第4話 セレンディアの場合。2.
王族と諸侯による朝議が終わり、セレンディアは両腕を大きく伸ばした。
「どうしてそんなに王冠を嫌がるのかしら」
シンシアは、顛末を聞いたばかりだった。
「だってセレン様も嫌がってらっしゃるじゃありませんの」
「わたくしは、戦ができないから器ではないのよ。今の時期、無能な王は邪魔なだけだわ」
けれど残念なことに、一番王冠に近いのは、無能を絵に描いたような青年だった。
「では、随分とイレンシア様を買っていらっしゃるのですね」
シンシアには、風呂場での情景を目撃している以上、聖女にはなれそうもない気がする。
あの子どもは、見てくれを利用することを受け付けなかった。そう言う意味では、純粋なのかもしれない。
「まだ成長のしどころもあるでしょう。……それよりもシンシア、あなたフェニスティに会わなくても良かったの?」
「侍女は朝議などへ出向くものではありませんわ。それに、母には母のやりたいことがあるんです。わたしが邪魔をする道理はありませんわ、セレン様」
「商館の切り盛りって、そんなに楽しいのかしら。王妃の侍女とどちらが楽しかったのか、今度訊いてみましょう」
セレンディアは、シンシアに薬草茶を淹れてもらい、それを喫しながら、どうやって彼女に王冠をかぶせるか、計画を練っていた。
そこに、小さな精霊が息せき切って駆けつけてきた。
「あたしたちの綺麗なセレン、大変、変なものが神殿にいるわ」
「そうよ、変なの。黒くて白いの」
「巡礼じゃないのに、巡礼の格好をしているの。変だわ」
精霊にはそれぞれお気に入りの人というものがある。
その人にとって良くないものは、良くないと事前に告げてくれるのではあるが、小さな精霊の思考能力は少々残念なところがあって、話が要領を得ないこともままある。
「黒くて白くて巡礼の格好を?」
「なんですの、セレン様」
「精霊たちが騒いでいるの。どうやらわたくしに危険があるということらしいわ。で、わたくしの小さなお友達、わたくしはどうすればいいのかしら」
「分からないわ、あぁ、気配が近づいてくる」
足音はまだしない。神殿は石造りだったから、誰かが近づいてくるのなら、足音が聞こえるはずだった。巡礼の服装ならば、布の素材と量からして、衣擦れの音も聞こえてくるものだ。
シンシアは、そっと自分の部屋から長剣を持ち出してきた。セレンディアを寝室に入れ、その入口を剣を持って待機する。
初めてのことだった。
「剣の鍛錬なんて、していたかしら」
扉を閉める直前に、セレンディアが揶揄するように言った。
「セレン様が神殿にお入りになる前までは。ここは危険が少ないので、少々緊張感に欠けていたようですわ」
声が硬い。緊張しているのだ。
そこへ、柔らかな女性の声が響いた。
「失礼します、こちらには神殿の主、セレンディア王女殿下がいらっしゃるとお聞きしました。お尋ねしたいことがあるのですが、お会いできますでしょうか」
「内宮まで入ってくるとは無礼な。表で順番をお待ちなさい」
シンシアが返答する。
「残念だができかねる」
低い男の声がしたと同時に、客間に侵入者が現れた。
黒くて白い――確かに肌が暗褐色で、髪が白い。いや、銀色か。瞳は炯々とした金色である。
「何者! ――えぇい、曲者じゃ! たれぞ出て参られよ!」
誰何の声に、闖入者は丁寧に答えた。
「リゾリウァルトの民、ケアイダ・カラルク・イクテヤール」
「同じく、リシェス・ナグラーダ。お味方は眠らせましたので、参られません」
剣を正眼に構え、シンシアが牽制する。
けれど、二人の相手ではなかった。あくまで護身用の嗜みにしていたものと、常に戦場を駆け回っていたものの差である。
「名乗られよ」
イクテヤールが言うと、シンシアはひとつ息を飲みこんだ。
「シンシアーディ・アルージェ・カリュンダルフ。公爵家の一員にございます」
「確か王女の嫁ぎ先とか。王女がいるということですね」
「行け、リシェス」
「はい」
ひらり、とリシェスは舞った。
それは華麗な舞踏を見るようであったが、確実にシンシアの鳩尾を、柄の底で捉えた。一瞬にして、シンシアはナグラーダの腕に落ちた。
「これはどうしましょう、ケアイダ団長」
「攫ってくるのは王女一人だ。他は捨て置け」
「は」
崩折れたシンシアを床に転がし、彼女が背にしていたドアを無造作に開く。
そこは、王女の寝室だった。手配書通りの姿を認めると、ナグラーダはひとつ頷いた。
「セレンディア・フォーナ・クルー・グリュンディル王女殿下ですね」
セレンディアは小さ刀を侵入者へ向けた。
「シンシアを――侍女を、殺したの」
「ドアの前へ居た方でしたら、気絶しているだけです」
イクテヤールはほとんど口を聞かない。応答するのは主にナグラーダだ。
「傷はつけていなくて」
「はい。眠っているだけです」
「書を綴ります。構いませんわね」
イクテヤールが首頷した。
セレンディアは、害意がないと悟ると、小さ刀を小卓に置き、羽ペンをインク壺へ突っ込んだ。といっても、洗練された流れるような所作である。
渡りに船とはこのとこと。グラン・クランに出兵する理由ができる。
短く何かを書き付けると、同じ動作をもう一度行った。二通、したためたことになる。
更に小さな紙片にメモを残し、封蝋の支度をしてから二人に向き直った。
「わたくしはこの国の中枢におりますの。あなたがたをここに遣わしたものがそうであるように。この国の混乱を最小限に抑えねばなりません。わかりますわね」
「我らの現在の主は、混乱しているこの国を救うためにここへやって来る。それまでの混乱は少ないほうがいいだろう。二通で足りるのか」
「侮らないでいただきたいわ。連れられていった先には、お風呂もドレスもあるのでしょうね」
貴婦人としては最低ラインの嗜みを、二人の侵入者に告げた。
先ほどのシンシアの大音声にもかかわらず、誰も駆けつけてこない。本当に眠らされたらしい。神殿は広く、また使用する人々も限られていた。すぐに異変に気付ける王宮のようにはいかない。
「リゾリウァルトはよく知らないけれど、わたくしはキユナタルディスへ連れてゆかれるのでしょう。でしたら都で最も大きなシーダ・イリ神殿へ連れて行きなさい」
侵入者二人は顔を見合わせた。なんとも意気高な人質である。
「王女の寝室へ立ち入った罪は見逃してあげましょう。その代わり、そこな女、わたくしが旅姿に改めるのを手伝いなさい」
見知らぬ地へ連れて行かれるというのに、なんと豪胆なのだろう。
けれど、そうしていることで、セレンディアは不安を抑えつけていた。
「ケアイダ団長、寝室の外へ。従うというのですから、我らも従いましょう」
「そのままではいけないのか」
「今のお召し物は、陛下に拝謁するときには良いかもしれませんが、旅にはそぐいません。そういうものです」
ナグラーダは、カラトラヴィアの南側のことをイクテヤール以上に知っている。それだけは間違いなかったのと、リゾリウァルトでも女性は男性の前では衣装を改めることをしないのは確かなことだった。
イクテヤールを部屋から追い出し、剣を携えたナグラーダに、改めてセレンディアは命令した。
「隣の衣装部屋から乗馬用の衣装を一式揃えて出しなさい。馬術は習わなかったけれど、衣装はありましてよ。あと、旅装の着替えをふた揃い」
出しなさいと着せなさいはほぼ同意語だった。
これは、とんでもないものを連れ出すように命令されたのではないかとナグラーダは思った。
示された扉を開くと、裕にこの寝室以上の空間が、ドレスと小物で埋め尽くされていた。
磨き上げられた鏡の前の椅子に腰を下ろしたセレンディアは、お気に入りの金細工の扇を開き、閉じた。パチンと音がする。
「北方の蛮族は、このようなもの、ご存知なくて」
揶揄するように言う。
「我ら戦う部族に、このようなものは不必要です」
言うと、ナグラーダは、衣装の海をかき分けに入った。
ナグラーダが衣装部屋から出てきたのは小一時間後、セレンディアは靴と帽子に注文をつけ、着替えまでが終わったのは、夕刻に差し掛かった頃だった。ナグラーダは、剣の他に大きな鞄をふたつ持たされていた。
ようやく寝室から現れた二人を、イクテヤールはぞんざいに眺めた。
「シンシアはどうしていて」
「薬で眠らせた」
「殺さなかったことは褒めて差し上げなくてよ。もし殺していたら……」
扇でふわりと口元を隠す。
「精霊に命じてお前たちを永遠にここから出さないつもりで居りましたのよ、わたくし」
それは絶対にできるという自信に満ち溢れていた。少なくとも、二人の侵入者には、そう思えた。そして、これがどうウルハーグ王と対面するのか、興味を持った。
世間ではこれから夜会の時間である。
王女がとても夜会に行くとは思えない服装で現れたことに、表にいた女官や神官たちは驚いていた。夜会より会議の方が多かった王女であるが、初めて見る乗馬服姿は実に堂の入ったものだった。
けれど、夜間外出には似つかわしくない。
「これ、そこなお前」
乗馬鞭の代わりに持っている金細工の扇で、年若い神官を呼びつける。
「は、はい、王女殿下。……何か」
「神殿の紋章付きの四頭だての馬車と、アレンジュラ金貨をあるだけ準備なさい。王女の命だと神官長に告げるように」
「畏まりましたっ」
パチン、と扇を鳴らす。
「お前たちの馬はどこに留めていて。あぁ、どこでも構わなくてよ、馬車が用意される前にここまで連れてきなさい。まさか、わたくしを歩かせるつもりはなくてよね」
にっこりと、凄艶な笑みで二人を射すくめる。
ナグラーダには、とても年少の王女には見えなかった。なぜこの王女が王冠を被っていないのか、ふたりは、それはそれは真剣に考えたものである。
馬を休ませながら、三日かけてフリオナ河に出た。
世界樹までは程遠い、けれどルノーヴィア城塞都市よりは上流で、川を渡る算段をしていた。
リゾリウァルトのふたりは、馬で王女を攫おうと思っていた。
けれど、王女はそれをよしとしなかった。生まれ持った気位で二人を圧倒し、有無を言わせず時間のかかる馬車を使うことを命令した。
「橋はない。船で渡る。馬車をお捨て願おう」
河岸まで来てようやく、イクテヤールが口を開いた。
「わたくし、馬術の心得がございませんの」
当たり前のように、セレンディアは言った。
「リシェス、乗せて差し上げろ」
「は。……王女殿下、私の馬にお乗りください。馬は私が操ります」
「あら、向う岸へ付いたらどうしますの。まさかそのまま馬に乗っていろというのではないでしょうね。わたくしは、馬車を降りるつもりはなくてよ」
ぱしん、と扇を閉じる音が響く。不機嫌らしい、というのが、この三日間で分かったことだった。
「馬車では時間がかかります」
「それはお前たちの都合ではなくて。ルノーヴィアへ行きなさい。あそこには橋がありますわ」
「王女殿下がご存知だとは」
いや、グラン・クランのヴィミラニエ姫も、領内のことはよく知っていた。王族というのはそういうものなのだろうか。
「神殿の馬車であることが必要なのですわ。分からなくて。お前たちを併呑したグラン・クランの主神は大空神シーダ・イリでしてよ」
その紋章が人々から崇められるという。残念ながら、リゾリウァルトには、紋章を崇拝する慣習がなかった。
「どこをどう走ったのかは知りませんわ。でもここが河岸の黄金平原だということくらいは分かっておりましてよ。目の前が大河フリオナだということも。こんなに精霊の気配の濃い場所はそう滅多にありませんもの」
セレンディアは、教え諭すように饒舌だった。実際、どこまでこの二人がティルディシアを知っているか、試している部分も心積りにあった。
河を渡ればグラン・クラン、おそらく、占い師として名声を馳せる「石のヴィーラ姫」が自分に対して監視を強めることは確かだろう。
「ルノーヴィアが我らを通しはしないでしょう」
「あら、わたくしが通るというのに、誰が通さないというの」
自分の思い通りにならないことはないと言っているようなものだ。
権力者というものは皆そうなのだろうか。
少なくとも、リゾリウァルトでは、長老たちの話し合いによって決められた方針に従うのが常であったので、一人で何もかも決めてしまうセレンディアの行動力は瞠目に値するものだった。
そう、あのウルハーグ王でさえ、姉のヴィミラニエ姫に相談する姿勢を崩さないというのに、この王女は、誰に相談することもない。
「あのね、あたしたちのセレン。橋へ行くならお話しておいたほうがいいと思うの」
「そうよ、綺麗なセレン。湯浴みもしなくちゃだわ」
「ファーリャ様にも伝えておくわ」
「えぇ、そうね。それが良いわ。それができる距離なのね。お前たち、先触れをして頂戴な」
「――何の話だ」
イクテヤールが、小声で話すセレンディアに不審の声をかけた。
「リゾリウァルトに精霊使いはいなくて。わたくしの力は竜の巫女に比べて微々たるものだけれども、エルシラ女王の末裔として、わずかばかりの力を頂いておりましてよ」
エルシラ女王の時代には、グラン・クランはなかった。しかしそれは神代の話だともいう。
「あなたは精霊使いですか」
リシェスの問いに、とびきりの黒い笑みでセレンディアは応えた。
「お前たちを精霊に捕らえさせてもよくってよ」
自分の言う事を聞かなければそうすると、暗に示す。
二人は、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
「なぜあなたが王冠を被っていない」
イクテヤールは果敢にも聞き返した。
「あら、わたくしは降嫁が決まっている第二継承権者。第一位が居座っているのに、何もないのに押しのけることはできなくてよ。あれが責任を放棄するなら考えたかもしれないけれども……そうね、お前たちはどのように族長を決めて」
「長老の間で会議が行われます」
ナグラーダが答えた。
「ティルディシアは初代を除いて国王は皆男子なの」
初代というのは、もちろんエルシラ女王である。
「馴染みがないようだから教えてあげてもよくってよ。行き先を城塞都市へ変えて頂戴。――さ、何を聞きたいのか言ってご覧なさい」
「リアダールへ渡り、我らに従ってキユナータへ向かうと仰せか」
「ルノーヴィアへ湯浴みの準備をさせに行かせたわ」
「精霊を鳥便のようにお使いになるか」
「あの地には天騎士も精霊使いもたくさんいてよ。お前たちはわたくしの従者として通します。それなりの饗応を準備するでしょう。嫌でしたらおっしゃい」
ふたりは諦めて馬車を下流へ向けた。とても嫌だとは言える雰囲気ではなかった。
しゃらりと扇を開き、上流貴婦人のように口元を隠し、それ以上言うことはないとばかりに馬車のカーテンを閉めた。だからといって、外の様子が分からないわけではない。精霊たちがこまめに教えてくれるからだ。
さすが、女王の庭。
精霊の密度では、カラトラヴィア山脈にも勝る土地だろう。
いくら馬車だといっても、河岸の悪路を一日も走ったのだ。
馬も疲れているし、御者も疲れている。御者は、イクテヤールとナグラーダが交代で行っていた。慣れないことに、ずいぶん慣れた。
そう思えた頃、ルノーヴィア城塞都市へ着いた。
精霊たちが伝えたとおり、ルノーヴィアでは賓客扱いで歓待された。
それも、最上級のもてなしだ。
セレンディアは真っ先に湯を所望し、数少ない女性騎士たちがこれに対応した。イクテヤールとナグラーダは、正体が知れたらいつ殺されてもおかしくない状況だったが、セレンディアの従者というだけで、ほとんどの者が最敬礼をした。上等の酒と、数々の料理が供され、それでもこれは従者用のもので、セレンディア用には別に部屋と食事が用意されているらしい。
セレンディアは、グラン・クランのシーダ・イリ神殿に札を収めに行くのだという。
なぜそこまでしないといけないのか。降嫁する身でありながら、長々と権力を握っていたことへの、神への謝罪だと王女はいう。
仮にも、シーダ・イリ神殿の巫女として勤めている身である。道理はわかるが、なぜ隣国へ行かないといけないのか。トゥアの将軍には、半分怒鳴られた。いや、彼の声が他に比較して大きいというだけのことなのだが。
「何も、人質になるような真似をなさらずとも」
下座に座った将軍に、セレンディアは微笑みを向けた。
「イレンシアが居りますわ、きっとわたくしを助けてくれるでしょう。そして、民衆の絶大な支持を得る」
そのための布石だと、事も無げに言う。
「鳥便が届きましたが、なんとも、あれを聖女にすると言うとか」
「もちろん将軍は賛成してくださいましてよね」
その笑顔が曲者なのだと知ってはいたが、エルシラ女王に向いているようで、どうにも具合が悪い。
「明日の昼、立ちますわ。朝は湯浴みと着替え、そう従者には伝えてありましてよ」
リゾリウァルトの民を従者という。それも、侍女も連れず、たった三人きりの旅程だ。
「それならば馬も休めましょう。しかし、なぜグラン・クランに」
「彼の地には、シーダ・イリ神殿の総本山がありますわ。巫女として末席を穢した身、降嫁前に言いたいこともありましてよ」
「いかにも物騒ですな、もう少し従者を増やしませんか」
「わざわざ神殿の馬車を借りたのです、主神に背く気概のあるものなどそうそう居りませんわ」
確かに、ルノーヴィアから出してしまえば、リアダールに着くのみである。そしてそこは、主神をシーダ・イリと仰ぐ者たちの集団がいる。巫女と知れば、おいそれと手は出さないだろう。
「殿下はお人が悪い」
唸りながら、将軍は言った。
「この国を二年間支えたのは貴女様ですぞ」
「あら、そのわたくしの考えに、お前は意見する気なの」
金の扇をぱしんと鳴らす。
「お前はよくイレンシアを育ててくれたわ。はじめは飾りでも構わないけれど、わたくしはあの子を見捨てたりはしませんわ。王冠を被ることに頷いてもらいます」
「……あれは、宮廷を知らないのですぞ、殿下」
「まだ幼いわ。教えれば吸収しましょう。フラウルーナを召し上げても良くてよね」
もちろん、イリを補佐するために。
「王子殿下はどうなさるおつもりか」
「あの暗愚に王冠はやれなくてよ」
「そう直截に仰いますな。――如何様にして、継承権を取り上げるのですか」
セレンディアは、はらり、と扇を半分ほど開く。思案顔である。
「そうですわね――煌びやかな邸宅と雅やかな姫君たち、名ばかりの名誉職を与えましょう。あれにはそれで充分」
「で、しょうか」
「でしてよ」
華のある微笑みに、将軍は腕組みをして応える。
この花には毒がある。けれど、それは権力を欲していない。生まれながらの気品と明敏な頭脳で宮廷を従える怪物であるのに、だ。
「つくづく、殿下が王子であらせられたらと思います」
これほど王冠が似合う者はいないというのに。
「いまさらですわ、将軍。アルスには一度王冠を被らせ、正当な後継者としてイレンシアを指名させましょう。そうすれば、難しいことを考えず美姫と暮らしてよくってよと頭を撫でてあげられましてよ」
ところで、と将軍が話を変える。
「リゾリウァルトはグラン・クランの支配下にあるかと。あの従者たちは何に紛れてティルディットの神殿に潜り込みましたかな」
「わたくし、人質ですの」
目を丸くしただけでおさまったのは、幸いだった。手にしたグラスが、握りつぶされても落とされてもいない。
「では、グラン・クランの手のものだと」
「ええ。ですからわたくしは攫われなければなりません。イレンシアはわたくしを救い出すことで、臣下に功績を認められ、民衆に認知されるのですわ」
「なんという役を……」
「わたくしかイリアーディのどちらかを后にとの催促を、逆手に取りましたの。攫われた姫君を助ける聖女様。――ね、美しい図でしょう」
扇で口元を隠し、ほほほと笑う。
「殿下はそれが成功すると思われておいでか」
「成功するよう、よく育てましたわね。あの子はまだ幼い。故に純粋で、精霊にも好かれますわ。女王の宝剣も手に入れたようですし」
精霊は、そういうことには敏感である。力は弱いとはいえ、セレンディアは精霊と会話することができた。神殿にいようと、王宮にいようと、遠き地にあろうと。
「殿下、我らアートゥアールはイレンシア様に帝王学は教えておりません」
「剣を持って戦う。陣を整え指揮する。領国経営も共同とはいえやってきた」
「は、間違いございません」
「でしたらあの暗愚よりも良い領主になりますわ」
微笑みは武器になる。将軍は、敗将のように項垂れた。
そして、なぜこの方が国王ではないのか、真剣に考えたのだった。
翌日の昼、太陽が中天より少し落ちた頃、シーダ・イリ神殿の紋章入りの馬車と付き添いの一騎が、堂々と橋を渡ってリアダール砦へと向かった。
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