に降り立ち、丁寧に翼をたたんだ。
人々が見たのは、そこまでだった。
姿が掻き消えると、一体あれはなんだったんだろうという声が上がった。
神殿に何かあるのか。
期待と、不安の、入り混じった声。
――そもそも竜は、ティルディシアの象徴ではないのか。
シェンハーディは、イリアーディに言われたとおり、キユナータに衝撃を与えた。
その銀の鱗を目指すように疾駆した三騎があった。
一番手は、純白のアシュレイである。翼の先だけが黒い、美しい天馬だ。
それに追随するように、鋼色のミューリとフォーリの双子が従う。アシュレイに比べ、体格が大きい。騎乗する人も、大きい。
キユナータより南の乾燥した小高い丘の上から、カウシェンブルの傭兵団は旋回する銀の美しい竜の姿を確認した。
「おい、あれが竜だとよ」
「よく見ておけ、島じゃ滅多に見られるもんじゃねぇぞ」
商都ネーリフを迂回して集合した一団は、初めて見る荘厳な姿に、砂塵の向こうから感嘆の声を送った。
「あそこに、シーダ・イリ神殿がある」
アシュレイに騎乗したイリが、指し示す。
「あの神殿まで、傭兵とは気付かれずに行くんだ。巡礼のふりしてさ」
帯剣はしていたが、騎士の姿ではなかった。もちろん小者姿でもない。
深い赤に染められた上等の絹地を使った、柔らかなドレスである。襟とカフスと縁取りのレースは真っ白の、夜会の衣装というより貴族の幼い子どもが着るような、膝丈のワンピースだ。子ども服と違って、エプロンがない。パフスリーブも、二の腕までしかない。
代わりに、膝上丈の長靴と少し長めの手袋をしている。これももちろん、レースで縁取られている。
見た瞬間に、こんな姿で天馬に乗るのかとフィーニを見返したのだが、フィーニは何と、アシュレイにもレースで縁取られた襟飾りと鞍を用意していたのである。
騎士服の荘厳さとは違い、どちらかというと可憐な、そう、イリアーディに似合いそうな衣装である。(もちろん、イリアーディならば、腕も足も剥き出しにするなど恥ずかしくて耐えられないと嘆くだろうが)
「で、聖女様。ヴァシーと俺は攪乱役で良いんだな」
「うん。ミューリかフォーリがエンティを乗せてもいいって言えばだけど」
ヴァシーは天騎士の中でも珍しく、二頭の天馬を持っていた。双子だったから同時に捕らえたというその二騎は、自分の乗り手に他の天馬がいるのを疎ましがる「普通の」天馬と違い、二騎一緒でなければ行動しない。
『ミューリは駄目だけど、私ならいいよ』
あっさりとフォーリが受け入れた。
『だけど、命令はしないで。クラスィヤなら分かってると思うけど。だから乗ってもいいと言うんだけれど』
「神殿の表から、私は出る。それを迎えたら、一気に武装して王宮を襲う。巡礼の姿だったら神殿のある二の郭まで行けるから、実力行使で突破するのは一の郭の門以降だ。ウルハーグ王は今、リアダール砦に向かってる最中で、城は手薄。こっちは百七十騎に加えて私達天馬組。何か質問は」
はいよ、とヴァシーが手を挙げた。
「石のヴィーラ姫はどうする」
カウシェンブルでも名高い、占いをする王姉だ。
「捕らえる。人の見る水盤より、マリエラの方が強制力が強い。で、水盤では何も覗けないように、もちろんできるよね」
力ある精霊は、精霊使いでなくとも見える。
しゅるんと現れた水のマリエラは、ヒレの生えた腰に手を当て、何を言うのかといった格好である。
『カルディア。少しこのおバカさんにくっついてて。たかが人間の水盤、アタシが操れなくてどうするのよ』
『全く仕方のないことじゃ。セフィオン、そなたが呼べばすぐ戻る故、少々離れるぞえ』
「あぁ、好きにしてくれ。俺はあんたの契約者じゃないし」
炎のドレスを纏った麗人が現れ、イリの腕へと身を寄せると、すぐにマリエラは王宮を目指して姿を消した。水の精霊としては、一刻も早くオアシス都市であるキユナータに入りたかったのかもしれない。
「その剣も難儀だなぁ」
エンティが言うと、イリは笑って答えた。
「でも、研がなくてもずっと斬れるんだよ。刃毀れなし、錆びなしの業物だよ。長が二体憑いてないと使えない、使用者限定の優れ物」
「俺ァ鋼の剣で充分だな」
違いねぇや、と皆で笑う。
精神状態、良好。誰ひとり欠けることなく。
傭兵を雇えといったセレンディアの言葉は「聖女イレンシア」にとっては吉兆だった。
「城の中にはどのくらい兵が残ってるんだ」
「分かんないね。城代とヴィーラ姫だけ狙おう。城代は首を落としたら賞金。姫は人質。殺しちゃ駄目だよ。ウルハーグ王が戻ってくるのと正面衝突は避けたいよね、みんな」
苦い顔をして男たちが笑う。
「ちなみに、兵力差は?」
エンティが代表してイリに尋ねる。
「こっちが一なら向こうは十。勝ち目はないね。たぶん二百騎くらい天騎士がいるはずだから、王様が歩兵を捨てて急いで帰ってきたら、やっぱり勝ち目、ないよ。地の利は向こうにある」
「よく調べたなぁ、ちびすけ」
「だって死にたくないもんね。セレンディア様は、私がなんとかする。ヴィーラ姫は、まぁ、マリエラにお願いで大丈夫じゃないかな。捕らえに行くから、その時に力を貸して」
「それだけでいいのかい、聖女様」
「だって、みんなが二の郭まで上がるのから、目を逸らさせなくちゃなんだよ。陽動に使える天馬はミューリとフォーリしかいないんだから」
こんな雇い主ならいつでも歓迎だ、と団員は肩を叩きあった。
「これは私の国の戦争だからね。だから、みんな死んじゃだめだよ」
「これだけ金払いがいいのは、近頃の商人以上だぜ。こんなおいしい話、みすみすフイにするかよ」
南の海の傭兵たちは、実にさらりとしていた。
「さて、世にも珍しき竜なんぞを見に、街まで行くとするかな」
ヴァシーが神妙な面持ちで言う。
「カルディア、フォウラーン、ヴィーラ姫って見たらすぐに分かりそう」
『マリエラが見張っているだろう。余計な気は回さなくて良い』
「ん、ありがと。じゃ、みんな、神殿前で!」
アシュレイの蹄が、乾いた大地を蹴って、白い翼が広げられる。大空が白い躯体を受け入れる。すぐに鋼の二騎があとに続き、空に舞った。
ヴァシーとエンティの行動は、陽動だ。兵の目を引きつけ、撹乱する。
もっとも、二人は矢の届かない上空にいたし、王城の守り手の中に天馬の類がいないことはフォウラーンが教えてくれていた。だからただ、百七十騎の巡礼姿の団体から、目を逸らさせることができればいい。
シーダ・イリ神殿の中がどうなっているのかは、精霊たちにもわからなかった。
そこは人の願いの渦巻く混沌とした場所である。在れ、というのならば在れるのだろう。事実、セレンディアは多くの小さくか弱い精霊を身辺に置いている。
その小さきものたちを目敏く見つけたフォウラーンは、やはり風の眷属だった。
『イレンシラディエラ、北東の角の建物だ。間違いないだろう』
「アシュレイ、あの中庭に降りて」
頭上には、まだミューリとフォーリが旋回している。
『ミューリ、フォーリ、撹乱は任せた』
『了解だ、アシュレイ』
二騎が頭上から去る。同時に、アシュレイはイリを乗せたまま、示された中庭へと着地した。
数度、翼を羽ばたかせる。
イリは、剣を抜いた。
「フォウラーン、何人いる」
あまり大勢いられるのは、困る。
『鉄のにおいのするものならば、二人』
セレンディアを閉じ込めておくだけならば、十分すぎる数だろう。彼女は戦う人ではない。
そして、イリも「戦う人」の格好はしていなかった。
ここには巡礼の姿もない。
森閑としていた。
石造りの手摺りを軽く乗り越えたところに、まるで道案内をするかのような銀色の姿が現れた。高位の精霊の雰囲気がひしひしと伝わってくる。
「――失礼、私は囚われ人を開放に来た。貴方様は、なにゆえこのような場所にいらっしゃるか」
長い銀の髪に、薄い蒼の瞳。人ではありえない瞳孔。
厳しかった眼差しが、わずか、ほころぶ。
「我は我がものの懇願により、聖女を助けることになっておる。風変わりな格好をしているが、そなたが聖女イレンシアだな」
「神殿に認められたわけじゃないけど、ここに囚えられている人が、私をそのように仕立てた。だから、多分、間違いじゃない」
イリは慎重に言葉を選んだ。
いと気高き存在。それがここにいるとすれば、あのイリアーディが取り計らったのだろう。
「では力を貸そう」
簡単に、言う。帯剣もしていないのに。
けれど、そもそも必要ないのかもしれない。精霊には精霊の戦い方がある。
敵地にもかかわらず、太陽が咲いたように、イリは微笑んだ。
「ありがとう。そう、さっきの空での姿、とても美しかった。遠くからもよく見えたよ」
「ではこちらの国の人間にもよく見えたことだろう。王に急使が立つのではないか」
「あ……そう、だよね。急いでセレンディア様を助けなくちゃ」
辺りをぐるりと見回し、遠くに神官の後ろ姿を見つけた。
手摺りを再びひらりと越えると、足音を立てずに彼の後ろから口を覆い、首元に宝剣を添えた。
「騒がないで。殺したくない。やってほしいことがある」
できるだけ低い声で、囁きかける。相手からはこちらの姿は見えない。
小さく頷くのを確認したあと、そっと両腕を離した。
「見くびるな、おまえひとりなどすぐに殺せる」
神官がこちらを向いて、襲撃者の姿を認めその姿に声を上げる前に、喉元にぴたりと宝剣の切っ先をあてる。
「あの奥の部屋に入りたい」
ごくり、と神官は喉を鳴らした。
「あそこは入れぬようになっております」
「なぜだ」
「北方民族が守衛を務めております。あの者たちは神を信じていません。――血が、流れるようなことをしてはなりません。ここは、シーダ・イリ神殿です」
ふうんとイリは目を細めた。
「大空神シーダ・イリと等しく大きな力を持つ精霊が、私の味方だ。血を多少流すことも、許してくれよう。お前はあの扉に声をかけるだけでいい」
「は……」
ゆっくりと、イリは剣を下げた。行け、と奥を指し示す。
神官は、そろりと回廊へ上がった。イリはその後ろから心臓の位置に剣の切っ先を突きつけ、ゆっくりと回廊を歩む。
向かった先に長い銀髪の麗人を認めると、神官は平伏した。
「お……お許しください。私はあの大いなるお方の前へは出られません」
「私の中にも大いなるものが二つほど、入っているんだがな。言っただろう、精霊が味方だと。私は急いでいるんだ」
『煮え切らぬ男だの。わらわが連れて行ってやろう』
カルディアの妖艶な声だけが聞こえ、神官はますます頭を低く下げた。
「ひぇぇっ」
情けない神官の叫び声も虚しく、彼は炎に包まれ扉の前まで移動していた。
『ほれ、声を掛けぬと焼きころすぞえ』
なんでもないことのようにさらりと言う。炎は彼の体を勝手に操り、扉をノックさせた。
「誰か」
女性の誰何の言葉が内側からかけられる。
「は、はい……当神殿の者ですが、お客様を案内してまいりました」
「名は」
「存じ上げません……大いなる存在です、高貴なお方です、これ以上はお許しくださいぃ」
涙声の懇願に、内側では不審を抱いたらしい、暗褐色の戦士が自ら開いた扉の隙間から、猫のようにするりと出てきた。
足元には、剣を突きつけられ、炎に包まれた神官の姿。
目の前には、金持ちの子女のような姿の少女が一人。
その傍らに、背の高い、色素の薄い麗人が立っている。
ナグラーダには、どちらが大きく高位の存在なのかは分からなかったが、少女は装飾品のような剣を神官に向けており、麗人は丸腰だった。
すぐに、抜刀した。
それを見て、イリは微笑んだ。
「カルディア、その人、もういらないから」
『左様かや』
「私はイリ・トゥア。あなたの後ろの扉の向こうにいる人に用事があるんだ。どいてくれないかな」
「――私は、リシェス・ナグラーダ、扉の奥の貴人の守り手としてここに置かれている。みすみす入らせるわけにはいかない」
互いに剣を構えた。狭い回廊である、互いに互いの剣の届く範囲であることを熟知している。
じり、とも動かない。
いや、動けない。
剣をひとふりすれば、相手の肉を裂くか、壁に切っ先を打ち込むか、どちらかである。
相手の肉に届かなければ、己が果てることになる。
そより、と風が和(な)いだ。
シェンハーディがさして面白くもなさそうに呟いた。
「ここでは狭いか」
彼を中心に、壁が、扉が、欄干が、薙ぎ払ったように砕けていった。
「何っ」
屋根まで砕け飛んだ。
二人は、地響きのした立ち位置からそれぞれ後ろに綺麗に飛んだ。射程距離から離れる。
「どうしたナグラーダ」
ドレス姿の貴婦人を背にして、もうひとりの暗褐色の戦士が剣を抜いていた。
「分かりません」
「セレンディア様!」
崩れた壁の向こうに金の扇を手に毅然と立つ女性がいる。その人が、はらりと扇子を開いた。
「いらしてくださったのね、聖女様。待ちわびておりましたわ」
口元は、扇子で見えない。
けれど、とても笑っているような目つきではなかった。
「聖女だと、この小娘が」
吐き捨てるように、戦士が言った。
いろいろ語弊があるのは横に置いて、イリは言い放った。
「天騎士イリ・トゥアだ。セレンディア様を迎えに来た。邪魔は、許さない」
辺りを砕いた精霊の大きな力に畏怖し、ナグラーダが一瞬構えを解いた。
それを見逃すイリではない。瓦礫を蹴って、ナグラーダの懐に潜り込む。
「っは」
生存本能か、幼い頃からの習いか、ナグラーダは咄嗟に胸の前まで剣を引き寄せ、ぎりぎりのところで回避した。
「ちっ」
イリは、舌打ちをして二撃目に入る。正確無比。ナグラーダは剣の柄でそれを弾いた。
そして反撃に入る。
柄で弾いた切っ先が自分へとかかる軌道を逸れるのを知ると、ふわりと宙を舞った。舞うように斬ると言われる戦士の美しい姿だ。
今度はイリが、剣戟を受け止めた。
ぐるりと大きく払いのけ、そのまま左から袈裟懸けに斬る。相手は既に剣の届く範囲にはいない。
しまった、空振りか、と思ったときには遅い。
背面からの攻撃を、素早く引き戻した剣の鍔で受け止める。
澄んだ高い金属音が、辺りに響いた。
(こいつ、遣える……)
少し離れて、お互いが肩で息をした。
(欲しい)
その腕が、味方に欲しい。
ナグラーダは、なぜリゾリウァルトがグラン・クランに併呑されたかよくは知らない。ただ、戦って、負けたのだと、王の前へ引き出された。
強ければ、強い遣い手がもっといれば、膝まづきなどしなかったのに。
「ぃやっ」
気迫を込めて、再度イリは突きにかかった。
イリは、リゾリウァルトがどのような場所かは知らなかったが、これだけの遣い手を従えるウルハーグ王を心底妬ましく思った。
歴史の教科書が正しければ、あの王はティルディシア王家の臣下であったはずなのに。
そうであれば、自分などが聖女だなどと祭り上げられなくても良かったのだ。
「小娘がっ」
ひらりと再びナグラーダは宙を舞う。
ぴたりと二人が背を合わせた。力で押されては、いくらナグラーダが小柄だとはいえ、子どものイリに勝ち目はない。
押し切られる前に、イリは前方へ跳んだ。立ち位置が逆になる。
シェンハーディのそばに、ナグラーダ。
イクテヤールの近くに、イリ。
お互いのことしか目に入っていないように見えて、二人はほぼ同時に、近くの人物に剣を向けた。
そう、イリはイクテヤールに。ナグラーダはシェンハーディに。
「「斬るぞっ」」
二人は同時に声を上げていた。
「むざと斬られはせん!」
「斬ってみよ」
それぞれの人質がそれぞれなりに応じる。
イリは、セレンディアを背後に守るイクテヤールに突撃をかけた。
ナグラーダは、シェンハーディの色素の薄い首目掛けて剣を突きつけた。
きぃん、と金属音が同時に上がる。
「何?」
驚きの声を上げたのは、ナグラーダだった。確かに鋼の剣は麗人の首に当たった感触があったのに、弾かれた。
目の前でイクテヤールがイリの突きを止めたのを見て、セレンディアは微苦笑した。
「おやおや、気位の高い高位の精霊に斬りかかるなど、まこと蛮族だこと」
イクテヤールは、このセレンディアを人質に取れないのが苦痛だった。后となってもらうのだから丁重に扱えと、ウルハーグ王直々の命があった。
「聖女様、そこな女は別として、この男はまことに粗野にございましてよ。そうそうに斬り捨てておしまいになって」
さすがに二人同時に相手はできない。ひよっこ騎士の訓練ではないのだから。
粗野といわれた男が、イリの深い斬り込みにまずは防戦で凌いでいる。
「竜の君、そちらは任せた!」
「無茶を言いおる。我は温厚な竜というのを忘れたか」
「だったらそっち一人動けないようにしておいて。多分こっちの男のが、強い」
「名は」
「ケアイダ・カラルク・イクテヤール。天騎士イリよ、なぜウルハーグ王に従わん」
「そんなの、自分の国を守りたいからに、決まってるだろう。セレンディア様はティルディシアの
渾身の力を込めて、イクテヤールを押しやる。けれど、大の大人の引き締まった体に押されては、負けは必至である。思いっきり押したあと、刃を弾いて攻撃可能圏外へ出る。
――グラン・クランなんぞに、渡すものか。
族長たちの会議は、それに終始したと聞く。
この小娘は、なんという大言壮語を吐くのだろう。
「フォウラーン、セレンディア様の小さいご友人を、放してあげて。きっと戻りたいはずだ」
『確かについてきているが、竜の君に気圧されている』
周囲の精霊が、小さきものの痕跡が、確かに周囲から消えている。逃げるが勝ちというのは精霊の世界でも同じようだ。
「じゃ、このおじさんとあっちのおばさん片付けなくちゃじゃないか」
竜の君――シェンハーディがここに現れたのは、ここにいればイリアーディの言う聖女を助けることができるからだった。それ以上でもそれ以下でもない。
ナグラーダが切っ先を向けたシェンハーディは、痛がる素振りも見せず、ちらりと小柄で豊満な肢体を見やる。
ナグラーダは敵わないとみるや、イリに剣を向けた。瞬間、ナグラーダの体は目に見えない何かで拘束された。
「ほれ、これで動けん。そっちは好きに料理すればいい」
「というわけでおじさん、私の相手をしてもらえるね」
イクテヤールは、剣を構え直した。
ナグラーダと同格の剣士など、リゾリウァルトにも僅かしかいない。剣術は、力で押せればイクテヤール、速さでいけばナグラーダ、リゾリウァルトではそのように言われていた。イリは、そのナグラーダに速さで負けない小柄な戦士だ。
また、緊張の時が始まった。お互いに構えたまま、動けない。
相手の強さをはかっている。
ぱしんとセレンディアが扇を閉じた。
その音を合図にしたかのように、素早さが武器のイリが、初めに仕掛けた。上段からは踏み込まない。足回りを狙って機動力を削ぐ作戦だ。
数度剣戟の音がした後、お互いの姿は無残なものに変わっていた。
肩や腕からは血を流し、戦闘重視のイクテヤールの服はともかく、イリの絹のドレスはあちこちが破れてしまっている。足にも小さな傷を負っており、一体どうしてそうなるものかという、衣装係の嘆く姿が目に見えるような姿だ。
細かく足を使うイリは、決定的なダメージを受けていない。
丈夫なイクテヤールにしても同じことだ。何度突かれても、決定的な傷にはならない。
「そこまでだ」
シェンハーディが、声をかけて割って入った。
腕にはナグラーダを抱いている。
「リシェス……貴様、何をした」
「おや、見ていなかったの、大事な大事な部下ですのに。そちらの竜の君は、随分と手荒いことがお上手ですこと」
素手でナグラーダを当て落としたらしい。シェンハーディは鋭いつま先をひたりとナグラーダの首に当てている。
「剣を置け。姫君方をこちらへ」
冷たい竜の一言に、イクテヤールは片眉を上げた。
「方? セレンディア姫だけではないのか」
「あら、いつわたくしの名を呼ぶことを許しまして」
囚われの身ではあっても、矜持だけは手放さないセレンディアである。
ぱしんと音を立てて、金の扇を閉じた。
「そこで傷を負っているのはわたくしの妹でしてよ。迎えに来るよう伝えましたの」
「これで満足か、聖女殿」
満足もなにも、全て叶っている。
セレンディアを人質の身から開放し、ナグラーダという人質も手に入れた。ウルハーグ王ならばナグラーダを切り捨てイリに手をかけるだろうが、イクテヤールにはできなかった。
「願ったりの状況だ、竜の君。アシュレイ、セレンディア様を乗せてもらえるかな」
『手綱をとることがないのであれば』
中庭の方から、天馬が姿を現した。白い、美しい姿である。羽ばたくと、翼の先が黒いのが印象に残る。
わざわざイクテヤールの隣に降り立ち、セレンディアに首を寄せた。
「わたくしを殺せないお前の負けでしてよ、リゾリウァルトの戦士。いくさとは、そのようなものでしょう」
前脚を折ったアシュレイの背に、横乗りにセレンディアが乗る。
「竜の君、申し訳ないけど私はこれから王城を攻めなくちゃならないんだ。適当な場所で、セレンディア様と待っていてもらえないかな」
言って、自分も立ち上がったアシュレイに騎乗する。
アシュレイが剣の届かない高さまでふわりと空へ駆け上がると、シェンハーディはナグラーダを抱えたままその姿を巨大な竜の身へと変えた。
その姿になると、精霊使いでもないただ人が敵うわけがない。
銀の鱗を煌めかせ、ナグラーダをゆっくりと地面へ置いた。
イクテヤールは、咄嗟に矢をつがえた。イリを狙い、弓弦を引く。
正確に標的を定めたが、間に竜が割って入った。
「北方の民よ、お前たちは精霊を侮りすぎる」
冷たい声が辺りに響く。
「しかし万能ではあるまい」
轟々と風が啼いた。竜が笑っているのだ。
「ティルディシアには竜がいる。そういえば、きっと失態を許してくれると思うよ、おじさん。だって竜は精霊の中で一番位が高いんだからね」
少女の澄んだ声を残して、一行は王城二の郭の神殿の門まで一気に駆け抜けた。
個人の戦いではない。そうであれば、イリは生きてはいないだろう。それほどにナグラーダもイクテヤールも強い。
この竜にただひとり願い事のできるイリアーディを奥の宮にとどめておくのは、軍事的にも政治的にも民の心情的にも惜しいと、今更ながらセレンディアは思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます