第71話 藍と灰。



 闇夜に、藍色の声が響いた。



 ──呼んだか? 大将。



 それはまるで夜空に浮かんだ星のように、暗い夜を眩く染める。俺1人ではどうしようもなかった現実を、藍色の光が照らし出す。



「……あい、な」



 だから俺は、手を伸ばす。



 訊きたいことも言いたいことも、山ほどあった。みんなは無事なのか。天底災禍はどうなったのか。俺とは戦いたくないなんて言ってたのに、どうして手を差し伸べてくれるのか。



 でも今は、その全てを飲み込む。



 この眩い光が止めば、俺はまた闇に飲まれる。そうなればもう今度こそ、逃げられない。



 だから俺は、手を伸ばす。



 ──夜に咲く、藍色の星に向かって。




「藍奈──!」



 瞬間、世界から色が消える。暗い闇が。重い空気が。この世界から消えてなくなる。



 ──いけ、大将。血を流したこともない小娘に、人の強さって奴を教えてやれ。



 そんな声を最後に聞いて、俺は藍色の腕輪をはめた。



 ◇



「……ああ。忘れておった。そういえばまだ、貴様がいたのだったな。消えない藍。枯れない藍奈。持ち主は、貴様の藍は止まらぬか」


 闇の拘束を解かれ、なずなが自分を傷つけうる剣をとっても、神は笑う。目の前の藍色の奔流が、先程までの少女たちとは比べ物にならない眩さでも、神はただ笑う。



 その程度は、些事だと。



「姉さん。最後に1つ、訊きたい」



 藍色の奔流が収まり、また夜が闇に染まり出す。そんな闇の中、瞳を藍色に染めたなずなが口を開く。


「どうして妾がこんなことをするのか、聞きたいのか?」


「……ああ。世界を『夜』に染めて、みんなで静かな眠りにつく。そんなことは、誰も望んでない。なのにどうして姉さんは、こんな真似をするんだ」


「誰も望んでいない、か。……なずなよ。貴様は本当に、そう思っているのか?」


「…………」


 なずなは目を細めて、口を閉じる。


「人々の悍ましさに飽き飽きしているのは、妾だけではない。この狂った世界に嫌気がさしているのは、貴様たちも同じだ。故に妾は神として、この世界を眠らせる。血を流すしか能のない貴様らを、妾の夜で救ってやるのだ」


「……俺はそんなの、望んでないよ」


「貴様が望もうが望むまいが、妾はもう決めた。……故に邪魔をするなら、まずは貴様から……眠らせてやろう」


「できるもんなら、やってみろ……!」


 なずなが、地を蹴る。空間を軋ませるほどの速度で、人間が神へと迫る。


「…………」


 なずなの瞳に、迷いはない。目の前の少女が柊 黄葉だということも忘れて、全力で拳を振るう。


「思い上がりも甚だしいぞ、人間」


 けれどそれは、ただの拳だ。いくら速くても、それはただの人間の拳でしかない。そんなものでは、神は死なない。なずなの力は神である蜘蛛の少女ですら目を見張るものだが、それでも4柱の神の力を宿した少女の敵ではない。



 一際濃い闇が、なずなを覆う。



 先程少女たちを打ち払った闇より何倍も濃い闇が、いとも容易くなずなを飲み込む。



「──それが、どうした!」



「……っ!」


 なずなの拳が、神の腹に直撃する。闇で飲み込み、完全に封じたと思った刹那。神の身体は、月へ向かって吹き飛ぶ。


「……はっ。やるではないか、なずな。それでこそ、妾の花だ!」


 神が月へと手を伸ばす。広がった闇が集まり、空間を歪ませるほど、どす黒く波打つ。


「眠れ」


 それは闇と悪夢の奔流。蜘蛛の悪夢と闇が混じった、漆黒の悪夢。それが音より速く、なずなを襲う。


「…………」


 未だ地に立つなずなには、それを避ける術がない。



 ……終わった。



 神がそう思った瞬間、声を聞いた。



「こんなもんかよ、姉さん」



 神の身体に、衝撃が走る。



「なっ──!」



 なにが起こったのか、神の力を持ってしても理解できない。闇を放ったと思った瞬間、自分の身体が吹き飛んだ。ただ殴られただけなのに、意識が霞む。


「……っ! この程度で……!」


 神がそう叫んだ直後、また身体に衝撃が走る。何度も何度も何度も。衝撃が止まない。殴られたと思った瞬間、別のところを殴られる。殴る度に、加速していく。


「……くはっ!」


 神が地に落ちる。流れる星より速く、神が夜を流れる。



 そしてすぐにまた、天へと飛ばされる。



「……っ!」



 力では、未だに神が上だ。4柱の神の力が合わさった少女の力は、今のなずなと比べても比較にならない。それになずなは、今までまともに喧嘩すらしたことがない。なずなは姉妹たちとは違い戦闘経験どころか、戦闘意識すらできていないただの少年だ。



 故に知識も経験も力も、全て神が上だ。



 なずなが藍色の腕輪を持った現状でも、力の差は10倍以上ある。



「──なのにどうして、手も足も出んのだ! この化け物め──!」



 何度も何度も拳を受け地に落ちた神が、天に立つなずなを睨む。


「…………」


 なずなはなにかを確かめるように自身の手の平を見つめてから、藍色の瞳で神を見下ろす。


「終わりだ、姉さん。この空に広がる闇を消せ。『夜』を終わらせろ。こんなことをしても、意味なんてない」


「……はっ。人間風情が、神に舐めた口を聞くんじゃない……!」


 また闇がなずなを襲う。それは強力だが、単調で分かりやすい攻撃だ。今のなずなの力を持ってすれば、避けることも壊すことも容易い。


「…………」


 だからなずなはこう思う。頭に血が上って、苦し紛れに力を使っているだけだと。



 なずなが、夜を蹴る。



 その速度はもう、人間どころか神すら捉えられない。視界を覆う闇の奔流なんてものともせず、瞬きする間もなく神へと迫る。


「なにやってんだよ、姉さん」


 闇の先に、背を向けて逃げる神の後ろ姿が見えた。その姿はもう、ただの少女でしかない。


「……悪いけど、今さら逃げてももう遅い」


 そんな神の姿を見ても、なずなは手を緩めない。もう一度夜を蹴り速度を上げて、神の背中を押さえつける。


「もう終わりに──」


 そこで違和感を覚えて、言葉を止める。……いや、その直後。神だと思っていた少女が、闇になって溶けて消える。


「随分と器用な真似をするな」


 そう呟き、背後の月に視線を向ける。するとそこには、最初の時と同じように月を背にして立つ、1人の少女の姿があった。


「妾は本来、戦う神ではない。故に貴様のような化け物とやり合うには、少しくらい小狡い真似をせんと話にならん」


「随分と、弱気な言葉だな」


「違う。褒めてやってるんだよ、なずな。……そして同時に、心底から苛立っている。妾は貴様に、血を流させたくはなかった。戦いになる前に、眠らせてやりたかった。だがどうやらそれは、無理のようだ。……貴様は強い。故に誇れ。妾にこれを使わせたことを」


 神がまた、月に手をかざす。すると先程と同じように、辺りの闇が集まる。


「それはもう何度も──」


 なずなはそこで、言葉を止める。



 ……闇の量が、さっきまでとは違う。



 質も量もさっきまでとは比較ならない闇が、神の手の平に集まる。それは神を一方的に殴り続けたなずなが足を止めるほど、強大な力だった。


「なるほど。それが全力ってわけか」


 なずなも身体に力を込める。そして闇が溜まり切る前に決着をつけようと、全力で地面を蹴る。



 ──けれどその刹那、声を聞いた。



「妾の勝ちだ」



 集まって。集まって。集まって。それはもう闇とは言えない別の概念に変質し、その直後──。



 世界に穴が空いた。



 もう耐えられないと言うように、世界に小さな穴が空いた。



「────」



 それは、天底災禍の亀裂とは別次元の異界への穴。夜より暗く、闇より黒い、この世の終わり。



 神はそこに手を差し入れ、一振りの剣を取り出す。



「──!」


 なずなが息を呑む。見ただけで心臓が止まったような威圧感に、目を見開く。


「妾たち3柱を除く神々は、白白夜の呪いに飲まれて殺し合った。何百年も何千年も、狂ったように殺し合い神は滅んだ。……いや、最後の1柱を残して、神は滅んだ」


 神が剣をなずなに向ける。それだけで、なずなの歯が震える。


「怖かろう。……妾だって怖い。この剣は悠久の時を殺し合い最後に残った、天下無双の神の剣。白白夜の呪いすら打ち払った、闇を統べる鷹の剣だ」


 神の蠱毒が作った、最強の剣。白白夜の死神すら手が出せない、闇を統べる優しい少女の絶望。この世にいたあらゆる神を殺し尽くした、天を斬る最強の剣。



 絶望を握り、少女は言う。



「できればこの剣は、使いたくはなかった。これを使えば、妾の『夜』とて斬れてしまう。見たくもない血を、流してしまう」


「……心配しなくても、俺はその程度じゃ斬れねーよ」


「はっ。剣を待つ妾ですら震えるというのに、よく吠える奴だ。ならば見せてやる。天下無双の神の一撃を──!」


 神が剣を構える。なずなが腕輪に手を伸ばす。



 そうして戦いは、最終局面を迎える。


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