第5話 イリ・トゥアの場合 2。1

 セレンディアが新王女擁立の爆弾発言をかましたあと、イリの周りではあらゆることが変わった。

 まず、女官や神官たちである。

 常に目を合わせようとしない。恭しくお辞儀をする。

 何より、呼び名が変わった。『イレンシア王女殿下』――それが、イリの新しい呼び名だった。

「あの……」

 会議の席から、ほとんどの者が退出していた。残っていたのは、二人の元第二王妃従きの女官と、双子の兄であるはずの王女だけだ。

 その「王女」から可憐な声を掛けられて、イリははっとうつつへ帰った。

「イレンシア、様……」

「イリアーディ殿下、私はその……その名前、ほとんど知ったばかりなんだ」

「そうでしたの。セレンお姉様は悪い方ではありませんの、ただ、この国を案じていらっしゃる」

 少しだけ背の低い自分と同じ顔にそっと見上げられ、イリは非常に居心地の悪い思いをしていた。

「一応、親父殿からは聞いてたんだけど、まさか、横にあの王女殿下が座るとは思ってなくて」

 ふわり、と柔らかくイリアーディが微笑んだ。

「アルスお兄様も、セレンお姉様には頭が上がりませんの。緊張なさいましたでしょう」

 戦うものの手を、そっと柔らかな手が包んだ。

「王宮へおいでくださいませ。精霊とわたくししか知らない場所へ、わたくしはあなた様を連れてゆかねばなりません。宝剣をお取りくださいませ」

 エルシラ女王の宝剣。

 それはアイリーン姫が使ったという記録以後、歴史上から消えている。イリアーディには、朝議への呼び出しの書簡で、会議のこととその後のことが、セレンディアから託されていた。

「先に、あっちの二人に聞きたいことがあるんだ。そのあとでいいかな……あの、構いませんでしょうか」

 ドレスの端をちょんとつまみ、イリアーディは略礼で返した。

「もちろんですわ、イレンシア様」

「えっと、イリ、でいい。様も、いらない」

「ですが……」

「双子の兄弟なんだろう、お辞儀もいらないし、丁寧な言葉もいらない。叶うなら、あなたの騎士として、私に祝福を授けて欲しい」

 ぱぁっとイリアーディの顔に微笑みが浮かんだ。

「ちょっとここで待ってて」

 イリが椅子を勧めると、衣擦れの音だけで優雅にイリアーディは座ってみせた。

「ルーナ! 話、聞きたい」

 猫のように音を立てず、広間の端まで走って移動する。

「もちろんですわ。フィーニ様にも、訊きたいのでしょう」

 こくこくと頷くと、改めて初見の女性をできるだけ失礼の無いように頭からつま先まで見た。

 アートゥアールでは珍しい赤銅色の髪に、海を映したかのような碧い瞳の持ち主だった。フラウルーナより背が高く、褐色の肌は健康そうに輝いて見えた。

「はじめまして。私はアートゥアールのイリ。さっきの王女殿下の言葉は、あんまり気にしないでもらえると、嬉しい」

「初めてではありませんわ、王女殿下。あなたを取り上げたのは、正しくこのわたしです」

 フェニスティの言葉はとりあえず無視して、話を進めることにした。でなければ、鶏と卵、どちらが先かという情けない話で堂々巡りをしてしまうのは一目瞭然だった。

「これからちょっと王宮で用事を済まさなくちゃならないんだけど、そのあと、私をカウシェンブルに紹介してもらえるかな。ルーナも同行してもらえると、嬉しい」

 ルーナは、変装の名人だった。カラトラヴィアの山へ入るときには山岳民の格好をしていたし、狩りへ出るときは雄々しい草原の民の姿をしていた。また、今のように、神妙に王宮従き女官をやることもできる。イリには到底無理なことだった。

「初めて会う人とふたりで旅をするのは、私は慣れてないんだ。それに、カウシェンブルは不案内すぎて、ちょっと心配」

「おひとりで敵地の都へ行くのが平気な方が、なぜカウシェンブルが不安なのですか?」

「だって、傭兵を雇わなくちゃいけない。私はひとりで動くのは平気だけど、人に混じって動くのは少し苦手なんだ」

 さもあらん、とフラウルーナは頷いた。

 騎士団を率いるのは、できないことはない。少なくともトゥアの地では紅白戦の勝利大将になったことが幾度もある。けれど今回口説くのは、山の騎士ではない。

「どうかしら、ルーナ。私も実質はじめましてな王女様従きの旅は、あんまりしたくないのだけれど」

「確かに、両方を知る者が必要ですわね、フィーニ様。イリ様、私がこの方を様付けで呼ぶのは、この方の方が年上だからです。あなた様は、どうぞフィーニと気安く呼んで差し上げてくださいな」

「だったらルーナも、前みたいにイリって叱り飛ばしてくれなくちゃ、おかしいよ。騎士の道連れが女官二人より、二人の女性に小者がひとりいるってほうが、旅はしやすいよ」

 確かにそうだ。この会議に出た者以外は、イリが王女だとは知らない。

 そして、騎士の服はあんまりにも大きすぎて、見栄えがよろしくない。誰も本物の騎士だとは思わないだろう。

「ラズニヤータまではそうしましょう。川を下る船旅です。ですが、その先は、王女だと旗を振って行かねばなりません。ラズナールの……あぁ、ラズニヤータの平民の住む側をそう呼ぶのですわ。ラズナールに、私の切り盛りする商館がありましてね、そちらで騎士服を仕立てましょう。式典用の豪華な女性騎士服をぴったりのサイズで仕立てさせますわ。ご心配なく」

 なぜか凄みがある。

 もしかして貧乏くじを引いているのではないか。

「イリアーディ殿下をお待たせしてはいけませんわ、あの方はご婦人なのですから、本来はまだ眠っておいでの時間です」

「は?」

 イリの朝は、日の出前に始まる。

 理解ができない言葉だった。

「ご婦人って、ルーナはだってちゃんと朝起きてたじゃないか」

「それは、朝餉の支度を指示するという役目がありましたからね」

「貴婦人と呼ばれる方々の朝は、お日様が中天に掛かったころから始まります。まずは湯浴みをし、乳香をつけたあと御髪を整え、コルセットをして化粧をしてドレスを着て、ようやっと人前に出られるものですよ」

「もしかして、イリアーディ様は、眠いのを我慢して私たちに付き合ってくださってる……?」

 そんな恐れ多い、と言いかけて、もうひとり例外がいることを思い出した。

「セレンディア様は。あの方だって貴婦人だろうに」

「政治のことはあまり存じ上げませんが、あの方は夜会を断って朝議をするという「変わった王女様」なのです。それもこれも、すべてティルディシアのためですわ。ですからイレンシア殿下も、ドレスをまとい剣を振るう「変わった王女様」になって差し上げてくださいませ。セレンディア殿下と、イリアーディ殿下の御為に」

 はた、と思いだした。自分は不躾にも王女に座っているように要請したのだ。

 恐る恐る振り向くと、少女はにこやかな微笑みを返した。

 どうやらこちらの王女は、別の意味で変わっていた。招くと、ふんわりと椅子から降り、優雅な足取りで下座まで歩いてきた。

「フィーニ、ルーナ。おふたりのお名前は、お母様から聞いて存じ上げております。わたくしたちに関わって、面倒に巻き込んでしまい、申し訳なく存じます」

「イリアーディ王女殿下、善は急げですわ。御輿おこしに乗られて王宮の内宮まで参りませんか。私たちは随伴いたします」

「イレンシア様はどうなさるの」

「私は行けるところまで、天馬に乗っていこうと思う。それからは徒歩でいいよ」

 これには、やんわりとフラウルーナの注意が入った。

「王女様は天馬で駆けたりするものではありませんわ」

「天騎士のイリ・トゥアだ。イリアーディ王女殿下を、内宮まで護衛する。王女殿下なんだから、お付きの騎士がいたって、問題ない」

 そして、イリアーディの前に膝をつき、その小さな手に口付けて言う。

「王女殿下、私にあなたを守らせてください。私に栄誉の祝福を授けていただければ、嬉しい」

「騎士イレンシア・グリュンディル、あなたにディエラ・フィダのご加護がありますように。エルシラ女王の宝剣を授けます。王宮までおいでになって」

 ふんわりと、とんでもないことを言ってのける。

 エルシラ女王の宝剣は、セレンディアにとって形式的なものでしかなかったが、イリアーディにとっては特別のものらしい。アイリーン姫が使ったという記述はあっても、持ち去ったのか、宝物庫へ放り投げられたのかの記述まではない。

 けれどそれがあると言う。王家の女性はたくましいものだと、イレンシアは改めて思った。


 輿から降りたイリアーディは、フェニスティとフラウルーナの二人を自分の部屋へ残し、イリを連れて奥の宮の地下へと入っていった。

 正確な足取りである。

 初めて入る王宮の奥深くに、イリは特別な感慨を持った。

 まず、精霊の多さ。姦しいと思うほどに、密度が濃い。そのすべてがイリアーディに好意的である。

 そして、地下の大きな空洞をよく知る王女の足取りは軽やかだ。

「イリアーディ様はよくここへ来るの」

「あら、分かっておしまいですの」

「だって精霊が、こんなにたくさんの精霊が、みんなイリアーディ様を知っている」

「イレンシア様のこともきっと気に入ってくれましてよ。――気にいるようになさっていただかなければ困ります。現在城の地下には、水の精の長と風の精の長が眠っておりますわ。この二人を起こし、宝剣に命を通わせなければなりませんの。これは、セレンお姉様もご存じないこと」

 精霊使いにも、格というものがある。

 天馬を馴らして使うイリは、比較的上位に入る部類だ。

 竜の巫女となるイリアーディは、最高位に位置する。イリアーディは、それとほぼ同じ力を、イリに要請した。精霊の長は、ちょっとやそっとで支配下に下るものではない。少なくとも、その筈だ。

「ここは鏡の間と申しまして、わたくしは大きな硝子の姿見で竜と……まだお話はしたことがありませんけれど、会話ができますの。けれど今はこの鏡の奥が目的ですわ」

 地下空洞は、自然のもののようであった。天井は高く広々としており、降りていく石段のみが人工のもののようだ。

 イリアーディが鏡に手を触れると、とぷりと鏡がその手を飲み込んだ。

 もう片方の手でイリと手を繋ぎ、にっこりと微笑んだ。

「怖い場所ではありませんわ。精霊の間に参りましょう」

 奥というからどこかと思ったが――少なくとも鏡は壁面に張り付いているように見えたのだ――鏡の向こう側に用があるようだ。高位の精霊使いでなければ弾かれるのは自明のこと。

「そこに、風と水の長がいらっしゃるの」

「はい。主を待っていらっしゃるのですわ」

 その主はイリだと、イリアーディは確信を持って言った。

 なんとも仰々しいことになった。

 イリアーディの姿はもう殆どが鏡の向こう側にある。イリも思い切って、鏡に手を突っ込んだ。

 とぷり。

 何とも言いようのない感触で、手首が硝子を通った。

ままよ、と長靴(ちょうか)の足を突っ込むと、これもとぷりと飲み込まれた。

 頭が通る時にはさらに勇気が要った。まるで、とろりとした水面に落ちるようであり、また、水練を終え最後に水から上がる時のような気怠さがあった。

「ここ、鏡が壊されたら入れない?」

「いいえ、鏡のあった地に、出入り口がありますの」

「出たときに、向こうが瓦礫の山だったら、どうなるの」

「こちらに戻って、別の場所から出ますわ。おそらくそこは、王宮ではないでしょう」

「……でしょうって、行ったことないの」

 薄い緑の瞳を大きく見開いて、どうして分からないのだろうという風に、イリアーディは聞き返してきた。

「精霊が教えてくださいませんでしたの」

 さっきの、精霊の密度の高さを思う。そしてそれから、ふるふると首を横に振った。

「私には、聞こえなかった」

「えぇ、だってさっきはお喋りしてらっしゃらなかったわ」

「聞けば、教えてくれるの」

「はい。イレンシア様も、精霊になつかれておいでのようですから」

 うぅむ、とイリは唸った。

 鏡の奥は、小部屋になっていた。暖炉のあるべき場所に、瑠璃色の大きな珠が四つ、置いてあった。内ふたつは少し暗く、ふたつは少し明るい。

 寝台は子ども用程度の大きさで、その真っ白なリネンの上に柄にあしらわれた宝玉が輝く剣がひとふり置いてある。細身の剣だが存在感が半端なく、イリは力ある精霊の前へ出た時と同じ空気を感じていた。

 これらは見かけ通りのものではない。

「珠の精霊を起こしていただけませんか」

 何でもないように、イリアーディは促した。

「起こせって言われても……」

 呪文があるわけではない。

「真名がございますでしょう」

「イリアーディ様が起こすのじゃ、ダメなの」

「剣の使い手は、最低限、二人の長の主でなければなりません。わたくしが、今そちらに入っていらっしゃるお二方を起こさないのは、わたくしでは剣が扱えないからですわ。イレンシア様、あなたがおいでになることを、皆待ち焦がれておりましたのよ」

 皆、とは精霊を含めてみんなと言うべきなのだろう。

「精霊のことになると、イリアーディ様も、セレンディア様みたいだ。強くて、とっても逆らえる雰囲気じゃないよ」

「あら……わたくしもセレンお姉様も、妹ができたことを喜んでおりましてよ」

 まるで姉の特権とでもいうふうに、巫女姫は微笑んだ。

「……」

 言い返せる言葉がない。王女二人の言動は、確かに現在のティルディシアにおいて最も適切な処置をとるべくして為されたものだった。

 毒を食らわば皿まで、という言葉もある。イリは、神妙な顔つきで、明るい方の瑠璃色の珠をひとつ、撫でた。じんわりと暖かい。

「イレンシラディエラ・グリュンディールの名を以て命じます。真名を、告げてください」

『……あなた、不躾ね』

 珠からまろび出た声は、少女のものだった。

「ちゃんと名乗った。あなたのお名前も、お聞かせ願う」

『イリナフィーディエラのこどもね』

 アイリーン姫の真名を持ち出し、確認する。グリュンディールなのだから、おそらくそういうことなのだろう。勝手に解釈した。

「直接聞いちゃいない。知ってる人はここにはいないし、知っててもあなた方とお話できる能力はないんじゃないかな」

『アタシが姿を取れば、誰とでもお喋りできるわ。どうしようかしら。ねぇ、あなたはどうして』

 どうやら横に並んだもうひとつの珠に話しかけたらしい。

 起きている確認はしなかったが、はっきりと会話を聞いていたような声がした。

『我を眠りから引き出すと。小娘ではないか』

『あら、イリナフィーディエラも小娘だったわ。アタシたちに名前をつけてくれたエリュンシーディエラはもっとずっと大人だったけれど』

 古の女王の真名をはっきりと口に出す少女の声が、ころころと笑う。

『確かにイリナフィーディエラはこれより見窄らしい子どもだった』

 壮年の男の声が、少女の声に呼応する。

『エリュンシーディエラからもらった名前なら、授けても良いわ。あの宝剣が欲しいのでしょ』

『イリナフィーディエラと同じ理由か。エリュンシーディエラには借りがある。剣を使うに重たすぎない名ならば、告げても良い』

 精霊の世界にもいろいろあるらしい。

『あとふたりはお出かけ中よ。見かけたら教えてあげましょ、イリナフィーディエラにしたのと同じように』

『そう、同じように。我にもそなたの名を与えよ』

 イリは慌ててもうひとつの珠に手を置いた。

「イレンシラディエラ・グリュンディールだ。この名を、あなた方に与える。引き換えに、力を貸してほしい」

『アタシは水のマリエラ。長い名前は要らないの。エリュンシーディエラがこの名をくれたから』

『我は風のフォウラーン。そなたには確かに風の加護があるようだ。名を呼ぶを許そう』

「ありがとう。……できれば、私を呼ぶときは、気安くイリ、と呼んで欲しい」

『あら、イリナフィーディエラと同じことを言うわ。血筋ね』

 まずひとつの珠からするりと姿を現したのは、ひらひらとドレスの裾をヒレのように翻す、足のない少女だった。下半身は魚のようだが宙に浮いている。

 彼女は珠に触れているイリの腕に手をかけると、するりと溶け込んだ。

 次に、いかめしく腕を組んだ男が現れた。背には隼のような翼がある。人の形をしてはいたが、爪は鋭い猛禽類のそれである。

 その爪が、イリの腕に刺さったかに見えると、同じくするりと姿を消した。

『剣を取るといい、イレンシラディエラ』

 小さな精霊たちのようにはいかないらしい。あくまでも真名を呼ぶ。

「大丈夫ですのよ、イレンシア様。真名は、精霊の声を聞くことのできない者には聞こえませんの。姿を現していない精霊の声も、精霊使いでなければ聞こえませんわ」

 両手をまじまじと見つめるイリに対して、イリアーディが可笑しそうに声を掛けた。

『そちらは竜の巫女か。大いなる力を感じる』

「イレンシア様はわたくしの大切な妹ですの。そう思ってくださいませ」

『手を貸すだけよ。精霊はみんなそう。竜や天馬、いえ、名も無き小さなものだとて、人間なんかの手足になるものじゃないわ』

「うん、力を貸してもらう。二人とも、イリアーディ様も、ありがとう」

 そっと、小さな寝台の宝剣に手を伸ばした。

 金銀細工だと思った剣は、滑べらかで、肌に吸い付くようで、武器というよりは工芸品に見えた。

『アタシたちが離れると、重たくなるから』

『左様、持てなくなる。扱いには注意を要することだ』

 両刃の刀身に自分の顔がはっきりと映る。血を浴びた曇りなど一切ない。

「すごい技物だなぁ。研ぎはどうするの」

 武器を扱うものとして当然の質問をすると、フォウラーンが真面目くさって答えた。

『イリナフィーディエラと同じことを言う。研ぎはしなくとも刃は毀れぬし、身も曇らぬ。安心して振るうといい』

「へー! そんな剣があるんだ」

 鞘は、寝台に立てかけられていた。それまで腰に刷いていた剣を外すと、宝剣を腰に下げた。ずっと軽くて、ずっと美しいものである。

「うーん、これで船旅は、ちょっとなぁ」

「いけませんの」

「うん、小者が持つには立派すぎるもの。持つのはいつもの剣にして、これはくるんで背負っていこう」

 そう決めると、行動は早かった。

 剣帯を外し、綺麗な細工の宝剣をリネンにくるみ、それまで持っていた剣とも剣帯に通すことなくそのまま右手に持った。

「小者姿じゃ、立派な剣は刷けないしね。上に戻ろう、時間が惜しい。あの王様は、決めると早いよきっと」

「分かりましたわ」

 イリの左手を取ったイリアーディはやはり姿見の中へと潜っていった。


 王宮の奥の宮に戻ると、侍女姿だった二人が、旅の装いに姿を変えていた。

 こざっぱりとした木綿のドレスは、きびきびと働く商家の女将に見えた。フィー二は事実、商家を切り盛りしている。

「いつもよりは多少上等なお召し物を用意いたしました。山岳民ではなく、私たちに使えている小者なのですからね」

 ルーナが言うと、フィーニは申し訳なさそうに頭を下げた。

「これでも立派すぎるのだとルーナが言うものですから、仕方がありません。うちで雇っている者たちでも、もう少しましな格好をしているのですけれどね」

「ううん、これで十二分。できるだけ早く傭兵団を編成したいんだ、多分セレンディア殿下から聞いていると思うけど」

 ちぎれないように気をつけながら、騎士の服を脱ぎ捨ててゆく。

 イリアーディの方が頬を赤らめ、そっと寝室へ退室した。

 今三人がいるのは、イリアーディが普段使っている客間である。

「セレンディア殿下から聞いておりますのはは、衣装の調達と傭兵団とカウシェンブル議会への口利きです。荒くれ者の集団ですが、話せば分かる者もいます。鳥便で、一両日中にはカウシェンブルへ話は入ると思います」

「船は快速船を用意させました。着替えを終えられましたなら、イリアーディ殿下にご挨拶を」

「分かった」

 寝室のドアを軽くたたき、着替えが終わったことを知らせる。

 こんなにも早く、と不思議な面持ちをしたイリアーディが出てくると、イリの格好に視線を彷徨わせ、二人の元女官に助けを求めた。

「これは、いくらなんでも……」

「トゥアのイリなら、立派なほうですわ、イリアーディ殿下。あまりお気になさらないでくださいまし」

「ラズナールにも船便で首都から帰ると鳥便を出しました。縫製職人を集めておくように示しましたから、着いたらすぐに計測でしょう。お腹が空かれると思って、王宮の厨房に軽食を用意させましたわ」

「船に天馬は乗れるの」

「お馬様用に、一隻仕立てましたから」

「ありがとう」

 大丈夫ですと受け合うフェニスティに、イリは笑顔を向けた。

 小さく可憐な花のようなイリアーディと同じ顔なのに、同じ花でもどう見てもたくましく育ったひまわりである。

「イレンシア様」

「なに、イリアーディ様」

「ご武運を。闘神ディルフ・ランと、戦乙女ルディ・ランのご加護がありますように」

 少女の切なる願いである。この国が平穏であるように、と。

 その祈りのために、彼女――彼は、竜に嫁ぐのだから。


 まだ太陽は中天にかからない。

 今出れば、夜にはラズニヤータに着くだろう。

 幸い、ティルディットは、河口の商都ラズニヤータまで通じるラズニャト川沿いにある。三人は城から出る間、地理の知識のすり合わせと、カウシェンブルの特性の確認を行っていた。

 船に乗れば別の船室である。小者は主と一緒にはいられない。

 だったら、とイリは愛騎アシュレイと一緒にいると言って、二人を悩ませた。何しろ飼い葉の中に乗せることになるのだから。

「天騎士は、天馬の世話を人任せにはしないんだよ」

 船の方でも天馬を載せるのは初めてだったため、頭を突き合わせた二人に船頭から話しをしてもらい、騎馬用の船にイリが乗ることになった。軽食は、二人の分とイリの分を分け、それぞれが携行した。

 世の貴婦人たちが起き出す時間に、船は静かに川を下っていった。

 急ぐイリを祝福するかのように船足は早く、対岸イータヤールでは夜会の開かれる直前の独特な騒々しさがある夕刻、二艘の船はラズナールの河岸に着いた。上がったところがすぐに商館の裏の出入り口になっている。

 先にフェニスティが館に入ると、女主人を待ち受けていた使用人たちが、さっと並んで一行を出迎えた。鳥便では、王女殿下が一緒だという。貴族の邸宅のあるイータヤールではなく、商人の街ラズナールのティエリスティ商会へわざわざのお運びだというから、船が着く前までは上を下への大騒ぎだったのだ。

 しかし、いくら旅姿といっても、木綿の冴えないドレスを着た女主人を見て、出迎えた側は疑問を抱いた。本当に王女殿下がいらっしゃるのか。

 ざわつく使用人たちの前で、フェニスティは朗々とした声を上げた。

「天馬を連れていらっしゃるのが王女殿下です。皆、失礼の無いように。お馬様には申し訳ないけれど中庭を解放して差し上げて。騎士服の裁縫職人は手筈どおり部屋に集って頂戴。質問がある者は直接私まで言いに来なさい。さ、みんな仕事に戻って」

 二艘目の船から、天馬は足音も立てずに使用人たちの前に姿を現した。

 白い天馬は、先だけ黒くなっている翼をきちんと折り畳み、行儀よく中庭へ案内された。

 連れているのは、小者姿の少年一人。使用人に促されるまま、中庭へ向かった。

「失礼ですがフェニスティ様、王女殿下はどちらに」

 執事がひそりとフェニスティの耳元で囁いた。

 何しろ、ドレス姿のものは、フェニスティの他にはフラウルーナだけである。フラウルーナはといえば、天馬のそばには近寄っていない。天馬は精霊使い以外の人に馴れることを拒むと識っていたからだ。フラウルーナは、精霊使いではない。

 ですから言ったでしょう、と、憐れむようにフェニスティは執事に耳打ちした。

「王女殿下は情勢をよく知り、どのようなお姿であれば一番問題が少ないかということをお考えになり、小者姿で天馬についていらっしゃったのです」

「ドレスで戦ができぬゆえ、何か別の相応しい服をと望まれたのではなく……」

「小者姿では大将になれないために、望まれたのよ。ちょっと変わっていらっしゃるけれど、気さくでお可愛らしい精霊のような方よ」

 精霊を理解するのは難しい。なるほどに、と執事は頷いた。

「飾りばかりなりを整えれば済むというわけではなく」

「えぇ、王女殿下は形ばかりの将軍ではなく、剣を振るい弓をつがえる戦う王女様なのよ」

 この会話を苦笑しながら聞いていたのは、育ての親でもあるフラウルーナだった。

「もともと山岳民のようなお姿で野を駆け回っているお方ですわ。騎士服は、ハッタリを噛ますためのものでしかないのでしょうね」

 身形と口調を整えれば、下女でもぱっと見は姫に見える。

「さ、身形を整えるのは裁縫職人の皆の仕事ですけれど、まだ私たちは夕餉を摂っていないのよ。寸法だけ測っておいて、夕餉にしましょう。準備をお願いね」

 フェニスティが言うと、執事は頭を下げて下がった。それ以上聞くことがなかったからだ。

 貴族とは違い、商人は話も仕事も早い。

「イレンシア様、お馬様には申し訳ないけれど採寸を先に。そのあとお食事にいたしましょう」

 フラウルーナが声をかけると、イリはアシュレイの額を優しく撫で、その足元に宝剣の包みを置いた。

「マリエラとフォウラーンも、多分ここのが居心地いいと思う。こっちにいて」

『あら、気にかけてくれるの』

「ここには空がある。水場もあるし、風も通る。狭いのが難点だけど、結構いい場所だよ」

 狭いとは言っても、小川を流し、築山もついてある。十分な広さがある。

「剣はこっちに置いておくから、私についていなくても大丈夫」

『殊勝な心構えだ』

 この会話、イリ以外に精霊使いのいない館では、イリの独りごとにしか聞こえない。

「イリ様、急いでくださいましな。職人の方々が手ぐすね引いて待っておられるわ」

「ルーナ、採寸って、まさかまたキリキリ縛り上げられたり、引っ掛けちゃいそうなレースがたっぷりだったりしないよね」

 キリキリ縛り上げられるのはコルセットのことで、レースがたっぷりなのは下着のことだ。分かっていて、フラウルーナは笑顔で言った。

「コルセットも下着も、全て新しく作りますから、そのための採寸ですわよ」

「お願い、男物でいいから、そのふたつはやめて。それじゃ戦場に立てないよ。窒息しちゃう」

 泣きそうな言い方に、二人の精霊の長は声を上げて笑っていた。もちろん、フラウルーナには聞こえなかったけれど。


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