第87話 おはよう。



「むにゃむにゃ。……あったかい」


 そんな声とともに、柔らかな感触が顔中に押しつけられる。それがなんなのか。今がどんな状況なのか。全く理解できない。


「……ああ、そうか。昨日は姉さんと……」


 ゆっくりと、目が覚めていく。そういえば昨日は姉さんと遅くまで話をして、そのまま姉さんと一緒に眠ったんだった。だからこの顔中に押しつけられた柔らかな感触は、きっと姉さんの……胸なのだろう。


「……姉さんってこんな、胸大きかったっけ?」


 なんてくだらないことを呟きながら、芋虫みたいに身体を動かす。姉さんはまるで抱き枕を抱きしめるように、がっしりと俺の身体を抱きしめている。だからそんな風にしか、身体を動かすことができない。


「…………」


 正直に言って、その感触はとても気持ちいい。いろいろ面倒なことは忘れてずっとこうしていたいと思うくらい、この胸は柔らかい。


「でも、いつまでも寝てるわけにはいかないしな」


 なので名残惜しいけど、そろそろ起きようか。そう考え、柔らかな胸から逃げ出して顔を出す。すると、うにゃうにゃと涎を垂らしながら気持ちよさそうに眠っている、1人の少女の顔が見えた。


「………………あれ?」


 その少女は、どこからどう見ても姉さんではない。……というかそもそも、ここは俺の部屋ではなかった。


「どうして俺、紫恵美姉さんの部屋で寝てるんだ?」


 俺を抱きしめて眠る少女は、姉さんではなく紫恵美姉さんだった。そしてこの部屋は、俺の部屋ではなく紫恵美姉さんの部屋だった。



 ……あれ? どういうことだ?



「…………」


 必死になって、昨日なにがあったかを思い出す。……けれどどれだけ考えても、どれだけ頭を悩ませても、姉さんと話をしていたところまでしか思い出せない。


「紫恵美姉さん。なあ、紫恵美姉さん。事情を説明してくれ」


 だから眠っている紫恵美姉さんに話を聞こうと思い、そう声をかける。


「……うにゃ。…………あ、なずくんだ。おはよう」


「おはよう。紫恵美姉さん。それで寝起きのところ悪いんだけど、今の状況を説明してもらえるか?」


「……一緒に寝たかったから、なずくんを部屋から持ってきた。……うにゃ」


 紫恵美姉さんは涎を垂らしながら、うにゃと俺の胸に顔を埋める。


「寝るな、紫恵美姉さん。状況を説明してくれ。持ってきたってなんだよ。そもそもあの部屋には、姉さんが鍵をかけてた筈だろ?」


「ふふっ。なずくんはボクの魔法がなんなのか、忘れたのかな?」


 紫恵美姉さんは眠たそうな顔のまま、ニヤリと口元を歪める。それで俺は、思い出す。


「……そういえば紫恵美姉さんは、物体の操作が得意だったっけ」


 なら部屋の鍵くらい、簡単に開けられるだろう。


「大正解。流石はなずくんだね」


「褒めて貰えて嬉しいよ。……でもつまり、昨日部屋の前で怒ってたのは、演技だったってことだな?」


「うん。みんなの前ではできないふりをして、みんなが寝静まったあとに密かになずくんを運んだんだ。……ああ、ボクのなずくんゾンビ抱き枕。あったかくて、幸せだなぁ」


 紫恵美姉さんは本当に幸せそうにそう言って、俺の身体をぎゅっと強く抱きしめる。……すると甘いいい香りが漂ってきて、ドクンと心臓が跳ねる。


「……なあ、紫恵美姉さん」


「なに?」


「手を離してくれないか?」


「なんで?」


「……いや、俺は今日から学校に行くつもりだし、そろそろ起きないと遅刻するだろ?」


「大丈夫。まだ5時過ぎだから。あと2時間は、こうやってくっついてられる。あむあむ」


「ちょっ、紫恵美姉さん⁈ 変なとこ舐めるなよ⁈」


 紫恵美姉さんの短い舌が、俺の首筋に触れる。たったそれだけで、背筋にゾクリとした感覚が走る。顔が熱くなる。


「あははっ。なずくん可愛い。可愛いし、美味しい」


「ちょっ、辞めろって!」


「やだねー」


 紫恵美姉さんはペロペロと、俺の首筋を舐める。その感触はくすぐったくて、なにより……。


「……あんまりからかうなよ? 怒るぞ? 紫恵美姉さん」


 できる限り冷たい目で、紫恵美姉さんを睨む。……昨日、姉さんから聞いた言葉を思い出した。



 みんなの中に俺と同じ白い呪いを受けている子がいて、その子と……そういうことをしたら、取り返しがつかないことになるかもしれない。


 

 姉さんは確かに、そんなことを言っていた。……無論、いくらくっついているからと言って、紫恵美姉さんと変なことにはならないだろう。……でも今は一度、紫恵美姉さんから離れるべきだと思った。



 それくらい、今の紫恵美姉さんは……魅力的だった。



「ふふっ。そんな怒ったりして、もしかしてなずくん……興奮した? ボクの舌、気に入った? それともボクの大きいおっぱいが、気になる? 今はブラ、つけてないしね」


「いや、そうじゃなくて──」


「ほれー。うにうに」


 紫恵美姉さんが胸を押しつける。ドキドキと、心臓が跳ねる。


「紫恵美姉さん。俺は本気で言ってるんだ。だから──!」



「──ボクだって本気だよ」



 思わず大きくなってしまった俺の声を、紫恵美姉さんの静かな声が断ち切る。


「ねぇ、なずくん。なずくんこそ、ボクを見てよ。黄葉でも赤音ちゃんでも緑でもなく、ちゃんとボクを見てよ」


 紫恵美姉さんが俺を見る。その瞳は、さっきまでとは色が違う。真っ直ぐで。真剣で。なにより、ただ俺だけを見つめている。



「────」



 さっきまでとは違う響きで、ドクンとまた心臓が跳ねる。


「なずくん。なずくんはさ、黄葉に告白されたんだよね? その時なずくんは、なんて答えたの? 今よりずっと、ドキドキしてた?」


「それは……」


「ボクは……ボクは別に、恋愛なんて知らない。ボクはこの部屋に引きこもってゲームしてるだけで幸せだし、そんなの一生理解できなくてもいいと思ってる」


 紫恵美姉さんの腕に力が込める。また、独白が続く。


「でも……それでもボクは、なずくんが誰かのものになるのは嫌なんだよ。……せっかくできた可愛い弟なんだから、まだまだ誰にも渡したくない。ボクだけの可愛いゾンビでいて欲しいんだよ」


「……だから、1人で俺をこの部屋まで運んだってわけか。……よく姉さんにバレなかったな?」


 力が弱まっていると言っても、姉さんは神だ。そんな姉さんの目を出し抜いたのだから、紫恵美姉さんの想いは余程のものなのだろう。


「ふふっ。ボクは隠密のプロだからね。伊達に、橙華姉さんに隠れてカップラーメンを食べてないよ」


 紫恵美姉さんは、笑う。……笑ってまた、俺の首筋に舌を這わせる。


「──! それはやめてくれ! くすぐったい……!」


「ダメ。絶対に辞めない」


「どうしてだよ?」


「……こうすると、なずくん赤くなって可愛いんだもん」


「でも俺は──」


「色々と我慢できなくなっちゃう? ……別に、いいよ。なずくんになら、なにをされても。なずくんがボクを求めてくれるなら、ボクになにをしても……どんな傷をつけても、怒ったりしないよ?」


 紫恵美姉さんの柔らかな唇が、俺の唇に迫る。それはどう考えても冗談では済まない行為だ。……いや、紫恵美姉さんの目を見れば、冗談でやっていないことくらい分かる。



「…………」



 だから、俺は……。



「ごめん、紫恵美姉さん」


 そう言って、力づくで無理やり紫恵美姉さんの手足を振り解く。


「あ……」


「俺はまだ、紫恵美姉さん気持ちには応えられない。だから……ごめん」


 もう一度そう言って、そのまま部屋から出て行く。……紫恵美姉さんの魔法なら、そんな俺を引き止めることくらい簡単な筈だ。なのに紫恵美姉さんは、俺を……止めなかった。



「仕方ないから、今日はこれで見逃してあげるよ。……驚かせちゃってごめんね? なずくん。……また一緒に、遊ぼうね?」



 最後に背後から、そんな声が聴こえた。


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