第88話 約束。
「焦った……」
洗面所で顔を洗って、頭を冷やす。そうでもしないと、紫恵美姉さんのことばかり考えてしまう。
「…………ダメだ」
けれど冷たい水で何度顔を洗っても、首筋に残った温かな舌の感触が消えてくれない。あの柔らかな胸の感触が、いつまで経っても俺の心臓をドキドキと高鳴らせる。
「昨日、姉さんにエッチがどうとか言われたからかな。どうしても、意識しちゃうな……」
前にも、紫恵美姉さんと一緒に寝たことはある。でもその時は今みたいに、意識することはなかった。紫恵美姉さんの胸に触れても、もっと平然としていられた筈だ。……なのに今は、どうしてか激しい鼓動が収まらない。
「あ、なずな。早いですね」
と。そこで、緑姉さんが洗面所に姿を現す。
「……おはよう、緑姉さん。緑姉さんこそ、早いな。もう制服に着替えてるし」
「はい。今日はなずなと一緒に登校しようと思って、早めに準備を済ませておいたんです。……どうですか? 似合ってますか? 久しぶりの制服」
緑姉さんは軽く笑って、その場でクルンと回る。……すると、スカートがヒラヒラと舞って、薄い緑色のパンツが見えてしまう。
「…………」
「……あれ? どうかしましたか? なずな。……もしかして、似合ってないですか?」
「あー、いや。似合ってるよ。相変わらず緑姉さんは、凄く可愛い。……ちょっと、ドキッとするくらい」
「やった。なずなに褒めて貰えました。……ふふっ」
幸福を噛み締めるように笑う緑姉さん。……いつより少しテンションが高い気がするが、パッと見では異常は見受けられない。
「ところで、なずな。大丈夫ですか? 昨日はあの『姉さん』とかいう人に連れて行かれちゃいましたけど、なにか変なこととかされてませんか?」
「ん? ああ、大丈夫。姉さんは……まあちょっと怪しく見えるけど、すごく信用できるヒトだよ。だから、心配しなくても大丈夫」
「……そうですか。なら、いいんですけど……」
緑姉さんはなにかを確かめるように、俺の身体をくまなく見渡す。
「……えい!」
そしてそんな掛け声もともに、どうしてか俺に抱きついた。
「……緑姉さん? どうしたんだよ、いきなり抱きついたりして……」
動揺を悟られないよう、淡々とした声でそう尋ねる。
「いいじゃないですか、抱きつくくらい。……それとももしかして、嫌ですか? 私にこういうことされるの」
「いや、嫌ってわけじゃないけど……。いきなりやられると……びっくりするだろ?」
「そうですか。なら今度から、一声かけてから抱きつくことにします」
「いや、そうじゃなくて……」
緑姉さんは紫恵美姉さんほどじゃないけど、やっぱり女の子だから胸がある。それに涎を垂らしながら抱きついてきた紫恵美姉さんとは違い、緑姉さんは少し……色っぽい。
長い髪。潤んだ瞳。温かな身体。なにかの香水なのか、柑橘系のいい香り。
緑姉さんは、やっぱりとても魅力的な女の子だ。改めてそう、再確認する。
「……じゃなくて。緑姉さん、1回離してくれ。そろそろ俺も学校に行く準備をしたいし、朝ごはんの用意もしないと──」
「なずな。天底災禍と戦う前日に私が言ったこと、覚えてますか?」
緑姉さんは俺の言葉を遮って、真っ直ぐに俺を見る。……俺よりもずっと激しい心臓の鼓動が、ドキドキと伝わってくる。それだけで、緑姉さんがどれだけ真剣なのかが分かる。
「……確か、なにか伝えたいことがあるって言ってたよな?」
だから俺も真剣に、そう答える。
「そうです。……私もなずなに、伝えたいことが……話しておきたいことが、あるんです」
「…………」
俺は黙って先を促す。すると緑姉さんは逡巡するように少しだけ目を瞑り、背中に回した腕に力を込めて……言う。
「今日の放課後、時間ありますか?」
「え?」
想定していなかった言葉に、思わず変な声が溢れる。
「なずなが言ったんじゃないですか。いきなりは、びっくりするって。だから、今日の放課後……時間ありますか? 学校が終わったら、なずなと2人きりで話がしたいんです。……ダメですか?」
「……いや、ダメじゃないよ。分かった。別に予定なんてないし、仮にあったったしても今日は緑姉さんに付き合う。約束するよ」
「やった! ありがとうございます、なずな! なずなはやっぱり、優しいです!」
緑姉さんは見たことがないくらい嬉しそうに笑って、俺の身体から手を離す。
「じゃあ放課後、校門前で待ってますから。早く来てくださいね?」
それだけ言って、緑姉さんはるんるんと鼻歌を歌いながらリビングの方に歩いていく。
「……洗面所。使わなくてもいいのかな」
なんて、どうでもいい言葉が口から溢れる。胸の高鳴りは、しばらく収まりそうになかった。
「……なんか今まで、こんな風に女の子と仲良くなったことなんてなかったから、どうすればいいのか分からないな……」
まあ、どのみち今は白に呪われている子を探すのが先だ。今日の放課後、緑姉さんがなにを伝えてくれたのだとしても、俺の答えは決まっている。今はなにより先に、白い呪いの問題を解決しなければならない。
「また黄葉の時みたいになるのは、嫌だしな……」
「1人でなにぶつぶつ言ってるのよ? あんた」
と。そこで今度は、柊 赤音がいつも通りキリッとした顔で姿を現す。
「いや、別になんでもないよ」
俺は誤魔化すようにそう言って、視線を足元に逃す。
「あっそ。……私、歯磨きしたいからそこどいてもらってもいい?」
「ああ、悪い」
俺が道を開けると、柊 赤音は寝起きとは思えないほどキビキビとした動きで、俺の横を通り過ぎる。
「…………」
だから俺はそのまま、キッチンに向かって歩き出す。……いや、歩き出そうとしたのだけれど、気づけば口を開いていた。
「なぁ。俺さ、お前になにか言わなきゃならないことがあるよな?」
「なによ、急に」
柊 赤音は振り返り、俺を見る。
「なんか……思い出してた筈なんだよ。お前になにか、お礼を言わなきゃならないことがあったなって。お前にはどうしたって返せないほど大きな恩があった筈なのに、どうしてか俺は──」
「ないわよ、そんなの」
強い口調で、柊 赤音は俺の言葉を断ち切る。
「いや、でも俺は確かに──」
「だからそんなの、私は知らないわ。……大方、変な夢でも見たんでしょ? それより……みんなのことで話したいことがあるんだけど、いい?」
「みんなのこと?」
「……うん」
柊 赤音はなにかを誤魔化すように息を吐いて、長い髪を揺らす。
「…………」
「…………」
そしてどうしてかそのまま、しばらく沈黙。柊 赤音はなにかを言おうと口を開くが、すぐに口を閉じてしまう。だからしばらく、鳥の囀りだけが聴こえる静かな沈黙が流れて……柊 赤音は、首を横に振った。
「……やっぱり辞めた。それより、約束覚えてるわよね? あんたがくれた、プレゼントを使いたいって話」
「ああ、覚えてるよ」
俺がそう答えると、柊 赤音は嬉しそうに笑う。
「なら今度の休み、付き合いなさいよ? ……私、楽しみにしてるから」
柊 赤音はそれだけ言って、もう話は終わった言うように鏡の方に視線を向ける。……なんだか誤魔化されているような気がするが、言いたくないなら無理に聞く必要もないだろう。
だから俺は今度こそ、キッチンの方に向かって歩き出す。
「朝ごはん、なににするかな」
そう呟いて、とりあえず思考を切り替える。驚くようなことは沢山あったが、今のところ異常はどこにも見受けられなかった。
……この時の俺は、まだそんな風に勘違いしていた。
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