第6話 イリ・トゥアの場合 2。2
夜深く、急ぎの梟便が館に届いた。
寝ずの番をしている小者が、その封蝋に慌てて女主人へと面会を願った。
印は、王家のもの。それに、フェニスティの娘の署名が添えられていた。その娘が王女従きの侍女であることを、館の者はすべて知っていた。だから、急いだのである。
捧げるように差し出された書簡を洋燈の光で開くと、起き抜けのフェニスティは顔色を変えた。セレンディア王女の直筆だった。
淑女ならば、起きている時間ではない。
けれど、梟便があったことにはおそらく気がついているであろうイリの部屋へ、フェニスティは自ら赴いた。
「深夜に失礼いたします」
「梟便だったね」
確かに、梟の羽ばたきの尋常ならざるを精霊の長に起こされていたイリは、眠たい振りなど露とも見せず、フェニスティを出迎えた。
「我が娘、シンシアから書簡がただ今届きました」
「シンシアって、何してる人」
「セレンディア王女殿下従きの侍女でございます。王女殿下の直筆のお手紙にございます」
「貸して」
フェニスティの足元を照らしていた洋燈をコンソールに置き、封の解かれた手紙を広げて読んだ。
「――これより、キユナタルディスへ向かいます……って、迎えに来い? あのキユナタルディスへ、兵隊率いて入れって、どうやって……ティルディシアの一軍に編入されるんじゃなかったの」
「シンシアに、貴女様に渡すようにとの但し書き付きで、渡されたものです。こちらは、シンシアの書簡です」
もうひとつ渡された小さな紙片には、セレンディアの鷹揚な文字とは明らかに違う走り書きで「神殿に侵入者あり、王女殿下は攫われた模様」とある。
「四頭だての馬車が夕刻神殿から出ております、って……」
「止めることができない状況にあったと見ております。厩番を叱らないで欲しいとの書付がありますゆえ」
うなったイリは、どこともなく声を掛けた。
「フォウラーン、どう見る」
『傷付けることはないと判断したようだな。この手紙には、精霊も封じ込まれている』
『起こしてあげましょ、小さきものを』
マリエラも、姿は見せないが声をかけてきた。
風の眷属だったのだろう、
「何があったの、精霊さん」
ぱちりと瞳孔のない瞳を大きく開いてから、見知らぬ場所に気高き存在である長の息吹を感じ取り、精霊はイリの鼻先に抱きついた。
「あたしたちのセレン王女が、新しい王女様を頼りなさいって……知らない場所に行くことになるから、あたしはお留守番よって、みんなを連れて行ったわ。あたし、セレン王女に会いたい。あなた、あたしをセレン王女のところへ連れて行って」
『それでは説明にならぬ。この小さき姫に何をしろと命じたのだ、お前の主は』
「あたしたちのセレン王女はあたしたちの主じゃないわ、我らが長。あたしたちのお友達よ。とっても、とぉっても、なかよしなの」
「無理やり連れて行かれたの?」
「ちがうわ、自分で服を選ばせて、自分で行き先を指図していたわ。黒くて白い人たちに」
小さい精霊は、言葉が不自由だ。それらから訊きたいことを聞き出すには、交わす言葉の端まで注意して質問も考えなければならない。
「黒くて白い人たち、どこの人で何人いたか、分かるかな」
「名乗ったわ。ふたりいたわ。おとこの人とおんなの人よ。いきなり来たの。セレン王女の大事なお友達は、眠らされてしまったのよ」
要領を得ない。仕方がないことなのだ。根気強く、イリは少しずつほぐしていく。
「なんて名乗ったの」
「りそりわとのひとですって。強くて、怖いの」
――リゾリウァルト。先立って、グラン・クランが併呑した北の部族国家だ。
たった二人で寄越したからには、相当の手練に違いない。
「セレンディア様の大事なお友達の名前は、お前、知ってる」
「えぇ、シンシーディアというの」
心配そうに見つめているフェニスティに、硬い表情のまま精霊の言葉を伝える。
「シンシーディアという人が眠らされて、セレンディア様はその間に促されて自分で出て行ったみたいだ」
「それは私の娘で、王女殿下の侍女ですわ。この書簡の送り主の……」
何もなければ良いが、とフェニスティは思案顔だ。
「手紙を書く時間がよくあったね。お前を封じたのも、セレンディア様なの」
「着替える時間も、書く時間も、許されたの。あたしたちのセレン王女はとても強いんだもの」
戦闘をする人ではないが、言葉と態度はさすが大国の政治を動かす人物だ。
イリはひとつ頷いて、小さな精霊を解放した。
「フォウラーンについているといいよ。よろしく、フォウラーン」
『了承した。その王女のそばに行く時まで、我が与ろう』
「マリエラ、明日の海はどんなかな」
『最速で目的地に辿りつけるようにするわ。フォウラーン、良い風をちょうだいね』
水と風の加護がある。こんなに心強いことはない。
「フェニスティ、服は明日の午前中に仕立て上がるかな」
「世を徹しての作業中ですわ。昼餉前には出来上がりましょう。お昼を召し上がられた後に船を出せるよう、船の準備もしておきましょうね」
貴族様ではこうはいかない。
イリはあらためて行動の早い母娘に心の中で感謝した。
結局、カウシェンブルへ向かう騎士の衣装は男性用とも女性用ともつかないものに仕上がっていた。イリがコルセットを頑なに辞退したためであり、その代わりの鞣し革の胴着が精緻な金糸の刺繍によって衣装の美しさを際立たせていた。
本来は典礼用の衣装だから、見た目重視に作ってある。
それを、その衣装のまま戦場へ赴けるように、ラズナールの職人たちが精魂込めて仕立てたのだ。
傭兵へと渡す予定のアレンジュラ金貨を荷駄に載せ、アシュレイを伴ったイリはひとり、とあるカウシェンブルの邸宅へと赴いた。傭兵とはこのような豪華な邸宅に住んでいるものだろうかと、南国風のしつらえを眺める。
ティルディシアの商都ラズニヤータと、グラン・クランの商都ネーリフを仲介するのが、他でもないカウシェンブルだ。
カウシェンブルとしては、両国が緊張を保ったまま、どちらが強くなるではなく連綿と相対してくれればよかった。
そのほうが儲かるのである。
両都が直接通商を行うことはない。おかげで、仲介を務めるカウシェンブルは潤っている。
フェニスティの書簡を持って、イリはエンティア邸と呼ばれる屋敷に招かれていた。
「へぇ、あんたが王女様なのかい」
現れたのは、帯剣すらしていない「市民」のようだった。しかも、柄が悪い。
フェニスティもカウシェンブルの有力市民の出だと聞いていたが、王宮従き女官をしていただけあって、言動は洗練されていた。
けれど、イリにとってはこの程度ざっくばらんな方が話がしやすかった。
相手がイリの格好を上から下まで眺めている間、イリも相手の姿を確かめていた。
海の者である以上に、おそらくは混血による褐色の肌、フェニスティとお揃いの赤銅色の短く刈り込まれた髪、特徴的な金の瞳。金の瞳はリゾリウァルトの民の血である。
「うん、どうやらそうらしいんだ。セレンディア王女殿下とティエリスティの女主人とアートゥアールの公爵の妹がその証人」
「天馬を持ってるじゃねぇか」
「だって私は、王女である前に、天騎士だもの」
「トゥアの、か。俺は見ての通り普段は市民で、用事があるときには傭兵もやる。ティエリスティからの手紙は読んだ。だけど本気で傭兵をまとめられるつもりか」
たっぷりとした絹地の袖は、胸の下で組まれている。イリの方も、あまり上品な客ではなかった。
「まとめなくちゃ、セレンディア様をお救いできない。だからお願いに来たんだ。あなたに会えれば、話が通じやすいからって」
フェニスティに聞いた、とイリは正直に答えた。
「ついて来な。うちの頭は天馬を二頭操る天騎士だ。話が合うかもしれねぇ」
くいっと顎で奥を示す。イリはひとつ頷いた。
「あぁ、そういや、名前、聞いてねーな。何てんだ」
「イリ・トゥア。そっちは」
「エンティだ。長い方の名前は言わないのか、王女様」
「王女様はカンベン。イリって呼んでくれればいい。長い方の名前は、契約が成立したら教える」
「じゃ、俺もそのとき本名を言おう」
歩きながら、お互い最低限の自己紹介をする。
「離れがまぁ、アジトみたいなもんだ」
奥に入るにつれて、柄の悪そうな人影が増えてくる。
きんきらきんの騎士服は、目立つことこの上ない。
人の視線が痛いくらいだ。
「おい、ヴァシーいるか」
「なんかわけわかんねぇ小難しそうな本読んでたぜ。南のテラスだ」
「おう」
カウシェンブルからは、ラズニヤータ、ネーリフ両都の様子がわかる。
ことが起こった時どうするかは、市民の間で決められているという。
その取り決めに、傭兵は金で応じる。
本来、カウシェンブルの傭兵は、カウシェンブルを守るためだけにいるのだ。そこにティルディシアが救援要請を出すとなれば、グラン・クランからも何かあるだろう、というのが当面の課題だ。
「ヴァシー、トゥアからの客人だ。イリ、あれがうちの頭目だ」
エンティの声に書物から視線を上げた男が、変則的な騎士服姿のイリを見て、何か思ったらしい、本を閉じ、その長身をテラスの入口まで運び、無表情でイリの頭をくしゃりと撫でた。
「よう、ちびすけ、久しぶりだな」
知っているらしい、それだけ確認すると、エンティは姿を消した。
「……私は、知らない」
「トゥアのイリだろう、ガラルド・グラーフ・アートゥアールの子の」
「そうだ。なんで知ってるの」
「天馬を捕りに、一度実家へ戻ったからな。あの時お前さんはよちよち歩きのちびすけだったぞ」
「覚えてないよ。あなたが傭兵団の団長さんなの」
「一応そういうことらしい。二頭の天馬がハッタリかましてるようなもんだ」
実家と言った。小さな自分を知っている。
はっと思い出したように、顔を上げた。
「親父殿の出奔した息子さん」
だよね、と高い位置にある頭を見上げる。確かに、トゥア将軍と同じ色の瞳をしている。
「親父殿と同じ瞳を持つ奴がいたら頼れって、ルーナが言った」
「フラウルーナか」
「うん、そう」
「なんで王女様なんだ。ちびすけはトゥアの跡取りだろうに」
「ルーナと、フィーニと、セレンディア様が、私は王女だと言ったんだ。親父殿も、役目を果たせって感じでさ」
むくれたふうに、イリは口を尖らせた。
その様子に、ははと豪快に男は笑った。
「親父殿の息子なら私には兄上様だ。天騎士の先輩でもある。私はどこで膝を折ればいいかな」
足元には、書物が散乱していた。
「よしてくれ、王女殿下に膝を折られたんじゃかなわん。妹の自覚があるならじゃれて甘えればいいんだ。まだちびすけだろう」
「ちびすけはやめてよ。イリがいい」
問答しているそこへ、マリエラが姿を現した。驚いた、というふうに、急に出てきたのである。
『火のカルディア!』
ヴァシーを指差し、叫んだ。
「お、知り合いか」
ヴァシーは楽しそうに笑った。
『知り合いじゃ。水の、相変わらず見窄らしいのを選んだのじゃな』
姿を現したのは、胸元の大きく開いたドレスを着た、妙齢の女性だった。ドレスは、貴婦人のようにたっぷりと布の使ってあるものではなく、揺らめく火のように赤々と彼女の身にまとわりついている。絶妙に悩ましいボディラインだ。
『もうひとりは風のフォウラーンではないかえ。セフィオン、これは手伝わねばならぬぞえ』
『見かけたら教えてやろうと言いおいていたを忘れたか、イリ。これが火の長だ』
背に翼持つフォウラーンも出てくると、あたりは一層賑やかになった。
「……ねぇ、火の長に気に入られた兄上様。精霊はエルシラ女王と関わりが深い。こっちに味方、してくれるよね」
これをおねだりというのだろうか。
微笑んだ顔の薄い緑の瞳だけは鋭く、イリはヴァシーを見やった。
「お金はあるんだ。セレンディア様を助けるために、キユナタルディスのシーダ・イリ神殿に行かなくちゃならない。アイリーン姫がそうしたように、グラン・クランを追い込まなくちゃいけないんだ。それが、多分、セレンディア様の望む今の私の役目」
「ネーリフに迷惑は掛けられんぞ。カウシェンブルにとっては大事な取引先だからな」
「軍じゃないからね、ばらばらに行って、ネーリフを越えてから集まればいい」
『イリナフィーディエラと同じじゃのう。言うことが大きいわ』
『だから気に入ったのよ』
人間の会話と精霊の会話が錯綜する。
『火の長にも真名をあげて頂戴な』
火と水は女性同士で仲が良いらしい。
相性は悪いはずだろうにという言葉を飲み込んで、イリは火のカルディアに神妙な顔を向けた。
「イレンシラディエラ・グリュンディールだ。エルシラ女王の宝剣を使うために、お二方に力を貸していただいている。できれば、あなたにも味方してほしい」
『わらわは戦火と相性が良い。火を広げたくば、わらわに言うて呉りゃれ』
「うーん、おおごとにしたくないんだけど、グラン・クランの王様、人気者だし力があるし、おおごと覚悟しないと勝てない気がするから、味方がたくさん欲しいんだよね。マリエラとフォウラーンがいてくれるから宝剣は使えるけど、できれば四精霊が揃ったらって思ってる」
「トゥアの田舎にいたんだろうに、よく知ってるなぁ、ちびすけ」
「うん、こっちに来る前に、いろんなところ見てきたからね」
そのくらいはしないと、と言ってのける。
「戦が終わったら、トゥアに帰りたいんだけど……」
「勝利凱旋将軍を王に推す声は、出るだろうな」
懸念をぐっさり突いてくる。いや、その為にはまず勝たねばならないのだが。
「今は、要のセレンディア様がよくまとめてくれてると思う。だけど、そのセレンディア様が、リゾリウァルトの二人組に攫われたらしいんだ。ついて行かざるを得ない状況だったんだろうってところなんだけど」
「勝算は」
「カウシェンブルが味方に付けば、五分。セレンディア様が戻れば、七分くらい、こっちが勝てると思う。けど、ウルハーグ王の思惑通りにことが進んだら、こっちの勝算はないに等しい」
「思惑ってのはなんだ」
「セレンディア様との婚姻」
二人は腕組みをして思案顔になる。
負ける戦には乗じれない。しかしカウシェンブルの未来を考えると、アイリーン姫の裁定通り元に収まってくれるのが良い。
「取り敢えずは、集めるだけ集めよう。だが、市民会議で応と言われなければ、俺たちは出られない」
「今までどおりの領国経営を考えたら、応じてくれそうな気もするんだけどな」
「商人の街だ、厳しいぞ」
にやり、と笑みを寄越し、指を三本立てた。
「ティエリスティの手紙、エンティの提案、王女殿下の悲壮な願い――ちびすけの演技次第だ。エンティに掛け合ってみよう」
「ありがとう!」
でも悲壮な願いってなんだろう、と首を傾げた。
その時既に、ヴァシーは大股でイリの横を通り過ぎていた。
「マリエラ、フォウラーン、悲壮な演技ってどうやるの」
『イリアーディっていうお手本があるじゃない』
そのイリアーディの儚げな様子を思い出し、頭を抱えた。
「ダメだよ、できないよ、私は騎士だもの」
あはははは、とマリエラは転げて笑った。
市民会議は島の中腹に建てられた白亜の議事堂で行われていた。
そこに、証人のような形でイリは参加することになった。
議長から声をかけられる。
「イリとおっしゃられたな、ティルディシアからの客人」
「はい。イレンシア・ルーディ・ラン・グリュンディルと申します」
ざわり、と議場がざわつく。グリュンディルはティルディシア王家の名だ。
ティルディシア、グラン・クランの両国と渡り合うカウシェンブルの市民は、非常に博識だった。
「グリュンディル家の者が、何の用で参られた」
「私は天騎士で、王家に仕える身です。フェニスティ・ティエリスティの書簡にあるように、ティルディシアはグラン・クランに第一王女を攫われました。私の使命は、王女殿下をお助けし、領国の境界線を改めて定めることです」
「境界線を改めるとは」
何事か、と指摘される。
「グラン・クランのウルハーグ王の目的は、第一王女を后とし、ティルディシアを併呑することです。しかしグリュンディル家はそれを望んでいない。既にグラン・クランは北方の民リゾリウァルトを併合し、この戦力を用いて第一王女を攫っています。また、リアダール砦にはグラン・クランの軍勢が出撃を今やと待ち構えています。それを抑えるため、ルノーヴィア城塞都市にアートゥアール公爵を筆頭とした武力をティルディシアは用意していますが、残念ながら、セレンディア王女奪回のため私に割ける力をティルディシアは持っていない」
一気に言い切ると、議長を見据える。その議長はさすがに老獪であった。
「ラン騎士団はなにゆえ動かれませんかな」
試している風でもある。
「ラン騎士団を率いるのはカリュンダルフ筆頭公爵ですが、彼がティルディットを離れると、第一王位継承権者を擁立しようとする者たちが、国政を動かすことになります。これを、セレンディア王女殿下は非常に恐れていらっしゃる」
おかしいかな、と声が上がった。
「ティルディシア国内は分裂状態にあると」
いえ、とイリは首を振った。
「分裂寸前状態、です」
「しかし、国家としてティルディシアに肩入れすることはできぬ」
この先、グラン・クランとどのような取引があるとも分からない。
「ですから、傭兵団を雇おうとしております。考えていただきたい、グラン・クランがティルディシアを併呑すれば、このカウシェンブルの存続も風前の灯だということを」
「ティルディシアは国境線をどのように引こうとしておられるか」
「アイリーン姫の定めたと同じ線を、と考えています」
そのためには、相当勝利を重ねねばならない。アイリーン姫と同じように。
揶揄するような声が上がった。
「ではあなたがアイリーン姫の代わりになると」
その姫の出現で、カウシェンブルは国家となることができた。それ以前は、海賊とほぼ同じ生活を送っていたのだ。
「それを、セレンディア王女殿下から頼まれました――救国の聖女になれ、と」
上がったのは嘲笑。
「あなたの言動はとても姫君の柄ではないような気もいたしますがね」
「それは自分が一番よく分かっています。セレンディア王女殿下のように華麗でなく、イリアーディ王女殿下のように可憐でもない。ですが私には剣があります」
腰に刷いていた剣を、高く差し上げた。
「現在、私は精霊の長二体と契約を結んでおります。その契約を以て、アイリーン姫のお腰のものを使うことができます。これがその宝剣です」
その細工の精緻さに、人々から感嘆の声が上がる。
「先ほど申し上げたとおり、私は天騎士です。剣を持ち、戦うのが本分です。私は手足が欲しい、あなたがたはこれまでどおりの領国経営を行いたい――悪い契約ではないと思いますが」
いかがか、と議長を見据える。
「今すぐの返答は無理だ、天騎士イレンシア。三日間かけて議論を行う。それをお待ちになれないのでしたら、諦めなさい」
「待ちます。良いお返事を聞けることを、願っています」
きびきびと礼の形をとり、議場を後にした。
渡航に二日、議会に招かれるまでに二日を要している。時間はあまりない。
幸いだったのは、セレンディアが馬車を用意させたということだ。彼女が頼んだ神殿の馬車は早駈けできるようなものではなかった。なぜなら貴婦人のための居住性と、大量の荷物を詰める空間が必要だった。これを譲るまいと掛け合ったと見た。
相手がどこまで譲歩したかはわからないが、手紙を書く時間も許されたという。
時間稼ぎをしてくれている。それは、望んでもいいことだった。
それが事実と分かったのは、議会が開かれて三日目に、ルノーヴィア城塞都市から鳥便が届いたためだ。鷹揚な筆跡は、確かに先に見たセレンディアの書簡と同じ文字だった。
キユナタルディスのシーダ・イリ神殿にて待つという覚悟の筆致だった。これより先はグラン・クラン領、鳥便は出せない、と。
トゥアの将軍からも添え状があった。体裁は巡礼に整えているが、人質なのだとセレンディアが言ったこと、軍の体裁には気を使わず、単独でセレンディアを迎えに行っても咎めるものがいないこと、放蕩息子に帰る家はまだあると伝えてほしいこと。
そして、ルノーヴィアは死んでも守る。その決意がしたためられていた。
「兄上!」
泣きそうな顔で、ヴァシーにしがみついた。
「私、どうしても親父殿とセレンディア様を助けなくちゃいけない。もし、もしも、傭兵団を雇えないんだったら、兄上だけでもいい、一緒に来て」
くしゃくしゃになった書簡を、ヴァシーは丁寧に広げて読んだ。
夕日に染まる海を見ながら、エンティア邸の南のテラスで、ぽつりと言った。
「あぁ、採決は今日か」
「もうセレンディア様はグラン・クランに……」
「お前、俺に命令できるか」
きょとんとして、将軍と同じ焦げ茶の瞳を見上げる。
「そのセレンディア様と同じように振舞ってみろよ」
「なんで」
「大将ってのは、ハッタリが肝心だ。こいつの下にいれば生き残れる、勝てる、そう信じ込ませることができるか」
「――それは、戦になれば」
泣きそうだった表情が引き締まる。
泣いていては兵は動かない。焦れるのも駄目だ。きっと口を引き結び、腰に下げていた宝剣を引き抜く。そしてそれを、遥か高い位置にあるヴァシーの肩に添え、言った。
「私は――私には、やらねばならぬことがある。お前には、トゥアの血が流れている」
もう、戦の只中にあるのだ。
ここも、戦場だ。
「その血に従い、私の後に続きなさい。これは……これは、ティルディシア王女の命だ」
すっと膝を折り、右手の拳を左肩に当て、ヴァシーは頭を下げた。
「アートゥアールのセフィオン・ヴァスフォート、王女の命に従うことを血と剣にかけて誓う」
ひゅうっと口笛が鳴らされた。
ふたりは、テラスから陽の入る部屋の奥に顔を向けた。
傭兵団の面々が、面白そうに見学していたのだ。
「いよう団長、俺たちゃティルディシアの手先かねぇ」
「いーや。こいつは俺個人の問題だ。それよりエンティのやつ、まだ戻んねぇのか」
「さてなぁ。しかし化けるねぇ、そのちびすけ」
むっとしてイリは部屋の奥を睨んだ。
「ちびすけじゃない、天騎士イリだ」
「いや、イレンシア王女様だな。おい、てめえら、頭がたけーんだよ。ありがたがっとけ。あのアイリーン姫の正当な後継者だからな」
「え、じゃ、聖女様ってのもマジな話」
「市民どもの間じゃ噂になってんぜ。エンティア邸の客人はティルディシアの聖女様だってな」
ちょっと待ってと言ったのは、当の本人だ。
「議場でしか、喋ってない」
「市民にゃ投票権があるんだ。噂にも登らねぇんじゃ話になんねぇよ」
だな、と言い合い、夕日を受けて煌く金灰色の頭を見やる。
それは神々しささえ感じる姿だった。金銀細工の宝剣を持ち、まとめられていない髪が、海風にふわりと広がる。
「手応えが分かるものはいるか」
幾分改まった口調が、それを引き立てた。
「悪くねぇぜ、聖女様。あんたがらしくしてりゃ一番だ」
「らしく」
イリが小首を傾げた。
「今更だな。だが、議場にいた奴らから、本物だろうって声が上がってるのは確かだ。あん中にゃ、精霊使いもいるからな」
「兄上」
「ヴァシーでいいぜ、聖女様」
「だったら私もイリでいい」
「主人の名前を呼び捨てにする奴がどこにいる」
また、呼び方についての議論が始まりかけた時、パンパンと手を叩く音が部屋に――もちろんテラスにも響いた。膝をついたままの状態で、にやりとヴァシーが笑った。
「おう、エンティ。首尾は」
「但し書き付きで決まったぜ。まず、傭兵の内動かしていいのは五割まで。それから、聖女様にゃドレスを着てもらう。傭兵と契約するのとは別に、傭兵一人頭アレンジュラ金貨二十枚をカウシェンブルに納めること。割のいい話だと思うけどよ、俺はな」
「ドレスを着て天馬に乗れって……」
きりりと引き締められていた表情が、ほろりと剥がれかける。
いや、そんなことは問題ではないのだ。
許可が、下りた。
剣を鞘に戻し、イリは深々とエンティに頭を下げた。
「感謝する」
「ドレスはフィーニが作ってやるって言ってたぜ。コルセットで締め上げない、帯剣できるドレスだとさ」
確かにありゃぁ戦いにゃ向かねぇな、と傭兵たちが朗らかに笑う。
「――重ねて、お心遣いに、感謝する。兄上、人選を頼む。足りない資金はすぐに届けさせる」
「輜重なんぞの軍資金も頼めよ」
「ああ。今からだと、梟便だな。エンティ、紙とペン貸して」
「そこの机ん中だ」
紙を広げて気がついた。誰宛にするのか。
「フィーニを呼んで」
「言うと思ったぜ。こっちのティエリスティ商会に詰めてる。自分で行ってこい」
駆け出そうとするイリに、ほらよと地図を渡す。
「お前さ、こんなとこで傭兵やってないで、ティルディシアに来ればいいのに」
「冗談きついぜ、聖女様。固っ苦しくってやってらんねぇ」
エンティは笑顔で送り出した。
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