第70話 声を聞いた。
ふと、目を覚ました。
「……っ」
長いあいだ悪夢を見ていたせいか、意識がはっきりしない。まるで亀裂でも入ったように、脳の奥がズキリと痛む。
「……いや。なんだ、これ……?」
立ち上がり、耳を澄ます。
「…………」
どうしてか、何の音も聴こえない。自分の心臓がどくどくと脈打つだけで、他の音は少しも聴こえない。
「まだ夢の途中なのか?」
そう錯覚してしまうくらい、今この瞬間に現実感がない。まるで世界の全てが海の底に沈んだような、そんな現実感のない静寂が耳に痛い。
「いや違う。そんなことはどうでもいい。それより、みんなは……!」
寝ぼけた頭が、ようやく覚める。俺が眠っている間、みんなは必死に戦ってくれていた筈だ。悪夢でぼやけた頭が、ようやくそのことを思い出す。
「こんな所で、呆けてる場合じゃない!」
慌てて部屋を出る。俺がこうして目を覚ましたということは、戦いが終わったということだ。つまりみんなはもう家に帰っていて、黄葉もちゃんと帰ってきている筈だ。
「どうして誰も、居ないんだよ……」
けれど家には、誰の姿もない。そもそも家に誰かいるなら、こんな痛いくらいの静けさなんて壊れている筈だ。
なら、みんなは……。
「くそっ!」
嫌な想像を振り払うようにそう吐き捨て、玄関に向かって走る。
みんなが負けたなんて、そんなことあり得ない。黄葉が戻ってこないなんて、そんなことあっていいわけがない。
震える手で玄関の扉を開けて、家を出る。すると、そこには……。
冷たい闇が、広がっていた。
「なんだよ、これ……」
街が闇に、飲み込まれている。夜より深い闇が絡みつくように、肌に張り付く。
前に一度、青波さんに連れられて『夜』を案内してもらった。だから俺も、『夜』というのがどいうものなのかある程度理解しているつもりだ。
でも今目の前に広がる光景は、その時の『夜』とはまるで違う。
月が黒い。空気が痛い。闇が絡みついて、歩くのも億劫だ。こんな地獄、俺は知らない。こんな闇、俺は──。
「……! あれは……!」
そこでふと、気がつく。真っ暗な月を背にして立つ、1人の少女の姿に。
「黄葉、なのか……?」
距離が離れているから、確証は持てない。けれど夜空に浮かぶあの黄色の髪は、俺の知ってる黄葉と同じ色だ。
「行けば分かるか」
そのまま、少女に向かって走り出す。……いや、走り出そうとして、すぐに足を止める。
「……くそっ」
少女は空に立っている。でも俺はみんなみたいに、空を飛ぶことなんてできない。だから俺がどれだけ走っても、決して彼女には届かない。
「黄葉! おい、黄葉! 聞こえてるだろう! なあ、黄葉!」
今が深夜だということも忘れて、そう叫ぶ。……けれど少女は、こちらを見ない。蟻の声が決して人には届かないように、どれだけ叫んでも俺の声は彼女に届かない。
「なら……」
まずは先にみんなと合流しよう。『夜』がこんなことになっているのだから、きっとみんなまだ戦っている筈だ。そう決めて、当てもなく走り出す。嫌な予感を蹴り飛ばして、闇の中を突き進む。
けれど……ああ。声が、響いた。
「──ようやく目を覚ましたのか、なずな」
「────」
その声に、息を飲む。気がつけば目の前に、黄葉がいる。ついさっきまで空に立っていた筈の少女が、気づけばすぐそこに立っていた。
「黄葉……なのか? いや、違う。……誰だ? お前は……」
聞き覚えのある声を否定するように、目の前の少女を睨む。
「やはり、人間とは薄情な生き物だ。あれだけ一緒にいたのに、もう妾のことを忘れたのか? ……いや、それともなずな。まさか貴様、誰かがこの小娘に化けて自分を騙そうとしているとか、そんなことを思っているのか?」
「……っ」
図星を言い当てられて、一歩後ずさる。
「なずな。妾の声が分からんとは、言わんよな?」
灰色に霞んだ眼光が、俺を射抜く。その聞き覚えのある声が、俺の胸を揺する。……頭が、痛い。
「……姉さんがどうして、黄葉の姿をしている?」
「はっ。どうして、だと? それが分からん貴様ではないだろう。……あの当時のことを忘れた貴様でも、この状況を見てとぼけるほど馬鹿ではない筈だ」
「──っ」
頭が痛い。頭が痛い。頭が痛い。頭が痛い。頭が痛い。
頭が、痛い……!
『なずな。この子が今日から、お前の姉だ』
「うるさい……!」
嫌な言葉が、頭を駆ける。知らない記憶が、脳を揺する。
どうして俺の髪と瞳が、灰色なのか。どうして俺の悪夢は、蜘蛛の形をしているのか。なんの為に俺は産まれて、なずなとはいったい誰に捧げられる為の花なのか。
そして。
どうして黄葉はここにいて、どうして俺はここにいるのか。
その全てに、思い至る。……至って、しまう。
「なずな。この娘は、お前の代わりだ。お前が妾を拒んだから、この娘は──」
「……黄葉の心は無事なのか?」
言葉を遮って、神を睨む。
「無事なわけなかろう。この娘たち……柊の人間は、長年神の力を使ってきた一族だから外側は頑丈だ。残滓とは言え3……いや、4柱の神の力に耐えるなど、妾が創った依代ですら不可能なことだ。……しかし、中はそうはいくまい。高々十数年の積み重ねが、神の重さに耐えられるわけがなかろう」
「なら、黄葉は……」
「死んだ。この娘の心は、妾の悪夢の中で粉々に砕け散った」
「嘘だ」
「嘘なものか。妾は──」
「黙れ。黙れ! 黙れ……!」
目の前の神に、殴りかかる。その肉体が黄葉のものだということも忘れて、拳を振り上げる。
「なにを熱くなっておる、馬鹿者が」
一際濃い闇が、俺と神の間に広がる。
「知ったことか……!」
闇など知らない。そんなことで、拳を止めない。俺は構わず闇を殴る。するとそれは簡単に消えて、拳はそのまま神へと向かう。
「……!」
神が驚きに目を見開いたのは、ほんの一瞬。俺の拳は空を切り、視認すらできない速度で移動した神が、俺の腕を掴む。
「嫌な夜が、混じっているな。あの子娘と同じ夜が、妾のなずなを冒している。……苛立たしい」
「知ったことか! 黄葉を返せ……! みんなを──」
「少し黙れ」
「──か、はっ」
遠くの建物にぶつかった後、自分が殴られたのだと気がつく。死んだと思った。……いや、死んでいなければおかしい。それほどの衝撃が、身体中に走った。
なのに俺には、傷1つついていない。
「そう騒ぐな、なずなよ」
神がゆっくりと、こちらに向かって歩いてくる。
血が、沸騰する。みんなの姿が見えないのは、もうみんな……死んでいるからなんだ。そんな馬鹿なことを考えてしまって、視界が赤く染まる。
「もうすぐしたら、妾の夜が世界を覆う。そうなれば、またあの小娘とも会える。誰も傷つかない暖かな世界で、妾がお前を抱きしめてやる」
「──っ」
立ち上がった瞬間、冷たい闇が俺を拘束する。いくら動こうとしても、指先1つ動かない。
「……しかし、なずなよ。貴様は妾を裏切った。故に貴様には、一足先に暖かな夜をくれてやる。……世界が眠りにつく前に、お前はもう一度静かに眠れ」
「────」
どれだけ足掻いても、この神には勝てない。たった一度殴られただけで、それが分かった。
勝てない。抗えない。戦えない。
もう俺は、声を出すことすらできない。そもそも戦う力のない俺に、剣すら持たない俺に、神をどうこうすることなんてできる筈がなかった。
「おやすみ、なずな」
黄葉の白い指が、俺に向かって伸びる。なにもできない俺は、それを無様に受け入れる。もうそれしか、できない。
だから、俺は──。
──呼んだか? 大将。
そこでふと、藍色の声を聞いた。
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