第1話 イリ・トゥアの場合。

 国の北奥部に連なるカラトラヴィア山脈の峰々が迫るトゥアの地の草原で、少女は目を覚ました。

 冷たい午前の空気だ。

 少しばかりの遠駆けをして、仮眠を終えたところだった。

 少女の名前は、イリ・トゥア。金灰色の真っ直ぐな髪を後ろでひとまとめに縛る、飾り気のない子どもだ。

 だいたい衣服がなっていない。動きやすいことを第一に考えられた、騎兵の小者の衣装だ。

 しかし叙勲でいうなら、一代限りの天騎士。立派に兵の一員として数えられるものである。

 病床の先王が、ようやっと与えた位だった。同年代の子女に比べ能力が優っていたのは、育て親のおかげだ。たった十二歳にもかかわらず叙勲されたのは、先王の命が尽きる寸前であった。

 頬を桜色に染め、天馬から降り立つ姿は、トゥアの民の皆が知るところである。それに対する土地の人々の反応は、好奇心と、僅かな畏敬。

 その少女の薄い緑とも灰色ともつかない瞳は、厳しかった。

「イリ、ようやく帰ってきたか」

世界樹ファーリャのところまで行ってきた。いったいなんなの。ファーリャが気にしていたよ」

「見てきたなら話が早い。河岸の黄金平原……女王の庭を、奴らは荒らす気だ。リアダール砦の人口も増えているとの間諜の報告がある」

 今、西はきな臭い。

 だから、自分の目で確かめようと、早朝から早駆けをして世界樹の精に会ってきたという。

 リアダール砦は、グラン・クラン側の砦の名称で、ティルディシアのルノーヴィア城塞都市と大河フリオナを挟んで睨み合っている。

 ティルディシアのルノーヴィア城塞都市から上流は河岸の黄金平原ともエルシラ女王の庭とも言われ、北はカラトラヴィア山脈まで続いている。女王の庭の中程に、世界樹と呼ばれる大木が立っており、ティルディシアの人々は女王自ら与えた名前の略称を呼んでいる。真名は「長すぎて覚えられない」と言われるが、真名を呼ぶことなど早々あることではないからどうということはない。

 精霊使いであれば知っていて当然だが、精霊使いではないトゥア将軍は砦を見張る役目柄、真名を呼び、助力を乞うことを許されている。

 その世界樹の精ですら気に掛けるフリオナ河の対岸、それもリアダール砦が、最近になって、活動が活発になってきたということだ。

「まったくお前は困った子だ。世界樹の精が言うなら間違いがないんだろう。先刻、王都からセレンディア王女の書簡が届いた」

 成人の儀を済ませていないイリは、それでもティルディシアの天騎士の一人だった。

そろそろ成人の儀を済ませなければならない十四歳である。

 今ではアートゥアールの地で「イリ・トゥア」の名前を知らない者はいない。

 公爵位を国王より拝命した一家の次代の長と目されている。――が、イリは少女である。

 ティルディシアでは一家の主は、現在はそのすべてが男性である。伝説の興国の女王を除いて、女性はすべて廃されている。再興の姫と呼ばれるアイリーンですら、王位を継いではいない。よって、イリは、より強い力を持つように男子として育てられた。

 料理や手芸ではなく、馬術・剣術・弓術・槍術、そして天馬を操る術をこのトゥアの地で倣い覚えた。

 天騎士の位を得てからは、アートゥアールの地の政治も、巌のような養父と共に行ってきた。

「その書簡、何ってあるんだ、親父殿」

「儂に兵を率いてルノーヴィアへ行けと。それからお前にも話がある。王女殿下の命を伝えるから、正装に着替えて顔を洗って来い。精霊の間だ」

 アートゥアールの地を治めるガラルド・グラーフ・アートゥアール公爵は、同時にトゥアの将軍でもあった。この地にいる多くの者と違わず、灰色の髪と髭が手入れされ、焦げ茶の瞳をしている。親子にしては、色合いが違う。

 けれど、公爵家はアイリーン王女排出の今は亡き名門と遠縁にあたる。ティルディシア再興の姫と似たような色合いの子どもがいても、誰も気にしなかった。

「正装……」

 自分にも兵として出よという事なのだろうかと、少女は半分胸躍らせた。

 何より、昨夜見てきた状況が状況であり、将軍には出兵要請が来たという。

 少し複雑だったのは、あつらえてもらった天騎士の正装に、ちょっと細工を加えた所為である。ふんわりと膨らんでいるはずのブラウスの袖を、動きにくいからというだけの理由で引き千切ってしまっているのだ。

 まぁ、仕方ないかと、その格好で顔を洗う。

 精霊の間に入ると、なぜか将軍が下座に座っている。おかしいなと思いながら、更に下座にちょこんと座り、頭を下げた。

「お待たせしました、親父殿」

 それを見やり、将軍は、むっつりとした顔で「上座へ」と促した。

「たかが天騎士、将軍の上座へなんて」

「いや、貴女様は、この国の王女であらせられる。上座へお願いいたす」

 イリは、ぽかんと口を開けてしまった。

「何言ってんの、親父殿。この国の王女はただ二人、美姫才媛の名高いセレンディア王女と、竜の巫女姫イリアーディ王女だ」

「これからお話し申し上げる。フラウルーナがそこへ座る予定になっている、早く座を移られませ」

「ルーナが? えっとそれって、上座へ座って二人からお小言を食らうって格好になるわけ。ルーナは親父殿の向かいに座ればいいよ」

「フラウルーナは無位だ。儂と同じ座へは座れませぬ。ましてや貴女様より上座などとんでもない」

「だったらいつも通り親父殿が上座へ……」

 問答していると、こざっぱりしたドレスに着替えたフラウルーナが精霊の間の入り口で、笑いをこらえている。

「二人とも、譲って円座にいたしましょう」

 本当ならば、将軍と元王宮従き侍女と王女が円座など考えられない。けれどルーナはイリの育ての親のひとりである。気性は承知だ。

「それならいい」

 イリが言うと、ルーナはお茶を部屋の真ん中に置いて、自分はさっさと給仕を始めた。苦い顔をしたトゥア将軍は、その場から動かない。

 まったく頑固なんだからね、とルーナが片目を瞑ってイリに微笑みかけた。

「さ、王女殿下からのお話を、伺いましょう」

「その前にさっき親父殿が言っていた私の話の方が知りたいかな。だっていきなり畏まるんだよ、どうしたら良いんだよ」

 まずは慣れた手つきでイリの前へお茶を置いたルーナが、茶目っ気たっぷりに言う。

「それじゃ、私が預かった娘の話を先にした方が良いのかしらね、お兄様」

 昔語りになりそうだ。

 イリは、フラウルーナがかつて王宮従き侍女だったことは知っていた。だから、何かしらがあるのだろうとお茶を啜りながら頷いた。

「うむ。お前の行儀作法見習いの話からだ」

「あら、そんなに昔からの話になりますの。仕方がありませんわね」

 何となく、いつもより言葉遣いが上品である。

「イリ様が知っている通り、私とお兄様は、母の違う兄弟です」

「様はいらない」

「いいえ、王宮を巻き込んだ恐れ多い話になります。様付けくらい何です。出生を秘密にしてきた王女殿下にも、腹を決めて貰わなければなりません」


 二十年前、国王の正室が亡くなった。

 正室には二人の子がいた。ひとつだった王女セレンディア・フォーナ・クルー・グリュンディルと、生まれたばかりの王子アルスロード・ディル・セント・グリュンディルである。二人にはたくさんの養育係がつけられた。

 側女もたくさん置かれたが、この中からトゥアの出の一人を二度目の正室とし、これを第二王妃と呼ぶ。

 第二王妃も、六年後、子を授かった。これが、竜の巫女姫に選ばれた王女イリアーディ・フェン・ファレル・グリュンディルである。

 子を授かった後十二年で第二王妃は亡くなり、後を追うように国王も亡くなった。


 それから二年の間、王は誕生していない。

 なぜなら、誰も立太子していなかったのだ。


 王位継承権の第一位はアルスロード王子である。これが姉王女にして「暗愚・凡骨」と言われ、故に傀儡にしようと擁立を企む一派がいる。

 第二位は、セレンディア王女だ。政治には明るいが、戦をするように育てられてはいない。宮廷婦人のトップであり、他にも立太子を推す声が多い。しかし、先王の亡くなる前に国の筆頭公爵カリュンダルフ家に降嫁することが決められていた。為に、政治はするが、当人が冠をかぶろうとしない。

 第三位は竜に嫁すことが生まれた時に決められたイリアーディ王女だ。その役目上、王位を継ぐことはないと目されており、蝶よ花よと育てられた優しき姫君である。


 そこまでは、イリもよく知るこの国の有り様だ。

「ですけれどね、よく聞いていただきたいのは隠された話。イリアーディ王女は実は男子で、これに女子の双子が生まれていたのです」

 男女の双子は忌み嫌われる。王家においては、女子は「処分」される。

「別に、どこがおかしいの。竜に嫁すと決められたから女子として育てられただけじゃないの」

「王妃様は、お子を弑すことを厭われたのです」

「イリ様、天馬と契約を交わす際、何と名乗られましたかな?」

 精霊との契約は、真名を用いて成される。天馬は只人にも見える上位の精霊である。

「何って、トゥアの人たちが使う普通の名前だよ。トゥアに育ったアイリーン王女と同じ、グリュンディール」

「正確に仰(おっしゃ)いなさいませ」

 家族間でも、真名を教えるのには抵抗がある。それはどんな精霊使いでもそうだった。

 けれどイリは素直に答えた。二人に絶対の信頼を寄せていたからだ。

「イレンシラディエラ・グリュンディール」

 にっこりとルーナが微笑った。

「お母上様は、占い婆と相談して、イレンシア・ルーディ・ラン・グリュンディルとお名付けなさいました」

 大空神シーダ・イリと、戦乙女ルディ・ランの名を望んだという。

「グリュンディルは王家の名ですぞ、殿下。弑される者をこのフラウルーナがわが子と偽り、ここトゥアの地へとお運びした」

「待ってよ、トゥアの天騎士はほとんどグリュンディールを名乗ってるはずだよ」

「それは真名にございます。人の世界でグリュンディルを名乗るのを許されるのは、王家に連なる者ばかり。大空神と戦乙女の名を持たれた意味を、よくお考えくださいまし」

 イリは、冷めた茶を一口啜った。

「もしそのお姫様がさ、生きていたとして、でも、継承権は四位だ」

 そして、イリアーディ王女がセレンディア王女よりも継承権が高いことになる。なぜなら、彼女は王子なのだから。

 イリは、トゥア将軍と同じように、腕を組んだ。

「第一位の方はとても立太子できるような方ではないことを先王は嘆いておられた。第二位は、竜へ嫁す事実上の無位。そして三位はカリュンダルフへと自ら固く決めておいでだ」

 声を潜めて、将軍は言った。

「確かに夜会にしか興味を示さない王子殿下は賢君とはなりえませぬ。政治にも戦にも疎くていらっしゃる。だのに今はグラン・クランがこちらを窺がう時期。セレンディア王女からの書簡もそれを告げている。ファーリャ様が仰ったとおりだ。儂には兵を整えて全軍でルノーヴィアへ向かえと言い、イレンシア様にはグラン・クランと戦うため早急にティルディットのシーダ・イリ神殿へ向かって欲しいとのこと。これは、その紹介状ですな」

 ティルディシア王家の封蝋が捺してある。

「この館には、書簡とともに届けられた輜重用のアレンジュラ金貨が溢れておりますわ」

「私は、親父殿と別行動なんだ」

 トゥアの地ならば勝手が分かるが、国全体となるとそうはいかない。

 心配そうな顔を、朗らかに微笑むフラウルーナに向けた。

「イリ様、いいえ、イレンシア様。貴女を生かした王妃様に報いてくださいまし。生きるを許した先王様に国を惑わした烙印を与えないでくださいまし。セレンディア王女殿下の為と思い、あの方の剣となってくださいまし」

「フラウルーナにも召喚状が届いている。詳しいことはこちらにあるが、儂に知らせられたのは、フェニスティなる元女官とともにイレンシア様の身の証を立てるよう取り計らうためだということだけだ」

「騎士として戦えっていうのならそうする。だって私は天騎士だもの」

「天騎士であると同時に、この国の王女殿下ですぞ」

 いずれも譲らない。

 頑固なのは、この土地ならではだ。冬は冷たく凍える地である。肥沃とは言えない大地に根を下ろし、馬を育て、精霊使いであれば天馬を馴らすことを教え、山から降りてきた害獣は獲って食すような土地だ。

 いつも寡黙なトゥア将軍が饒舌である。

「実際のところ、河岸はどうなのでしょうか、イリ様」

「ルーナ、親父殿。ファーリャは黄金平原を焼かれた二百余年昔のことを思い出しているそうです。あの時自分も焼かれたと。手下てかの精霊が静まらなくて困ると嘆いてた。……そうだ、一度グラン・クランの王都キユナタルディスを見てみたい。ティルディットにはそれから向かおう……だめかな」

 将軍がわずかほっとしたのが分かった。

 王女殿下は、こんな小娘に何を言おうというのだろう。イリは考えたが、想像も付かない。

 王女なんぞにならなくても、セレンディア王女の下命があれば力の限り働くのに。いや、この際、戦に無関心なアルスロード王子でもいい、一言、あれを討て、で良いのではないか。

「救国の聖女となれというお達しだ。忘れられたもうひとりのイリ王女がティルディシアの旗を掲げグラン・クラン軍を撤退させる。ウルハーグ王に、こちらへの手出しはできぬと示す。それが肝要だ」

「それが今回の戦なわけ」

 一人殺してこいって言うほうが楽なんじゃないかと思うけどなぁ、とイリは渋った。

「セレンディア王女殿下の言葉を直接聞きたければ、言われたとおりに王都ティルディットの一番大きなシーダ・イリ神殿へ行けばよろしいでしょう。なぜディエラ・フィダ神殿へ遷られなかったのかも訊くことができましょうな」

 そう、ティルディシアの主神は玉座の花と呼ばれる女神ディエラ・フィダである。戴冠式や国を挙げての行事などは全てディエラ・フィダ神殿で行われる。

「それじゃやっぱり、一度キユナタルディスに行ってウルハーグ王の顔を見て、ティルディットのセレンディア王女に会う。アシュレイだったら、飛びっぱなしで三日くらいの旅程になる。その、早急に、には間に合うかな」

 アシュレイというのは、イリの騎乗する天馬の名だ。

「王宮に詰める貴族の早急は、おおよそにしてのんびりしておりますからな、こちらから三日はかかると鳥便を出しておきましょうぞ」

 事実、天馬ではなく馬車を使えば、そのくらいかからないではない。

「もし共に戦うことになったらですけれど、カウシェンブルの傭兵の中に、兄上様と同じ瞳の色の兵がおります。その方を探すとよろしいですわ、イリ様。きっと力になってくれましょう」

「カウシェンブルって、南の海の上じゃないか。共にって――そうか、アイリーン姫の時にはあそこはまだ国じゃなかったのか」

「今は強き傭兵団を持つ立派な国家です。考えてみてくださいましな、あの国の利益がどのようにして生まれるか。イレンシア様ならば、きっと分かるはずですわ」

「……ねぇ、どうしても「様」はどけられないの」

「無理ですわね、私たちは臣下ですもの。セレンディア王女殿下が思い出されたのですから、致し方ありませんわ」

 トゥアのイリで居たいと思うのは、果敢無い望みなのだろうか。

 精霊が心配そうに傍に寄ってくる。そう、ここは精霊の間だ。

「聞いたこと、内緒にしてくれるかな。今度美味しい果物と甘いお酒をここに準備するから」

 きゃぁっと言って小さな精霊たちは喜んだ。そして、真名を交わし確約した。

 残念ながら、トゥア将軍にもフラウルーナにも、精霊たちは見えなかった。


 それから約一日半後には、キユナタルディスの街の中にイリ・トゥアの姿があった。

 天馬を任された小者の様子で、王城の入口を見上げた。

 カラトラヴィア山脈より北方のリゾリウァルトを平定して以来、勢いのある街であり、城構えである。それを見てから、街外れの天馬を留め置けるできるだけ質素な宿に、天馬の世話代も含めてアレンジュラ金貨を二枚置いた。

 小者姿のイリに、番台は特に警戒した様子はなかった。宿帳にイリ・ルディの名を記す。神様の名前を語るのは恐れ多くはあるが、加護を願う民衆のあいだでは珍しくはない名前だ。

 主人が従軍したいと望んでいる、というと、番台は極めて丁寧にその作法を教えてくれた。なんでも、翌日朝に、ティルディシア侵攻の触れを自ら撒いて回るのだというから豪快だ。

 どこの広場に何時に回るかの説明が書かれた触書を貰った。なんとも無防備である。

 はたして、くだんの広場に定刻より少し前に出向くと、大勢の民で溢れかえっていた。どうやってこの中で触れを下知するというのだろう。

「坊主、迷い込んだのか?」

 隣に立つ大男が、親切にも声をかけてくれた。

「うん、王様が見たいんだけど、私の背じゃ無理みたいだ」

 人の壁である。どうがんばっても十代半ばにしか見えないイリは、ここに天馬を連れてくるようなことはしなかった。そんな目立つ真似は控えたほうが良さそうだと思ったからだ。

 だから、身長が足りない。

 天騎士は、良質な天馬を輩出するトゥアの地でこそ目立つものではなかったが、カラトラヴィア山脈でも西の峰ほど天馬は少ないという。アシュレイの言ったことだ。アシュレイは東の峰の生まれであることに誇りを持っていた。

「主持ちか?」

「ううん、今は違う。王様、人気だね」

「一体どんな田舎から出てきたんだ。もちろん、善政を如く王はグラン・クランの誇りだ」

「凄く失礼なことを言ってもいいかな」

「どんなことだ」

 怒らないでね、とイリは微笑みかけた。

「肩に乗せてよ。あなたはとても大きくて、私一人くらい担ぐのは平気そうに見えるから」

 ははは、と男は笑った。

「ここから多分、王は遠いぞ」

「田舎育ちで目はいいんだ。だけど、どうしても高さが足りなくて」

 悔しい表情を作って、背伸びをする。

「子ども用の観覧席とか、作ってくれればいいのに」

「そもそも王の触れを聞く子どもは珍しいな」

「どうして。自分の国の王様だろうに」

「坊主は違うのかい」

 ちょっと思案してから、答えた。

「実は海の出身なんだ」

 海といえば、ほぼカウシェンブルを示す。市民なのか商人なのか、見た目では分からない。今は主持ちではないということから、およそ傭兵あたりが親なのだろうと大男は勝手に考え、よく来たな、と言った。

 それからおもむろに、イリの両脇を抱え、肩まで上げた。

「どうだ、見えるか」

 男の目線では、広場全体は見渡せたのだが、視力の方は心許ない。

「大丈夫、奥まで見えるよ。それより、王様の触書って、どのへんで撒くのかな。おじさんのと私のと、ふたつもらえたらいいな」

 急に視線が高くなったことに、驚いている様子は見せない。男は知らないが、イリは天を駆ける騎士なのだ。人の肩程度の高さで怖いだの云々は思いつくことではない。

 訝しんだのか、男はイリの灰色の目を見上げた。

「高いのは、平気なのかい」

「うん、海では帆柱に上がるのが好きなんだ」

 乗ったこともない船の話をする。しかし男は信じた。男は海になど出たことはなかったから、不信を抱こうにも、それこそ思いつくことではなかったのだ。

「あ、多分先触れの人だ。見えるかな、赤い被り物の、右手脇、王宮側から馬で出て来た人」

 指差すと、大男は目を細めた。

「俺にはちょっと、遠いな。よく見えるな」

「見えなきゃ帆柱には登っちゃいけないんだ。遠見をするのじゃなくちゃ、怒られちゃうから」

 適当に話を合わせる。

 実は、フラウルーナに船のことを聞いてきたのだ。知っておいて損はないという彼女の言葉は至言だった。

 広場に、ラッパの音が響いた。馬の後ろから出てきた衛士たちが、王の出てくる場を作るように、人々を押し退ける。

 ひときわ立派な飾り物をした黒い天馬に、ウルハーグ王は乗っていた。黒い翼が、力強く羽ばたいた。

「大勢の来場、大儀だ」

 朗々と深い声が響いた。

 けして華美ではない衣装だが、堂々とした体躯に洗練された仕草が目を引く大柄な男だった。

 目を凝らして、イリは人となりを確かめようとした。

 よく日に焼けた肌は健康的に見え、黒い髪は豊かだ。王冠はつけていない。その瞳も黒いことを、おしゃべりな精霊たちのさざめきから知ることができた。

「……かっこいいなぁ」

 とても話に聞いたアルスロード王子とは比べられない。その事実を改めて感じる。

 アルスロード王子が如何様かは、セレンディア王女の嘆きからなんとなく知ることができた。降嫁するにもできない、と。

「これで、ティルディシアの王女様が王妃様におさまってくれりゃ、言うこと無しだろう。どうだ、坊主」

「ティルディシアの王家はよく分からないんだ。噂には聞くんだけどね」

「ここに来るまでウルハーグ王も噂にしか知らなかったんだろう」

「うん、そう。北方の騎馬民族を従えたって聞いて、どんな人なんだろうって思ってた」

 自国の王をかっこいいと言われて嬉しくない民はいない。大男は相好を崩した。

「姉姫様も素晴らしい方だぞ。時折だが、託宣があるときには王城のバルコニーから語りかけてくださる。まぁ、ちょっと変わっておられる方なんだがな」

「ふぅん。え、王様が直接撒くの。いま、紙の束持って天馬が」

 力強く大気を駆けようとする駿馬に目が行く。

「いつものことさな」

 集まった民衆から歓声が上がる。

 ――勢いがある。

 それは否めない。悔しいことに。

 これにどう対処するか、至難である。

 考える前に、ひらりひらりと触れ書が舞ってきた。そのあと、羽ばたきの音が過ぎ去り、ようやくウルハーグ王が大胆にも頭上を越えていったのだと知れた。

 二枚、手に取り、一枚を大男に渡した。

「これ、肩に乗せてくれたお礼」

「ありがたいな、いつも俺は取りはぐれてしまうんだ」

 広場の中空を駆け回ったあと、出てきた場所の上空に陣取り、ウルハーグ王は言った。

「これよりティルディシアを救わんことを宣言する!」

 救う。

 かつてティルディシアを削り取って生まれた国が、ティルディシアを飲み込もうとしている。

(親父殿たちだけじゃ、ルノーヴィア城塞も時間の問題かな)

 そんな弱気でどうする、と一括する声が目に見えるようだった。

 しかし、これからはそんな声も聞けなくなるのかと、厳しい顔の育て親二人を思い出していた。――王女の位など、望んではいないのに。

「軍属に入らんとする者は王城二の廓門横の小屋まで申告するように。老若男女は委細かまわぬ」

 歓声に応えて手を振るウルハーグ王は、イリから見ても立派な為政者で、天騎士だった。

 あぁ、いい王様なんだなぁ、と、イリは改めて思った。

 それでも勝たなければならない。

 少なくともフリオナ河を渡してはならない。

 領地の割譲や併呑など、以ての外だ。

「おじさん、ありがとう」

 石畳に下ろされ、イリは改めて大男に頭を下げた。

「いや、こっちこそ、気持ちのいい旅客に会えたよ。グラン・クランで傭兵見習いにでもなったらどうだ?」

「うーん、親が許してくれたら、それもいいかもね」

 そうだな、と笑う大男と分かれて、早足で宿に戻った。

 荷物を整えて、アシュレイを厩から引き出す。

 急いで戻らなければならない。この勢いを、どう伝えたらいいだろうか。

 何より、この勢いにどう勝てばいいだろうか。

 最後の街門をくぐると、アシュレイの首筋に顔をうずめた。

「ティルディットまで、お願い。できるだけ早く」

『大丈夫、イリ。倒れそうだよ』

「倒れてなんかいられない。急いで、お願い」

『気流に乗るからしっかりつかまってて』

 目立つといけないからと言ったアシュレイは、王宮を遙か下に見下ろせるくらいまで高く昇り、先だけが黒い真っ白な翼を広げると、身を潜めていなければならないほどの速さで滑空した。


 アートゥアールを出てからちょうど三日後の暁闇に、ティルディットに辿りついた。

 梟便を飛ばし、泊まっている宿を(恐れ多いことだったが腹をくくって)セレンディアに取り急ぎ伝えてから、三日間をほとんど翔び続けたアシュレイに、柔らかな藁の寝床を準備した。

 夜明けの直前に梟便が帰ってきて、翌日の朝議に出席するよう命令を受けた。ここまで急がずとも良かったのか。丸一日があいた。

 セレンディア王女からの書簡は流麗な筆致である。が、セレンディアの手ではない。

「さすがにこの時間は、なしだったよね」

 ふかふかの藁を背に、アシュレイの腹を頭の下にして、イリは三日ぶりの睡眠を貪った。

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