聖女になれと言われました(仮)
黒姫彩歌
プロローグ
低い地鳴りのような音がした。
赤い姫装束の少女は、ハッと顔を上げた。どうやら古書との奮闘中に眠り込んでいたらしい。
何があったのだろう、と古書を机に置き、窓辺へと寄った。
精霊たちがそわそわしている。
「何がありましたの」
おっとりとした、可憐な声である。
「あなた知ってる?」
「知らないわ」
「分からないのよ、でも何だかおかしいわ」
そうね、おかしいわ、と小さな精霊たちがさざめきあう。
「分からないわ、姫君。あたしたちの可愛いイリ王女。分かったら一番に教えてあげる」
きゃっきゃと笑いあいながら、赤いドレスの周りをくるくると回る。
「いいえ、いけませんわ。一番はセレンお姉様に。わたくしには二番目に教えてくださらないかしら」
良いわ、とも嫌よ、とも声が上がる。ここにいる精霊たちは、ほとんどが少女――イリアーディに懐いている。
ここは国境からは遠い。けれど精霊使いの姫君にとって、距離はさしたる問題ではなかった。
――どこで何があったのか。
同じ異変を、姉王女も聞いているはずである。
何しろ、情報を集めるには一番の、王都のシーダ・イリ神殿にいるのだ。王宮の奥の宮にいる姫君とは、違う。そう、違わなければならない。
ここ、王宮の奥の宮は、政治の及ばぬところである。異変には気付いても、何がどういつもと違うのかがわからない。また、判断材料を、イリアーディは持っていなかった。
「ねぇ、だれか。セレンお姉様に何があったのか訊いてきてくださらないかしら」
歌うような可憐な声に、精霊たちも耳を傾ける。
「じゃぁ、あたしが行ってあげる。あたしたちのイリアーディ王女のために」
「ありがとう、お願いいたしますわ」
ふわり、とひとつの気配が消えた。
ティルディシア王国グリュンディル朝には、現在国王が居ない。
二人目の王妃に先立たれ、十も老け込んだ国王は、次の王を決める間もなくあっけなく亡くなった。
二年も前の話である。
というのも、第一王位継承者であるアルスロード王子は、誰から見ても王の資質を備えてはいなかった。これが女子であれば、適当な嫁ぎ先を見つけ、継承権を剥奪できる。だが、残念なことに、彼は王子だった。軽佻浮薄、というのだろうか、美しいものに目がなく、玉座は「世界中の富とすべてのあらゆるものにかしずかれるためのもの」でしかなかった。美しくないもの、たとえば戦場であるとか、負傷兵であるとか……そういったものは、彼の頭の中にはない。もちろん、政治もだ。
故に、同腹の姉王女からも「暗愚」だの「凡骨」だのとひどい言われようをしているが――幸いなことに、それを進言する家臣もいなかった。
セレンディア王女は、これが王子であれば良かったのに、と言われるほど政治に明るい。降嫁が決まってさえいなければと歯噛みする臣下を
そして第三の王位継承権を持つのが、第二王妃の娘であるイリアーディ王女だ。王城の最奥に居を構え、類い稀なる精霊使いでありながら、ふんわりおっとりとした気性は、これも王としては厳しいものがある。何にしても弱すぎる、というのが、多くの家臣達の見立てである。王国の護ってあげたい女性の一番に名が上がるのは、致し方がない。
何より、イリアーディ王女には大事な役目があった。この王国の守護を司る竜に、巫女として仕えるという、他のどんな精霊使いにもできない役目が。
先王が亡くなり二年、よく耐えたというのが実情である。
アルスロード王子を傀儡に専横しようという者達と、セレンディア王女を中心に国をまとめたい重臣とが真っ向から対立しており、セレンディア王女派がわずか力が強いため、ぎりぎりの均衡を保ち、隣国グラン・クランと対峙している。
そのグラン・クランの勇猛で知られるウルハーグ王から使者が来た。
曰く、姫君のいずれかを我が妻に迎えたい、というものである。
みな、慌てた。どちらの姫も嫁ぎ先が決まっている。
隣国の王妃として迎えられるならば、家臣となるより身分的に釣り合うのではないかというアルスロード王子支持派の意見と、国の重鎮であるカリュンダルフ公爵家との血縁はティルディシアにとって不可欠であるというセレンディア王女支持派の意見が真っ向から対立した。
共通の見解は、「イリアーディ王女は竜のもの」よって「嫁がせることはできない」。
これに、グラン・クラン側は業を煮やした。
どちらでも良いからとっとと寄越せ、さもなくば進軍する、と。
これには、国王不在が響いた。軍の頭がいないのである。
王都を守護するラン騎士団はあるが、これを指揮するのはセレンディア王女の夫となる予定のカリュンダルフ公爵である。が、この人を動かすと内政にも軍事にも不安が残る。何しろアルスロード王子支持派が王宮を席巻することになるのだ。アルスロード王子が騎士団に動けと命令することはない。そのようなものに興味を示さないのだ。
また、セレンディア王女に軍を指揮しろというのも難しい話である。彼女はあくまで王女である。戦などとんでもない、と両陣営から言われている。
確かに馬を駆り剣を振るうのは、無理な話である。
シーダ・イリ神殿の内宮で、セレンディア王女は溜め息をついた。
「アルスの頭に、戦の文字があれば違ったのでしょうけれど」
あったなら、この国は間違いなく彼のものとなっている。無能は補えば良い。が、無関心はいただけない。
「セレンディア王女様、そのアルスロード殿下から書状にございます」
聞こえたのか聞こえなかったのか、侍女が恭しく盆に載せた封書を献上する。
「昨日はお茶会のお誘い、その前は夜会のお誘い、その前は……何だったかしら?」
セレンディア王女は貴婦人であり、大変な美女だった。
国を興したというエルシラ女王の肖像画が残っているが、とてもよく似ている。明るい金の巻き毛は腰まであり、それをまとめてティアラをのせている。鮮やかな緑の瞳は春の新緑色。精霊達とも話ができた。声は明朗でこれも美しく、スレンダーな身体に似合わぬ声量もある。
この王女を自分の世界の花としたいのだ、愚かな弟王子は。
「面倒だわ、シンシア、読んでちょうだい」
幼い頃からともに育った侍女のシンシアと封書を見やり、頭を抱える。
そんなことより、戦なのだ。何とかしなければならない。
「では、僭越ながら拝読させて頂きます。『畏(かしこ)くも麗しきセレンディア姉君へ、王宮での晩餐にご招待いたしたいと存じます。いかな我が国一のシーダ・イリ神殿でも無聊を託(かこ)っておられましょう故、お招き致すものにございます。金の巻き毛を結い上げたその美しいお姿を、雛のようなご婦人方へどうぞ……』」
「もう良いわ。国の難事に向かおうという姿勢でないことが分かっただけで充分。あの暗愚、どう始末を付けましょう。ねぇ、シンシア」
「どうしても戦になりますかしら、セレン様」
「なるわ。あの暗愚に王の外套をまとわせて戦陣に立って貰おうかしら。あぁでもそんなことをしたら負けてしまうわ。戦って難しいのね」
あら、毛色の違う精霊がいるわ、とそちらに微笑みかけたとき、その小さな精霊――シンシアには見えず、聞こえない――が、息せき切って顔面へぶつかった。痛いわけではない、ちょっとした風に撫でられる程度の接触だった。
「イリアーディから、何か」
やんわりとセレンディアが言うと、シンシアが首を傾げた。
「セレン様?」
小さな精霊は、シンシアのことなど気にしていない。
「低い地鳴りに気付いたかしらって。何があったか姉姫様なら知っているのじゃないかしらって。みんなで話して、あたしが来ることになったのよ」
「まぁ、もう進軍してきたの」
「神殿では気付かなかったの」
「ここは賑やかですもの。それにしても、お前のように小さな精霊には、荷が勝つでしょう。ご苦労様。……あぁ、わたくしとしたことが大切なことを忘れていましたわ、シンシア」
前半は精霊に、後半は侍女に向けた言葉である。
「あなたはイリアーディのところにお戻りなさい、大丈夫よと伝えてね。さぁシンシア、救国の聖女様を仕立て上げましょう」
「はい?」
銀色のまとめ髪がふわりと傾げられる。頭の回るセレンディアについていくのは事である。
「確か、カウシェンブル島群には傭兵がいてよね」
カウシェンブルとは、ティルディシアとグラン・クランを分かつ大河フリオナの遙か南に位置する商人達の島国だ。シンシアの父は先代のカリュンダルフ公爵であるが、母はその妾で、カウシェンブル出身だった。それも、かなり上位に位置する有力市民の出であり、商都ラズニヤータにも館を構える富豪だ。
カウシェンブルに王は居ない。市民が集って政治を行っているという。その島国を護るために雇われているのが傭兵と呼ばれる集団だ。元々カウシェンブルは海賊の島である。臑に傷持ち、ティルディシアにもグラン・クランにもいられなかったものが国家を成した新しい国でもある。
「おりますけれど、何か傭兵にご用が? あれらと渡り合うのは感心しませんわ」
シンシアは慎重である。
「それに、救国の聖女様と仰いましたけれど、あの島国には女海賊しかおりませんのに……」
「傭兵にはお金を支払えば良いのでしょう。わたくしはね、シンシア、思い出したことがありますの」
金の扇子をはらりと開き、王女は筆頭侍女を招いた。
「アートゥアールのフラウルーナを覚えていて?」
「確か、第二王妃様付きの弓の達人だった方と聞き及んでおりますわ」
「なぜ、お城を出たか、覚えていて?」
「お子様ができたためとか、噂では聞きましたけれど……セレン様、何を考えていらっしゃいますの」
側近くへ寄ったシンシアの耳元に、扇子を伏せる。
「イリは男女の双子だったのよ」
は、と侍女の顔がこわばる。
「一人はその、フラウルーナが引き取ったのよ。わたくしとしたことが、今の今まで忘れていましたわ」
覚えていられては困るのだ。
このティルディシアでは、男女の双子は凶兆とされる。故に、一人は殺されることになっている。特に、王家にあっては、必ず女子を亡きものとするよう定められていた。
「セレン様、それは王家の法に反するのでは?」
王宮の奥の宮にいるのは、王女である。
「そうね。当時のことは、第二王妃殿下と出産についた侍女三名、そして精霊の声を聞くことができたわたくしと父のみが知っているの」
「では、先王陛下は、知っていて黙っていらした?」
セレンディアは、こくりと頷く。続けて、シンシアは尋ねた。
「でも、いくらアートゥアールで育ったからと言って、まだ十四の少年ではございませんか」
アートゥアールは強い騎士を輩出することで知られる土地である。カラトラヴィア山脈の麓の高原地帯で馬を駆り、弓を競うのは風習であると言っても良かった。
それにしても、十四は若い。若いというより、幼い。
「父が亡くなる前に叙勲した天騎士を思えていて?」
普通の深窓の姫君なら知らないことである。しかし、昔から王子の暗愚は心配の種であり、聡明な王女は政治と近しい場所にいた。
「あぁ、まだ十二の少年だのに恐ろしく強いと、もてはやされた……お話が本当でしたら、引き取られたのは女子ではない方の……少年ですわ、記憶の限りでは、セレン様」
悪巧みをするように、セレンディアは声を落とした。
「確かに男女の子が生まれ、片方が引き取られた。奥の宮には王女がいる。けれどね」
誰にも見せられない黒い微笑みを、扇子に向けて投げかける。
「あれは少女よ。精霊が笑いながら教えてくれましたわ。二年前から天馬を乗りこなす女騎士がトゥアの地にいたということよ。何より――お前は知らないかもしれないけれどね、髪も瞳も顔立ちもイリアーディにそっくりなの。名前を何と言ったかしら……それが、残されたもう一人の王位継承者よ。あれを救国の聖女としましょう。傭兵たちを率いさせて」
王宮の奥の宮に住むイリアーディ王女を、シンシアは見たことがない。
金灰色の豊かな髪をまっすぐ伸ばし、淡い灰色のような緑のような瞳をした肖像画ならば、見たことがある。白い肌は透き通るように美しく、桜桃のような唇が愛らしい、大人しそうな少女だった。
だから、繋がらなかった。
「あの姫君様が、実は男子で、しかも天騎士の位を持つ騎士と同じお顔……?」
想像がつかない。
「そうね、知らないで見ると別でしょうね。わたくしは、並べてみたいと思いましてよ」
ペンと羊皮紙が用意された。
「西に争乱あり、トゥアの将軍においては、あらん限りの兵を用いてルノーヴィア城塞都市へと向かわれたし、」
「争乱……」
先程も言われた戦を、思い返す。シンシアは、まさかと問いかける。
「そうよ、いずれの姫も、嫁げないんですもの。リアダール砦に響く軍靴の音が、地鳴りの正体でしょう。えぇ……、なお、ご養育の君には至急我が元へ参られたし、加えて元王宮従き侍女も同道を願う、以上」
「無茶ですわ、セレン様」
「そこを一筆、お前のペンが役に立つのではなくて」
「……無茶ですわ、セレン様」
シンシアの、溜め息に近い声が低く響く。
「お前は知らなかったことだけれどね、フィーニは第二王妃の懐刀だったのよ。もちろん出産にも携わっているの。残る一人の侍女だけれど……当時の侍女頭で、今はもう亡き人よ。あぁ、秘密を喋ってすっきりしましたわ」
知らないではいられないことだ、と、シンシアは腹を括った。
それが、王家の誇る聡明な王女の侍女の役目だと思った。
だから気になった。
「――セレン様、その方をグラン・クランへ差し出しては?」
「あら、王家に姫は二人しかいなくてよ。わたくしも巫女姫もこのままで、どうしてあやつらを欺けましょう」
確かに王女は二人だ。セレンディアと、王家に仕える天騎士の。
セレンディアは嫁ぐ先をカリュンダルフにと決めて、動こうとしない。
イリアーディ王女の形(なり)をした「王子」では、グラン・クランに言い訳が効かない。
ましてや天騎士をこれと差し出しても、王家には二人しか王女はいないことになっている。
「おそれながら、天騎士の位を叙されたアートゥアールの王女殿下は、姫君とは到底思えぬと考えてもよろしゅうございますか」
「そうね、よろしくてよ。あれはまったく男の子のようだもの」
男装し、武器を持つ姫など、ティルディシアにはいない。これはグラン・クランも知りうることだった。
「でもそうね、変装してウルハーグ王を殺してきてちょうだいと言えば良いことかしら」
「…………無茶ですわ、セレン様」
「無茶でも、できることをしなければ、王家の怠慢と取られるでしょうね。さぁ、ペンを取ってちょうだいな。フィーニに一筆」
悪戯を思いついて楽しいかのように振舞う。
「わたくしの派閥のものにも下命しなければね。せめてベルン伯、ホスフォード伯には協力を願いたいわ」
そのためにはまず、もうひとりの王女の力を示さなければならない。
天騎士と言えど、天馬に騎乗する騎士に過ぎない。一代しか続かない騎士位を主と仰ぐなど、貴族たちには到底受け入れられないだろうから。
「それには、私の母の一声が必要なんですのね……」
「フェニスティ・ティエリスティ及びフラウルーナ・アートゥアールには揃って朝議に参加してもらうわ。いいこと、これはわたくしの命よ。シンシア、逆らえて?」
シンシアは溜め息と同時に首を振った。
「今のセレン様は王に等しいお方ですもの、アルス王子以外、どなたも逆らえませんわ」
満足そうに、セレンディアは微笑んだ。
「そう、セレンお姉様が言ってらしたのね」
「大丈夫よって。それから、救国の聖女様を仕立てるって。そこまでしか聞いていないけれど」
金灰色の頭が、わずか、傾げられた。
「セレンお姉様が剣を持つのかしら」
「分からないわ、可愛いイリアーディ。もう一度、あの辺の精霊に聞いてきましょうか」
にっこりと微笑んで、王女は答えた。
「構わなくてよ。セレンお姉様の為さることに間違いはないのだから」
――そう、イリアーディ王女は、異腹の姉に絶対の信頼を寄せていた。まさか、同腹の妹がいるとも知らず。
そしてこれは確実なことだが、王宮の奥の宮には、政治も軍事も存在しない。竜の巫女たるべく、外界とは切り離された場所で、ひたすら潔斎を続けているのだ。喋る相手は限られた侍女たちと精霊たちしかいない。
それは、第二王妃が亡くなってからずっと続いていたことだったので、特に疑問に思うこともなかった。
この国の政治は、イリアーディ王女のあずかり知らぬところで、セレンディア王女を中心に回っていた。
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