第61話 そうして。



「なずな。少し話があるんですけど、いいですか?」


 卵の焼ける音と耳障りな雨音が響くキッチン。そこに唐突にやって来た緑姉さんは、そう言って潤んだ瞳で俺を見る。


「そりゃ話くらい別に構わないけど、朝ごはん食べてからじゃダメか?」


「ダメです。だって朝ごはん食べた後は、紫恵美姉さんや橙華姉さんがなずなの所に行く筈です。だから今じゃないと、ダメなんです」


「……分かった」


 そこまで言われると、断れない。だから俺はフライパンの火を止めて、緑姉さんの方に視線を向ける。


「なずな。さっき紫恵美姉さんや橙華姉さんと、話してましたよね? ……あれって、なんの話をしてたんですか?」


「いや、なんの話って言われても……。2人がちょっと言い合いしてたみたいだから、その仲裁に入っただけだよ」


「……ほんと、ですよね?」


「ほんとだよ。なんでこんなことで、嘘つくんだよ」


「そう、ですよね……」


 緑姉さんは俺の視線から逃げるように、足元に視線を向ける。


「…………」


 ……こんなことが、緑姉さんが訊きたかったことなのだろうか? そう思い、首を傾げる。すると緑姉さんは絞り出すように、言葉を続ける。


「……ごめんなさい、急に変なことを訊いて。でも私、最近変なんです」


 緑姉さんは手をぎゅっと握りしめ、顔を上げる。ザーザーとうるさい雨が、窓を叩く。


「今までは、1人で寝るのなんて当たり前でした。朝目を覚ましたら隣に誰もいないのなんて、当然のことでした。……なのに今は、それが凄く……寂しいんです」


 緑姉さんの瞳が、涙で滲む。俺はなにも、言えない。


「分かってはいるんです。今はそんなこと、言ってる場合じゃないって。……特に橙華姉さんは黄葉姉さんのこともあるから、なずなが側にいてあげないとダメだって、分かっては……いるんです。でも……」


 緑姉さんの翡翠色の瞳から、涙が溢れる。そして緑姉さんは、言う。


「雨がうるさくて。いつまで経っても、止まなくて。黄葉姉さんのことを夢で見て。なにかしなければって思うけど、なにをすればいいのか分からない。なにもできず、ただ痛みに耐え続けることしかできない。そんな生活が……凄く、辛い。だからどうしても、なずなの側に……いたいんです!」


 その言葉から、緑姉さんの痛みが伝わってくる。彼女が俺になにを望んでいるのか、その願いが俺の心を揺らす。


「緑姉さん。俺は……」


 でもそこで、口が動かなくなってしまう。なにを言えばいいのか、分からない。先程の藍奈の言葉が喉に引っかかって、上手く言葉を発せない。



『お前さ、優しくすることだけが心に寄り添うことだと思ってねーか?』



 確かにその言葉は、正しいのだろう。俺が形だけの優しさを振り撒いてきたから、緑姉さんはこんなにも揺れている。……でもじゃあ俺は、どうすればいい? 優しくするだけじゃダメなら、俺は緑姉さんになにをしてあげればいいんだ?



「なずくん、顔洗ってきたよー。だから朝ごはん……って、緑。ボクのなずくんと、なにやってるの?」



 トテトテとやって来た紫恵美姉さんが、訝しむように俺と緑姉さんの顔を覗き込む。


「……なんでもないです。……なずな、今の話は忘れてください。私は……大丈夫ですから」


 緑姉さんは早足でこの場から、立ち去ろうとする。だから俺は慌てて、その背を引き止める。


「いや待って、緑姉さん。その……今から朝ごはんだから、テーブル拭いてもらっても構わないか?」


「……分かりました。じゃあ紫恵美姉さんは、飲み物の準備をお願いします。なずなが頑張って朝ごはん作ってくれたんですから、それくらいしてくれますよね?」


「あ、ちょっ。引っ張らないでよ、緑」


 緑姉さんは強引に紫恵美姉さんの腕を引っ張って、テーブルの方に向かう。俺はそんな2人の姿を尻目に、目玉焼きとトーストを皿に載せる。


「なにやってんだよ、ほんと」


 上手くやれていると、そう思っていた。みんなと仲良くなれていると、そう信じていた。けれど俺は結局……いや、違う。そうじゃない。



「こんなことで躓いてちゃ、ダメだ」



 どんな手段を使ってでも、黄葉を助けると決めた。もう絶対に誰も失いたくないと、願った。そして今の俺のやり方では限界があると、分かった。



 だからこそここで、止まるわけにはいかない。



「いただきます」


 みんなで手を合わせて、食事を始める。俺は目玉焼きとハムとチーズをトーストで挟んで、かぶりつく。


「美味っ」


 それはやっぱり美味しい。嫌なことを忘れてしまうくらいの幸福が、口の中で広がる。


「…………」


「…………」


「…………」


 けれどみんな、会話もせず淡々と食事を口に運ぶ。


「あ、なずな。そこの醤油とって」


「これか?」


「……ん。ありがと」


 唯一、柊 赤音だけは普段とあまり変わらない。けれど他の3人は露骨に元気がなく、今にも壊れてしまいそうだ。せっかく神の弱点を知って勝てる見込みができたのに、このままではダメだ。



 だから俺は、言った。



「みんなはさ、黄葉が帰ってきたらなにかやりたいこととかあるか?」



 俺のその唐突な言葉を聞いて、みんなの視線が俺に集まる。


「俺はさ、一緒にアニメ観たいなって思ってるんだよ。……一緒に観るって約束してたし、なによりあいつと一緒に観るならどんな内容でも楽しめそうだからな」


 そう言って、軽く笑う。……すると俺の思惑に気づいてか、それともただ話に乗ってくれただけなのか。どちらかは分からない。けれど俺と同じように笑って、柊 赤音が口を開く。


「楽しそうね、それ。私も混ぜてよ。……いや、どうせならリビングの大きいテレビで、上映会とかする方が楽しそうじゃない? お菓子とかジュースを、いっぱい用意してさ」


「……じゃあ、あたしがなにか作るよ。最近はなずなくんも料理上手になってきたけど、お菓子はまだまだあたしの方が上だからね」


 橙華さんはこちらを見て、勝ち誇るように笑う。


「ならボクも。……ううん。どうせならみんなで一緒に、ゲームもしようよ。ボクさ、昔みたいにみんなで一緒にゲームしたい。黄葉を助けた後なら、橙華姉さんだって文句はないでしょ?」


「……うん。その……さっきは、ごめんね? あたしちょっと苛々してて、しえちゃんに八つ当たりしちゃった」


「ううん。ボクもその……言い過ぎたよ」


 橙華さんと紫恵美姉さんは、視線を逸らしたまま軽く頭を下げる。俺はそんな2人の様子に安堵しながら、緑姉さんに視線を向ける。


「もちろん緑姉さんも、付き合ってくれるよな?」


「…………」


 緑姉さんはトーストを皿に置いて、逡巡するように目を瞑る。そして耳障りな雨音がしばらく響いた後、ゆっくりとその言葉を口にした。


「分かりました。私も、みんなとアニメ観たいです。……でも、なずな。天底災禍を倒して、黄葉姉さんを助けた後。なずなに、伝えたいことがあるんです。いいですよね? なずな」


 一瞬、空気が凍ったような沈黙が辺りに広がる。けれど俺は間を開けず真っ直ぐに、言葉を返す。


「ああ、分かった。どんな想いでも、ちゃんと受け止める。だから、緑姉さん。……いや、みんな。絶対に黄葉を、連れ戻そうな?」


 俺のその言葉に、みんな頷きを返してくれる。……とりあえずこれで、大丈夫な筈だ。


「…………」


 俺のこのやり方は、卑怯だ。自分で言っていて、そう思う。俺はただ黄葉のことを持ち出して、今ある問題を先送りにしただけだ。


 橙華さんと紫恵美姉さんが、揉めていた理由。緑姉さんがどうして、泣いていたのか。それらの問題は、全て解決していない。でも今はとりあえず幸せなことだけ考えて、嫌なことは忘れよう。



 俺はそうやって、誤魔化した。



 優しくするだけが、心に寄り添うことではない。でもじゃあどうすれば、人の心に寄り添えるのだろう? その答えを、俺は知らない。だから今はそれを、先送りにした。ぐだぐだ悩んで答えを出す時間なんて、今の俺にはないのだから。


「なずな」


 そして、楽しい食事を終えた後。みんなから隠れるように、柊 赤音が俺の名を呼ぶ。そして彼女は、言った。


「1人で背負い込まなくて、いいんだからね? あんたが私たちの力になりたいと思ってくれているように、私たちもあんたの力になりたいと思ってるんだから」


「……ありがとう、赤音ちゃん」


 そうして今日は、とても楽しい1日を送ることができた。……それがたとえ仮初でも、楽しいと思ったことに嘘はない。



 残りあと、2日。できることは全てやっておこうと、改めてそう思った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る