第7話 イリアーディの場合 1.1

 イリアーディは鏡の間まで降りていた。ティルディシア王宮の奥の宮の、更に地下である。

 自分は剣を持つことができない。

 いや、もしかしたらできるかもしれない。双子の妹は、騎士位、しかも天馬を操る天騎士なのだ。

 胸の前で、両手をそっと広げた。白く、たおやかな両手。彼女のものとは全く違う。

 鏡には、可憐なドレスをまとった姿が映し出されている。

 姉のセレンディアのような華やかな美しさはない。

 妹のイレンシアのような溌溂とした凛々しさもない。

 ただ、竜に捧げられるためだけに生きている。

 あの朝議では、国を左右する話が行われていた。が、ほとんど理解できなかった。

 情けなく思う。

 同じ王女に育ちながら、セレンディアは朗々とものを言い、兄王子や貴族たちを従わせた。

(わたくしは王女ではなかった――)

 それは竜に嫁ぐにあたって、さしたる問題ではないらしい。

 それよりも自分たちがあの貴族や兄王子と同じ男性であることが衝撃だった。

そして、男子であるなら何故国事に参加できないのか、疑問だった。

なぜ政治から遠ざけられるように、奥の宮で育てられたのだろう。

 父も母も優しかった。精霊たちと同じように、可愛いイリアーディ、と呼んでくれていた。

(わたくしは何をなすべきなのでしょう)

 竜に嫁ぎ、国の平穏を祈ることしかできないのだろうか。

 それは、皆が言うように、国事を為すより難しく他の誰にもできない役目なのだろうか。

 今まで何も考えないで生きてきた。竜に嫁すことだけ祈っていれば良かった。

 はたり、と涙がこぼれた。何と無力なことだろう。

「どうしたの、可愛いイリアーディ」

 精霊たちが訊いても、イリアーディは首を横に振るだけだった。無力を嘆く。

自分はあまりにも弱い存在だ。

「皆の役に、立ちとうございますわ……」

 王女ならば為すべきことがあるのではないか。

 セレンディアのように。

 イレンシアのように。

「竜の巫女姫が嘆くことなんてないわ、ねぇ、そうよね」

「そうよ、イリアーディ。あの気高く神々しい存在に嫁げるのだもの、泣かなくていいわ」

「ねぇイリアーディ。この鏡は、尊き竜とお話することができてよ」

「そうだわ、あたしたちのイリアーディ。ご相談なさいな」

 濃密な精霊たちが、イリアーディの周りでさざめきあっている。

「だめよ、外界の穢れを払わなければ」

 奥の宮を出たのは、自分の意志だった。

 セレンディアに呼ばれなければ出ることはなかっただろうが、それでも、王宮で一番の精霊使いである自分がイレンシアを迎えなければならないと決意した。

 イレンシアは何も持たないのだ。同じ顔形だと断言したセレンディアのためにも、イレンシアを迎えに出る意味があった。

後悔はしていない。

 潔斎は、いつも王宮深部にある泉で行っていた。

 清らかな水があり、誰にも覗けない。

 母王妃は誰にも潔斎の姿を見られてはならないと言っていた。理由がわかった。自分は女性ではなかったのだ。

 鏡の向こうへ抜ける通路は、セレンディアも知らない。

 他にも、精霊使いのための仕掛けがこの部屋にはたくさんあった。すべてを覚えているわけではない。力あるものを見極め、扱う技量が必要なのだ。

 セレンディアは小さきものと呼ばれる精霊と会話することはできる。

 これは、その小さきものたちから聞いたことである。

 竜が神聖で清らかな存在であることも、小さき精霊たちから聞いた。

 そのため、王宮の奥の宮は竜の巫女が城にあるときのみ使われる、特別な場であった。

 すべては竜のため。

 生まれた時から清らかであれと育てられた王女からは、外界の、時に醜いことさえある政治や社交といった場は遠ざけられていた。


 で、あるのに。


 この国に、災厄が降りかかろうとしているという。セレンディアはそれを阻止するため先頭に立って尽力している。そのようなことを、奥の宮は拒絶していた。

 竜の巫女とは何であるのか。災厄を払い、平穏を願うためにいるのではないのか。


 涙に伏している場合ではないのだ。

 何もしないではいられない。

 放蕩三昧の兄王子と同じでは駄目なのだ。無力なものは、今のティルディシアにとって荷物でしかない。


 潔斎を続けるため、鏡ではない場所から部屋を移動する。

 人工的ではない高い天井とその空間の半分を占める岩盤に穿たれた泉のある場所に着くと、イリアーディはドレスを脱ぎ捨て、レースの下着姿で水へと入っていった。

 水がかきわけられ、斑紋が広がる。

 冷たくも温かくもない水だ。その中に身を沈め、ひたすら祈った。

「いと尊き神々よ、この世のあらゆる精霊たちよ、どうかこれ以上の災厄がティルディシアに降りかかりませんよう、民が安穏と暮らせますよう、わたくしは願います。この身を何に捧げてもかまいません、どうぞお聞き届けくださいまし……」

 胸の前で手を組み合わせ、目を閉じ、ひたすら祈る。

 できることはそれしかなかった。


 どれだけ泉に浸かっていただろうか。

「して、その身を何に捧げる」

 声が掛かった。は、と顔を上げると、何とも風雅な麗人が泉の上に浮かんでいた。

 銀の長い髪がふわりとそよぎ、冷たく薄い蒼の瞳が、イリアーディを射すくめる。

 わずかばかり考えて、はっきりと答えた。

「――わたくしの願いを聞き届けてくださる方にですわ」

 人ではない。

 ただの精霊でもない。

「精霊使いだな」

「竜の巫女にございます」

「では、我に仕えよ」

 あまりにぞんざいな言い方に、イリアーディは瞳を丸くした。これが、竜なのか。

「あなた様は……この国に、ティルディシアに、何をもたらしてくださいますか」

 鋭い瞳のまま、麗人は口だけで形ばかりの笑顔を作り、剣呑な返答をした。

「勝利を」

 竜とは繊細でたおやかで争いを嫌う生き物だと、精霊たちから聞いていた。

 しかしこれは何だ。勝利というからには、戦いに赴くようではないか。

「わたくしは、この国の現状を詳しくは存じておりません。それでも、わたくしの身と引き換えに、危難を厭わずこの国を救ってくださると」

「いかにも」

 鷹揚に、麗人は頷く。

「わたくしは乙女ではございません」

「分かる。そなた、男子おのこだな」

「王女として育ちました。……それでも、かまいませんの」

「人間の流儀は知らんが、それは珍しいのか」

 イリアーディは頬を赤く染めた。

「女子でなければ、男子とは添い遂げられ、ませんもの……」

 けれど母は言っていた。

 人間には嫁げないが、竜ならばいいのではないかと。気にするなと。

「あなた様は竜でございましょう……であれば、人とは違うものだから気に病むことはないと母が……言っておりましたの」

「賢母のようだ。確かに、乙女の肉が美味いといって食う輩もいるが、私は食する肉に興味はない」

 今度は、顔を蒼くする。

「わたくし、あなた様のお仲間に、食されるんですの……」

 それならば、できるだけ息を止めた後に食べて欲しいと、真剣に願った。

 不思議そうに、竜は微笑う。

「我に仕える巫女を、如何様にして他のものが食す。そなたは今より我の巫女だ」

 気に入った、と薄く笑む。

「我に名を。何、国のあらましなんぞ知らずでも委細構わぬ。我のみを請え。さすればそなたの願い、聞き届けてやろう」

「――イリアーディエイル・グリュンディール。呼び名は、イリでもイリアーディでも構いませんわ」

「我が名はシェンハーディ。だがこの名を気安く呼ぶことは許さぬ。好きに縮めて呼ぶが良い」

 真名を授かったのだ、と、イリアーディは瞠目した。

「では、シェーン様、と呼ばせていただきます」

「ところで、その辺りにはそなたに話しかけとうて我を見やる小さきものたちがたくさんおるが……」

 大きな存在に身を縮こまらせていたのだろう精霊たちが、不安そうにイリアーディとシェンハーディを見つめていた。

「まぁ、夢中で気付きませんでしたわ。どういたしましたの」

 小首を傾げるイリアーディに、精霊たちは群がった。

「上のお部屋に銀と闇と太陽の匂いのするひとがいらしてるわ」

「入口がわからなくていてよ」

「でもあたしたちのイリアーディには、この大きな方のほうが大切なんですもの」

 そうだわ、だからいいんだわ、とさえずりあう。

 小さな精霊は、精霊使いでない人間のことなど、歯牙にもかけない。自分たちが見えないかわいそうなもの、としか思っていない。イリアーディの侍女たちにも、何の注意も払わない。

 精霊使いの数はけして多くない。王家にはその血が流れているというが、アルスロード王子のように顕現しないものもいる。

「わたくしを待っていらっしゃるの」

「だってあそこはイリアーディのお部屋ですもの」

 イリアーディは、シェンハーディを見上げた。

「わたくしごときを気にかけてくださるのはセレンお姉様しかいらっしゃいません。シェーン様、中座してもよろしいかしら」

「何、我とて本体はここにない。思うようにするがよかろう。ただ、我以外の物にはなるでないぞ」

「もちろんにございます。わたくしは、シェーン様の巫女にございますから」

 ふんわりと、微笑んだ。

 人でなくても分かる、愛らしい表情だった。


 潔斎したあとはその身を濡らしているのが常である。

 イリアーディの数少ない侍女たちは、地下から現れる巫女のために、ふかふかのタオルと新しい下着とドレスを用意していた。呼び鈴が鳴らされるまでは控えの間にいるのが常であった。

 この日は多少違った。

 アルスロード王子の館では夜会がいつもどおり催されている。いや、今はもう散会の時間か。それに出向いていたには、少々身なりの違うもの――女官服を着た女性が、イリアーディの客間に通されていた。呼び鈴は確かに鳴ったが、控えの間から出てきた侍女たちを、その女官服の姿の女性が呼び止めたのだ。

「私もご一緒してよろしいかしら」

 本来ならば、一刻も早く話をしたかったのである。

「申し訳ございませんが、セレンディア王女殿下の侍女頭にお見せできるお姿ではございませんので……」

 やんわりと拒絶する。確かに、男子である王女の裸は、ほかの誰にも見られてはいけない。

 イリアーディ王女の侍女は、全て母である第二王妃に仕えていた者たちだった。

「理由は存じ上げておりますわ」

「こちらにお通しすることも、今までにないことなのです。ご了承くださいませ」

「準備にはどの程度かかりますでしょうか。その時間が惜しいのです」

 身体を拭き清め、乳香を塗り、下着を着け、髪を結い上げ、コルセットをつけ、化粧をし、ドレスを着る。それがどれほど時間がかかるのか、分からないシンシアではなかった。

「イリアーディ様に聞いてまいりますので、もうしばらくこちらにおいでくださいませ」

「……そうね、あなたたちが言うのももっともですわ。お返事を早々にお願いいたします」

 シンシアは、イリアーディに会ったことはない。同じ王宮に寝起きしながら、セレンディアは奥の宮に入ることはなかったし、それに従うシンシアも、足を向ける場所ではなかった。

「姫様、姉君様のお使いの方が来ていらっしゃいます。お急ぎのご様子ですがいつお通ししましょう」

 地下から上がってきたイリアーディに、筆頭女官が伺う。

「セレンお姉様の……? 困ったわ、髪が乾いていないの」

 姿を整えなければ表に現れることはできない。そう、嘆いた。その当惑の声は、扉を隔てたシンシアにも聞こえた。

 濡れた絹の下着が脱がされる。金灰色の髪は長いが、確かに少年の姿である。

 いつになく急いで身体を拭い、下着を身に付ける。すると、少女ができあがった。

 髪はまとめてタオルに包まれた。コルセットは付けずに夜着に手を通すと、肩にタオルをかけ、そのままの姿で客間へまろび出た。

「はしたない姿でごめんなさい、長い時間お待たせしてしまったようですから……」

 侍女たちが後ろを付いてきて長椅子に座った主の髪を櫛削り水気を取っている。

「まぁ、まぁ……」

 けれどシンシアは、来客が火急の用を抱える女性であればセレンディアでもそうするだろうことを心得ていた。

「外より汚れを持って入って、申し訳ございません。ですが、どうしてもイリアーディ様にお縋りするより他なく、神殿より参りました」

「セレンお姉様は……? わたくしよりもずっと頼りになる方ですわ」

「そのセレンディア様が、グラン・クランへと攫われたのでございます」

「え……」

 水により冷えた身体は蒼白いほど白かった。その身体が、いっそう蒼くなる。

 長椅子に座っているので、倒れることはない。

 けれど、立っていたならば倒れたであろう王女の身を、侍女たちがしっかり支える。

「イリアーディ王女には精霊を使う力があると聞き及んでおります。どうか、セレンディア様を、お救いくださいませ」

 丁重に腰を折り、イリアーディの気が戻ることを願う。

「……わたくしは……今朝、初めて、王宮から出ましたの。そのわたくしに、何ができるというのでしょう……」

「僭越ながら申し上げます。イリアーディ王女殿下、竜を召喚してくださいませ。できるのは、竜の巫女であるあなた様だけです」

 なんという間だろうか。

 今朝、初めて王宮の外へ出た。

 先程、初めて竜と話をした。

 その間に、セレンディアは攫われたという。

「あなた……わたくしは確かに竜の巫女ですが、一方的にあの方を呼ぶことはできないのです。あの方は遠き地におられ、会話はできてもなにがしかの手を下すことは難しゅうございます。何より……竜というのは、温厚な性質ですのよ」

 温厚とは真反対の瞳の冷たさを見た後だったが、それでもシェンハーディを呼びつけるなどイリアーディには考えられなかった。

「どうしましょう、ティルディシアは、お姉様を欠いては……。アルスお兄様は、セレンお姉様を助けてはくださらないの」

 イリアーディには政治など分からない。

「今夜も夜会を開いておいでです。それを急に止めさせれば、混乱を招きます。あの方には、あの方のいつもどおりの生活をしていただかねばなりません。何より、あの方に肩入れする貴族たちに、こちらの状況を知られてはなりません」

「それはあなたの判断ですの」

「いいえ、セレンディア王女殿下の判断です。原本はイレンシア王女殿下に送りましたが、セレンディア様の書簡の写しがここにございます」

 手渡され、イリアーディは困惑の表情を浮かべた。

 この女官は自分に何を求めているのだろう。自分は何の力も持たない。ただ、王族であり、精霊使いであるだけだ。社交界の華でもなければ、政治を理解するでもない。

「アイリーン姫は竜を駆ったとの伝承がございます」

「わたくしに、アイリーン姫と同じことを望まれますの」

 いいえ、とシンシアは首を振った。

「それはイレンシア王女殿下にしていただきます」

 でもそれは竜には頼めない。あまりに恐れ多い。

「殿下は恐れ多くも、王族でございましょう。私などよりできることは多いと思いますが」

「わたくしは本当に……。いえ、セレンお姉様の居場所だけは突き止めましょう。精霊たちが教えてくれます。けれどお救いすることはわたくしにはできません。分かったならばあなたに教えましょう。お住まいと、お名前を教えていただけないかしら」

「シンシアーディ・アルージェ・カリュンダルフと申します。王宮の侍女の詰所に届けていただければ、私が取りにうかがいます」

「……カリュンダルフ公爵にご縁の方」

「当代の異母妹にございます」

 ようやく、いつものようにふんわりと微笑むことができた。

「でしたら、セレンお姉様の義妹になられる方なのですね。シンシアーディ、わたくしにできることを探して下さり、感謝いたしますわ。無力を嘆いておりましたの」

 正直に、気持ちを打ち明ける。

「無礼を申しました。実は、王女殿下方に、グラン・クランから縁談が持ち込まれておりました。我が主は降嫁し、イリアーディ様は竜の巫女となられるために無理だと返しましたところ、このような強硬な手段に出られ……為すすべがございませんでした」

 この人はどこまで知っているのだろう、とイリアーディは考えた。

 言葉の拙い小さき精霊たちに使いを頼むのは、簡単なようでいて難しい。

 知りうるすべてのことを聞こう、と身構えた。

「セレンお姉様が神殿をお出になられたのはいつごろですの」

「夜会に出向くとほぼ同じ頃と調べがついております」

 今はもう日が暮れて、夜会もそろそろお開きになる時刻だ。

「どのようなお姿で出られたのかしら。夜会へ行くを装って……」

 思案するような仕草をしたが、シンシアはいいえ、と答えた。

「乗馬服で、神殿の馬車を所望されたようです。攫った相手は分かっております、殿下」

「あら、まぁ、なぜご存知なの」

「名乗りました。リゾリウァルトのイクテヤールとナグラーダ、二名です」

「まぁ、それはどちらのお方」

 事実、イリアーディはリゾリウァルトを知らなかった。シンシアは、常にセレンディアのそばに控えていたから、知っている。

 隣の国の戦争がどうのなどということは、王宮の奥の宮には伝わってこないことだった。

「隣国、グラン・クランが先年平定した北方の一部族にございます」

「北にはカラトラヴィア山脈があるのではなくて」

「ティルディシアの方のお山は高く、グラン・クランの方のお山はこちらに比べて低いのですわ、殿下」

「あら、それは大変でしたこと」

 どのくらいの脅威かは、さっぱり分かっていない微笑み顔である。

 シンシアは、何からどう話していいか、分からなくなった。何しろ、セレンディアとイリアーディの世界の広さは違いすぎた。

「では、カウシェンブルはご存知でしょうか」

「いいえ。わたくしが知っているのは、大河フリオナが隣国とこちらを隔てていること、河岸の黄金平原に世界樹があること、北のカラトラヴィア山脈のどこかに、竜の住まいがあることだけですもの」

 悪びれずに、言う。

「あともうひとつ、トゥアという場所がどこかにあるのを知っていますわ。アイリーン姫とわたくしの双子のイレンシア様の故郷ですわね」

 せめてどこにあるかくらいは知っていて欲しかったと、シンシアは心の中で嘆いた。

「王女殿下なのですから、家臣の名前と領地程度は覚えておいていただきとうございました」

「カリュンダルフ家が筆頭公爵なのは存じておりましてよ」

「なにゆえでしょうか」

「セレンお姉様が嫁ぐおうちですもの」

 これは教育が悪いのだ、とはっきりシンシアは悟った。頭の回転はそう悪くない。そう、随分おっとりとしてはいるが、自分の知っていることを伝えることはできる。

 関心がないのではなさそうだ。言上しても全く頭に入らない、セレンディア曰くの「あの暗愚」様よりはマシである。

 何より自分の無力を嘆いている。これは、何がしかを引き出せそうだ、とシンシアは思った。

「カリュンダルフ家がどこの領地をいただいているかはご存知ですか」

「えぇ、お城のすぐそばの河を下れば良いのでしょう。精霊たちに教わりましたわ。少し遠い場所なのですってね。あぁ、シンシアーディもそちらからいらしたのよね、心細くはなくって」

「セレンディア様が攫われてからは心細くて取るものも手につきません。ですからこうして縋りに参りました」

「セレンお姉様はその……隣国に攫われましたの」

「はい、先ほどお手紙を見せ、申し上げましたとおりに」

「馬車で。それも、シーダ・イリ神殿の紋章入りの」

「はい。馬車ですからそう早くはないはずと国内を探らせましたところ、街道を外れて走っているらしく、めぼしい街に立ち寄られた痕跡はございません」

「お姉様がそのような悪路を……おいたわしい」

 可憐な顔から微笑みが剥がれ落ちる。姉の身を案じているのだ。

 王宮ではなくシーダ・イリ神殿に居を移した時も、同じように案じた。そのような誰でも入れるような場所に身を置くなど、考えられなかった。

 今となってはシンシアも引き止めておくべきだったかと真剣に悩んだが、悩んでいる場合ではない。行動を起こすべき時だ。

「お前たち、聞いていて」

「なぁに、あたしたちの可愛いイリ」

「セレンお姉様のことよ。この者が言っていたでしょう、お隣の国に攫われたのですって」

「まぁ大変。お隣は遠いわ。とってもとぉっても、遠いわ」

「きっとセレンお姉様はお前たちに印を残していると思うの。見つけてきて頂戴。明日の花の朝露を小瓶に詰めて待っているから」

「きっとよ、きっと朝露を。きっととっても美味しいわ」

「だから泣かないで、あたしたちのイリアーディ」

「馬車の紋章は知っていて」

「神殿で見てくるわ、今は知らないの」

「そうよ、知らないの」

 さやかな存在が、窓から出て行った。シンシアには見えないし、分からない。

「そんな泣きそうなお顔をなさらないで、シンシアーディ」

「どうぞシンシアとお呼びくださいませ、殿下。それから私は今良い事を思いつきました」

「どのようなこと」

 小首を傾げ、訊く。

「こちらのお部屋に教育係がいらっしゃらないと気付きました。明日より私がこの国のあらましを知っている限り殿下にお伝え致します。如何な竜だとて、望みが分からなければ叶えようがございませんもの」

「あら、わたくしはそのようにものを知らないように見えて」

「セレンディア様よりは、ご存知ないようにお見受けいたします。そして、アルスロード様よりは興味をお示しになるとも」

 イリアーディは真剣に言った。

「少しでも、お役に立ちとうございます」

「では、わずかばかりながら、お手伝いさせてくださいませ。明日より参ります。朝露の取れる頃合に」

 できるだけ早くにセレンディアの動向が知りたいのだろうと、イリアーディはそれを許した。普通の貴婦人方なら、まだぐっすりと夢の中にいる時間であるのにも関わらず。

「では明朝。失礼いたします」

 シンシアは丁重に頭を下げ、退室した。


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