第8話 イリアーディの場合 1.2

 イリアーディの侍女たちは、少々おかんむりだった。

 早くに起きるのは、精霊使いが精霊に褒美を与えるのに、清浄な朝の空気が必要だからだ。

 主の髪を乾かすのを見ながら、筆頭侍女が声をかける。

「イリアーディ様、もっと遅くでもよろしいのではありませんか」

 だいたいが、そのあと眠りに落ちてしまう。自分でそれを知らないではないのに、許可を与えるとは。

「お前、わたくしが攫われたとして、あの者の気持ちを思いやってちょうだいな。わからないお前ではないでしょう」

 ねぇ、と伸ばした細い腕に、侍女たちが乳香を染み込ませる。

「わたくしは、わたくしの世界があまりに小さいことを、今日の朝議で知りました。わたくしは、妹がいることすら知りませんでしたの。とても嬉しいと同時に、とても悲しく思いましたわ。世界と隔絶された場所にいて、どうして正しい祈りができましょう。何を望むことができましょう」

 竜の巫女だから知らなくていいのではなく、竜の巫女だから知っていなければならないのではないだろうか。

 何のために王家に生まれたのか。

「ですから、あの者の言うこの国のあらましを知り、正しくこのティルディシアのためになることを竜にお願いしとうございますわ」

 豪奢なベッドに寝そべり、天蓋に背を向ける。その背中にも、乳香が塗られていく。

「セレンお姉様は、ずっと見て、考えていらしたのね。比べてわたくしの愚かなこと」

 だんだん眼蓋が重たくなる。数度瞬きをし、侍女たちの声を遠くに聞いていたような意識を、手放した。たくさんのことがありすぎて、疲れてもいた。

 次に見たのは、柔らかな掛け布団の内側だった。

 ちょっとあんまりな寝相なのではないか、とは思ったが、急いでベッドから飛び起きた。

「朝露!」

 マントルピースに並んでいる小瓶を手に取り、大急ぎで庭へ出た。

 暁闇。

 足元はしっとりと濡れていた。明けゆく闇の中で、お気に入りの花の下にそっと瓶を近付け、花弁を軽く弾く。

 ころり、と露が瓶に落ちる。無心に露を集め続けていると、部屋から侍女に呼ばれた。

「イリアーディ様、お召換えのお支度を」

 小指の先ほどの小瓶に半分くらい、朝露が溜まっていた。十分だろうと判断した。

「すぐ、参りますわ」

 眠ったあとに着せられたらしいが、イリアーディは薄いレースのシュミーズひとつしか身につけていなかった。こんな姿では、セレンディアの侍女には対面できない。

 硝子の扉が開け放たれていた。そこに、少し険しい顔をした侍女頭が立っている。

「お昼からになされば、良かったのですよ」

「もういらしているの」

「はい、おいでです」

「今日はきちんと着替えます。精霊たちが入ってくるから、そこは開けておいて」

 上目遣いにお願い、と言うと、どの侍女も深いため息をついて許してくれる。今日だって、許してくれた。

 ただ、客人に会う支度というのは、いつもより時間が少しかかって、精霊たちまで待たせることになってしまった。

「いつもよりも綺麗よ、あたしたちのイリアーディ」

「あら、あたしが言いたかったのに」

「こういうの、人はハヤイモノガチというのでしょう」

「イリアーディ、あなたの綺麗なお姉様を見つけたわ」

「あたしたちの可愛いイリアーディ、馬車も見つけたわ。お姉様が乗ってらしたわ」

 息つく暇もなく、精霊たちが報告する。小さきものは力あるものに使役されるのが嬉しいのだ。何よりちゃんとこの精霊使いはご褒美をくれる。

 それに、精霊たちにとって、生まれてからずっと見守ってきた可愛い存在は、賢くも大いなる存在に嫁すのだという。それについて行ってもいいのだという。

 こんなに嬉しいことがないはずはない。

 

 樫の木の重たい扉が開かれ、可憐な王女は待たせてしまった客人に深々と腰を折った。

「お待たせしてしまって……」

 シンシアは、にっこりとイリアーディに微笑みかけた。

「急がせてしまったようですね、申し訳ありません」

「ちょうど精霊たちから報告を受けたところですの。――セレンお姉様はご無事で、馬車に乗ったままだそうですわ」

 ほうっとシンシアがため息をついた。正直なところ、リゾリウァルトのふたりは早々に馬車を捨てさせるのではないかと思っていたのだ。

「どちらに行かれたかは、分かりましょうか」

「ねぇ、お前たち。セレンお姉様の馬車は、どの辺りを走っていたの」

「草叢の中よ」

「そう、たくさんあたしたちみたいな精霊がいたわ」

「それはセレンお姉様のお友達たちかしら」

「「「ほとんど!」」」

「ここからの方角は。海の方かしら、山の方かしら」

「河の方よ、イリアーディ」

「そうよ、とても大きな河だわ、でももっとずっと先」

「シンシア、とても大きな河と言ったら、お隣の国との境以外にあって」

「精霊が躊躇する河ならば、確かにフリオナ河ですわ。もうそんなところまで」

 ふるふると小さく首を横に振る。

「まだ、ずっと先だそうですわ。山の方か海の方か訊いたら、河の方と言ったの」

 シンシアは、持ってきた羊皮紙を広げた。

「これはなぁに」

 線と文字、記号が書かれている。

「地図ですわ。文字は読めましてよね」

 指差しながら、イリアーディは地図を読み始めた。

「右半分がティルディシア、フリオナ河を挟んで対岸が……新興国グラン・クラン」

「この線引きを決めたのが、アイリーン姫ですわ」

「ねぇ、小さき方たち。セレンお姉様を見かけた場所が、分かって」

 精霊たちに地図を示す。

「「「この辺」」」

 てんでばらばらな場所を指す。けれど、それは、ティルディットから直線で、河岸の黄金平原を目指しているようだった。そして確かに、街道を外れている。

「分かりましたか」

 心配そうにシンシアは訊いた。

「だいたい、この辺りのようです。直進すると、確かにフリオナ河に着きますもの」

 その代わり、野宿は避けられない。それを言うと、イリアーディは考えた。

「野宿とは、浮民が行うものではなくて」

「遠き地に赴く行軍では野営というものがございます。けして浮民だけのものではありません」

「ですけれど、セレンお姉様にはおいたわしい限りですわ……」

「示された場所は城塞都市とは方向が少し違いますね」

 イリアーディは、その文字を地図の中から探そうとしていた。

 こちらです、とフリオナ河沿いの一点を示した。

「ルノー、ヴィア」

 そして対岸にあるのが、リアダール砦と書かれている。

「馬車で通れるのはこの一箇所のみです。そしてイレンシア様ですが――現在はこちらに向かっておいでです」

 海――概念しか知らない。塩辛い水を湛えているのだという。その海の中に、小島がまとまった一角があった。これには、カウシェンブル島群と名が示されている。

「ここに、イレンシア様が頼れる騎士団がお有りになる」

「いいえ、この島で戦うものは、皆傭兵です。たまたま我が母に縁があり、その筋を頼っているはずです」

 イレンシアが予想外の行動を起こしているのならば話は別だが。

「傭兵とはなぁに」

「金で雇われて、雇い主を守り戦うものたちです」

「まぁ、それではたくさんお金がいるわ。誰か」

 呼ぶ声に、侍女が姿を現した。

「なんでございましょう、イリアーディ様」

「イレンシア様がたくさんお金を必要とされていらっしゃるの。傭兵というものたちを雇うのですって。わたくしの名前で集められるだけ準備したいと思いますの。できて」

 具体的金額は言わない。分からないのだ。

 けれど、シンシアは目を見張った。この王女はたおやかなだけではない。

「かしこまりました。用意させましょう」

 二年前まで、第二王妃従きの侍女だった者だ。無能ではない。それに、主の曖昧な言葉を現実にするすべを知っている。

「頼るということは、頼れない場合もあるということかしら」

「はい、ございます。カウシェンブルの傭兵はカウシェンブルを守るためにあります。けれど、今の判断はご英断かと存じます」

「小さき精霊さん、皆ご苦労さま。ご褒美の朝露よ」

 小さな小さな小瓶を、マントルピースの上に置く。

 わぁっと言って、精霊たちは群がった。シンシアにも他の侍女たちにも聞こえないが、その嬉しそうな様子を見て、イリアーディは小さく笑った。

「馬車に乗られたままということでしたら、渡れるのはこのルノーヴィア城塞都市とあちらがわのリアダール砦のあいだに架かる橋しかございませんわ。セレンディア様の意見が通るのであれば、早々にこちらに姿を現されるでしょう」

「城塞都市とは、何をする都市なの」

「グラン・クランに対峙するための戦力を擁した都市ですわ」

「こちらにもお知り合いの方がいらっしゃるの」

「残念ながら、おりません。どなたが守っていらっしゃるかも、一介の侍女では分かりかねるところです」

 ふんわりと微笑んで、イリアーディはシンシアの手を握った。

「でしたらシンシア、あなたのお兄様に聞いてみるのはどうかしら。筆頭公爵よね」

「身分が違います。殿下がお聞きになられた方が早うございます」

 シンシアはそっと手を離し、目を伏せる。

「わたくしが、外の殿方と、お話を」

 困ったようにイリアーディは聞き返した。

「書簡でよろしいかと存じます。諸軍の配備状況を知りたいと願えば、教えてくれましょう」

「諸軍。ルノーヴィアだけではなくて」

「いちいち聞く手間が省けましょう。軍の動向を抑えているのは、セレンディア様と筆頭公爵様です。そのセレンディア様が残した手紙は二通、ひとつはイレンシア様宛て、ひとつは筆頭公爵様宛てでした」

「公爵宛ての方も中をご覧になったの」

 この王女の眼差しはまっすぐ過ぎて、シンシアには痛い。

 ひと呼吸分ほど時間をおいて、応えが返された。

「――僭越ながら」

「それで、公爵には何と」

「ラン騎士団を緊急に招集し、半数をティルディットに置き、半数をルノーヴィアに向かわせトゥア将軍の指揮下に入るように。その際、聖女様が立ち、国難を救ってくださることを国民に知らしめながら民衆も軍勢に加えるように」

 そこでまた、イリアーディは首を傾げる。

「戦うことを知らない民草に武器を取れと触れ回るんですの」

「国を挙げて戦支度をせよということかと存じます」

「まぁ」

 言葉が途切れた。想像したことなどなかったのだから。

「ですから、竜を召喚してくださいませ。王女殿下にも立っていただきとうございます」

「……それは、セレンお姉様のお考え」

「いえ、私が望むことにございます。竜はグリュンディル家の守護の象徴とされております。それが姿を現すと現さぬでは、民の士気が違います」

「でもね、シンシア。あのお方がわたくしのものなのではなくて、わたくしがあのお方のものなのですわ」

 無理を言っては、きっと怒ってしまわれるだろう。それはティルディシアに災厄をもたらすのではないか。

 うまく伝えられないもどかしさがある。

「あなたは一度も精霊を見たことはなくて」

 何を言いだしたのだろうか、とシンシアはイリアーディを見つめた。見つめ返されることを覚悟して。

「天馬を精霊というのでしたら、ラン騎士団に所属するものを見たことがございます」

「天馬は荒々しい精霊ですの。自分で選んだ者にしか、騎乗を許しませんのよ。普通の馬のように使役するのではなく、友好の意を含めて、騎乗を許すのです」

「では、竜も同じだと仰いますか」

 にっこりとイリアーディは微笑んだ。セレンディアならばさぞかし黒く笑うのだろうが、この王女にそれはない。

 あくまで、可憐で温和。

「竜はおとなしい性質ですわ。ただ、怒りは天馬よりも苛烈といわれます。おそらくアイリーン姫には深く同情し、その怒りを侵略する者たちへ向けたのだと思います。あのお方は、わたくしの望むとおりを叶えてくださると仰いましたけれど……わたくしは何をどう望めばいいのか、分かりませんの。それを教えていただきたくて、あなたにいろいろ聞きたかったのですわ。この国の、あらましを」

 竜のためだという。

 恐らく、急逝した第二王妃は追々イリアーディに伝えようとしていたのだろう。

 なぜ王女として育てたか。今、答えられるものはここにはいない。

 それに深く関与していたであろう母の姿を、シンシアは思い出していた。

「望むのはティルディシアの勝利です。リアダール砦を陥とし、グラン・クランの兵を王都まで追い詰めることです。そこで和議を持ちかけ、こちらの望むとおりの国境線を引くことです」

「それもあなたのお考え」

「いいえ、アイリーン姫が為されたことですわ、殿下」

 何かを言いかけ、ふ、とイリアーディの表情が和らいだ。

「でしたらそれは、イレンシア様のお役目ですわ」

「それに竜の力添えがあったら頼もしいとは思いませんか」

 セレンディアがこんなことを言ったら、きっとシンシアは言うだろう。「無茶ですわ」と。

 けれどそのセレンディアがいないのだ。セレンディアの役目を果たす者がいなくてはならない。

 カウシェンブルはフィーニとイレンシアが何とかするだろう。

 臣下のまとめは、筆頭公爵がいる。

 この幼い王女を動かせるのは、どんな権力でもない。セレンディアなら事も無げにおやりなさいと言うのだろう。王族として、あるいは姉として。だがその役目を果たせない。だからわざわざ封蝋をしないままの手紙を残したのだ。

「セレン様なら、きっと仰いますわ。――竜を、召喚するように、と」

「では、何をお願いいたしましょう」

 確実に召喚できる可能性はない。しかし、もし召喚できたとして、何を願えばいいのか考えておかないと、その場でうまく答えられる自信がない。

「アイリーン姫は戦況に応じて竜を各地で召喚し、その姿の異様を以て戦を優位に進めたとされています」

「戦況?」

「戦がどのように行われているかです。どのような事態でどのように対応したかは、詳しいことを存じ上げません。セレンディア様は政治は行っておいででしたが、軍事は学ばれておりません。歴史の一部としてアイリーン姫の偉業を学ばれたのです。今の布陣を知っている限りで申し上げますと……」

「布陣とはなぁに」

「戦においてどこにどのように誰を配置するかということです」

「まぁ、セレンお姉様はそのようなことまでご存知なの」

「自らお考えになったことは全て私にお話くださいました。また、今回は戦が起こることが想定されておりましたので、家臣団ともお話を重ねられていたようですわ」

 ついて行ける場所にはすべてついて行った。控えている場所では、慎み深く待っていた。

「なぜ、戦が起こると分かったのかしら」

「グラン・クランからの申し入れがあったからです。王女のいずれかを后に欲しい、と」

 イリアーディは沈黙した。

 自分は女子ではなく、竜に捧げられる身である。隣国の后にはなれない。

 セレンディアが欠けると、どうやら王国は混乱をきたすようである。

「セレンお姉様は、その申し入れを受けなかったのですね」

「はい。婚姻による共同統治という形をもつ併呑だと受け取れますから」

「でも、アルスお兄様がいらっしゃいますわ」

「恐れながらアルスロード殿下は政治に疎くていらっしゃいます。軍事にも関心をお持ちではありません。そのような方を国王としたら、国王お取り巻きによる奸臣のための国事しか行わないでしょう。国の根幹が揺らぎます」

 今度は、とても悲しそうな表情になった。

「――わたくしも、同じですわ。政治も軍事も分からないのですもの」

「ですが、今、興味を持たれていらっしゃる」

「国の危難ですもの、竜の君に何かをお願いするとして、知らないことはお願いできませんわ」

 ですから、とシンシアは微笑んだ。

「その国の危難に心を痛めていらっしゃるイリアーディ様と、全く興味を持たれず連日夜会を開いておいでのアルスロード様では、雲泥の差がございます」

 イリアーディにとっては、夜会も知らないもののひとつだ。それはいけないことなのだろうか、とも考えたが、質問することを控えた。

「何事にも興味が必要ということでしょうか」

「時と場合をわきまえていただければ幸いかと存じます。セレンディア様は常々、アルスロード様と性別が逆であれば良いのにとおっしゃっておいででした」

 国事を動かす国王と、奢侈を極める姫君。それならば姫君を嫁に出してしまえば国は安定する。残念ながら豪奢を求めたのは王子の方であった。

「竜の君には何と申し上げましょう。たしか、セレンお姉様は、聖女様を仕立てるとおっしゃられていたそうね」

「はい。竜の君には、聖女様をお助けするよう申し上げるのがよろしいかと存じます」

「でも、どこへ向かえばよいのかしら」

「地図へ戻りましょう。私が存じ上げている限りの人の配置を説明いたします」

 その日は午前中いっぱい、昼餉の時間にお腹が鳴るまで、イリアーディは固有名詞と格闘を続けた。貪欲に学ぶものだからシンシアもつい熱が入り、数日のうちにカウシェンブルとの鳥便の往復は数回を重ねた。シンシアにしても、知らないことがたくさんあったからだ。その間、イリアーディは初めての手紙をカリュンダルフ公爵に送ったりもした。

 セレンディアからの書簡の写しも送られてきた。

 イリアーディはよく咀嚼した。

「シンシア、セレンお姉様は助かるつもりでキユナタルディスへ向かわれたのですね」

「きっとそうだと信じております」

「では、竜の君にはセレンお姉様のところへ行っていただきましょう。イレンシア様もそちらに向かわれるんですもの」

 この数日間は無駄ではなかったとシンシアは確信した。

 あとは、遠き地にいるイレンシアが聖女となれば、おそらく、戦況は好転するのだろう。

 ふたりは願いが現実となるよう祈った。



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