第60話 残りあと……。



 夢を、見ていた。



 暗い闇に覆われた、朧げな世界。そこにポツンと座る、1人の少女。膝を抱えて縮こまり、遠くに広がる光を見つめ続ける俺が今最も会いたい女の子。



 ──黄葉!



 そう叫ぶが、その声は音にならない。今の俺は闇の中をたゆたう、ただの陰でしかないのだから。



「師匠は、凄く優しいよな。狡いくらい……優しい」



 遠い光を見つめたまま、黄葉が口を開く。


「師匠はまだわたしたちと出会って、2ヶ月くらいしか経ってない。なのに師匠は、わたしたちに優しくしてくれる。わたしたちのせいで辛い目に遭って、わたしたちのせいで傷ついてるのに、師匠はわたしを助けようとしてくれる。……どうして?」


 その問いに、俺は言葉を返せない。


「師匠はさ、紫恵美ねぇにも橙華ねぇにも緑にも赤音ちゃんにも、優しい。……それってやっぱり、狡くないか? 師匠はみんなが好きだから、みんなに優しくするのか? それとも師匠はただ嫌われるのが怖いから、優しくしてるだけなのか?」


 ……違う、そうじゃない。そう声にしようとするが、やはりそれは音にならない。


「知ってる、違うよな。師匠はちゃんとわたしたちのことを好いてくれてるし、だからこそ嫌われたくないと思ってる。それは確かだ。でもそれは単なる言い訳で、師匠がみんなに優しくするのは、ただ──」


 そこで言葉が、途切れる。俺すら自覚していなかった俺の本心。1番聞きたかった筈のそれは、どうしてか俺には届かない。


「師匠はさ、あの子を裏切ってわたしを助けたあと、どうするつもりなんだ? わたしが師匠を好きだって言ったら。みんなが師匠を好きだって言ったら。みんなが師匠を欲しがったら。師匠は誰を選ぶの?」


 こんな出来損ないの心で、果たして人を愛することができるのか?


「ここまでコケにされて、ここまで心を抉られて、それでも師匠は怒らない。だって明けない冬は、消えてないから。あれは師匠の心の奥底に、今もまだ眠っている。結局師匠は、ただの──」


 そこでまた、言葉が途切れる。……いや、違う。



「……嫌な夢」


 そこでようやく、目を覚ます。朝だというのに辺りは薄暗く、叫び声のような雨音が耳朶を打つ。


「あんな夢を見たのも、この雨のせいか」


『夜』から溶け出した、人の心を憂鬱にする雨。きっと今日は街中で、俺のように嫌な朝を迎えている人がいるのだろう。


「それとも久しぶりに1人で寝たのが、ダメだったのかな」


 身体を起こし、伸びをする。夢見は悪かったが、よく眠れたのか身体は軽い。


「残りあと、3日か」


 柊 赤音とあの山を登ってから、もう2日が経った。その間、神の弱点の話をみんなにして、それを上手く活用する為の作戦を立てた。直接、神と戦ったであろう青波さんは未だに眠ったままだから、藍奈に無理やり話を聞いてある程度の見透しは立った。


「こうしてみると、1週間って長いよな」


 服を着替えて、洗面所に向かう。まだ時間は早いから、リビングには電気がついておらず誰の姿もない。


 もう既に、できることは大方やってしまった。なのにまだ、3日も時間がある。こんな耳障りな雨音を聴きながら、心を不安定にしないようにと気をつけ、黄葉がいない痛みに耐える。



 そんな生活をあと3日も、耐えなければならない。



「真白さんが近くにいてくれたら、その辺の融通も効くんだろうけどな」


 ……それとも或いは、この時間にもなにか意味があるのかもしれない。確か誰かが前に、言っていた。真白さんの行動には、全て意味があると。


「どっちにしろ、今できることは朝ご飯を作ることくらいなんだけどな」


 顔を洗って、キッチンに立つ。そして今日はパンにするか、なんて考えていたところで、ふと声が響いた。


「しえちゃん! 話があるって言ってるのに、どうしてゲームばかりしてるの!」


「……うるさいな。ボクがなにしようと、ボクの勝手だろ!」


 どう考えても、喧嘩しているような声。そんな声が、みんなの部屋の方から聴こえてくる。


「……なにやってんだよ」


 そう小さく呟き、急いで声の方へと向かう。


「そもそも、しえちゃん。黄葉ちゃんのこともあるんだから、そんなゲームばっかりしてちゃダメでしょ? そんなことも、分からないの?」


「なんだよ、うるさいな。ボクはこうしてないと、落ち着かないんだよ。……いつもの橙華姉さんならそんなことで怒ったりしないのに、おかしいよ」


 紫恵美姉さんの部屋の前で、紫恵美姉さんと橙華さんが言い合いをしている。こうやって姉妹のみんなが喧嘩することは珍しく……はないが、でも今日のはちょっと雰囲気が違う。


 だから俺は軽く息を吐いて、声をかける。


「こんな朝早くからなにやってんだよ、2人とも」


「あ、なずくん! いい所に来た。聞いてよ、なずくん。なんか橙華姉さんが変なんだよ。急にボクの部屋に来たと思ったら、ゲームなんかするなーって怒るんだ。最近の橙華姉さんはちょっと変だと思ってたけど、今日は絶対におかしいよ!」


「違うよ、なずなくん。あたしは……変じゃない。変なのはしえちゃんの方だよ。今は大変な時だって分かってる筈なのに、しえちゃんは朝から晩までゲームばっかり。そんなの絶対に、おかしいよ。なずなくんも、そう思うでしょ?」


 2人は真っ直ぐに、俺を見る。



『師匠は一体、誰を選ぶの?」



 ふと、今朝の夢を思い出す。……頭が、ズキリと痛む。


「……いや、違う。そうじゃない。2人とも、とりあえず落ち着いて」


「ボクは初めから、落ち着いてるよ。橙華姉さんがつまらないことで、怒ってるだけで」


「あたしは悪くないもん。おかしいのは、しえちゃんの方だよ」


 そうしてまた2人は、言い合いを始めてしまう。……普段の2人なら、こんなことで喧嘩したりはしない。だからやっぱり今の状況が、2人の心を不安定にしているのだろう。


「落ち着けって、2人とも。この雨のこと、覚えてるだろ? 橙華さん前に言ってた、『夜』から溶け出した雨。これは、見ているだけで心が暗くなる魔法みたいなものなんだろ? だから2人ともそのせいで、少しイライラしてるだけだ。だからまずは、落ち着いて」


 2人は俺のその言葉を聞いて、バツが悪そうに互いの顔を見つめる。……どうやら少しは、落ち着いてくれたようだ。


「話があるなら後で俺が聞くから、今はさっさと着替えて顔でも洗っておけよ。その間に、朝ごはん作っておくからさ」


 できる限り優しく、笑う。


「……なずくんがそういうなら、分かったよ」


「……うん。なずなくんが言うなら、今はそうする」


 橙華さんはそのまま、自室のほうへと戻って行く。紫恵美姉さんも部屋の扉を閉めて、部屋に引っ込む。


 だから俺もキッチンの方に戻ろうかと思ったところで、頭の中に声が響いた。



 ──馬鹿だなぁ、お前は。そんなんじゃ、2人の溝を広げてるだけだってのに。



「……いきなり頭の中に声を響かせるなよ、藍奈」


 頭を軽く押さえてそう言葉を返すが、藍奈は気にした風もなく言葉を続ける。


 ──このオレがわざわざお前に、『おはよう、なずな。いい朝だね』なんて声をかける思うか? つまんねーこと言ってないで、オレの話を聞け。


「なんだよ、話って」


 ──このままじゃダメだって、話だ。お前はオレの言葉を聞いた翌日に、神の弱点を見つけて来た怪物みたいな奴だ。けどな、オレ言ったろ? もっと、イカれた方法じゃないとダメだって。


「それは……」


 ──でもまあ、んなことはどうでもいい。お前の言っていた弱点が本当なら真正面から直接、奴らを倒すことができるかもしれないからな。


「……なら言うなよ。ちょっと、反省しちまったじゃねーか」


 そう答えて、そのままキッチンに向かい冷蔵庫から卵を取り出す。


 ──オレが言いたいのは、あいつらの話だよ。……お前さ、青波の奴に頼まれたんだろ? あいつらの心に、寄り添ってやれって。


「ああ。そうだよ」


 ──だったらもっと、ちゃんとしろよ。


「分かったような口を聞くなよ。俺は──」


 ──お前さ、優しくすることだけが心に寄り添うことだと思ってねーか?


「それ、は……」


 図星を突かれたように、俺はなにも言えなくなる。


 ──あいつらは一度痛い目をみてるから、大事な時に戦えないなんて言うことはないだろう。でもさっきみたいな小さなわだかまりは、ピンチの時ほど思い出したりするんだよ。そしてそんななつまんねーことで、人は死ぬ。オレはそんな奴を、何人も見て来た。


「…………」


 油を引いたフライパンに、卵を落とす。……けれど黄身が、割れてしまった。


 ──ま、泣いても笑っても、あと3日だ。あの性悪女は約束は違えないが、肝心なことは口にしない。だから精々、頑張れよ。お前と一緒に戦うのはごめんだが、青波が目を覚ましたらオレも力を貸してやるからよ。


 そんな言葉を最後に、声が聞こえなくなる。


「ほんとあいつは、言いたいことしか言わないな」


 でもきっと、あいつの言葉は正しい。


「……ターンオーバーにして、サンドイッチにするか」


 割れた目玉焼きをひっくり返して、両面焼きにする。これをハムとチーズと一緒に食パンで挟むと、凄く美味しい。少し前に橙華さんが作ってくれて、俺は感動した。


 そう。失敗しても、やり直せる。その後の行動次第で、より良い結果を生むことだってできるんだ。


「…………」


 ……けれど無論、取り返しのつかないこともこの世にはある。




「なずな。少し話があるんですけど、いいですか?」



 いつの間にかやって来ていた緑姉さんが、思い詰めたような顔でそう言った。



 そうして事態は、前に進む。


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