第43話 行くよ。



 ひいらぎ 橙華とうかは、知らなかった。



「…………」


 月が徐々に、陰っていく。辺りがゆっくりと、闇に覆われていく。それは、『夜』が始まる合図。悲しみと苦しみに彩られた悪夢たちが、夜の闇から滲み出す。



 ……けれど今日は、いつもと様子が違う。



 多い時は、100を超えるほどの悪夢が姿を現す『夜』。なのに今日は、どこにもその姿が見えない。辺りには耳が痛いくらいの静寂が広がり、そして──。



 そして空に、亀裂が入った。



「……来た」


 天底災禍。夜を染め上げる黒より暗い闇。その闇が、空に入った亀裂から濁流のように溢れ出す。


「……っ」


 少女たちの身体に、力が入る。闇の流れが明らかに昨日より激しく、放っておけば数分もせず『夜』は闇に飲まれてしまうだろう。


 ……けれど少女たちが動く前に、それは姿を現した。


「────」


 見上げる空を覆い尽くすほどの巨体。歩くだけで家どころか街そのものを踏み潰すような、巨大な蜘蛛の悪夢。それが暗い夜空から、ゆっくりと滲み出る。


「いけっ!」


 だから橙華はそんな蜘蛛に両手を向けて、催眠をかけようとする。……が、やはりそれは通じない。蜘蛛の悪夢は以前よりずっと大きく、もう視界に収めることすら叶わない。そんな大きさの悪夢には、橙華の催眠は全くと言っていいほど通じない。


「なら……!」


 だから橙華は事前の作戦通り、今も眠り続けるなずなの方に両手を向け、魔法を発動する。


 黄葉のことを、思い出すように。誰より明るく無邪気なあの少女が、今もそばにいるかのように。そしてそんな彼女が闇に飲まれて消える光景を、何度も何度もなずなの頭の中に再現する。


「……ごめん、なずなくん」


 すると蜘蛛の悪夢は、もう耐えられないというように叫びを上げ、そして──。



「────」



 どうしてか、粉々に砕け散った。



「……うそ」


 蜘蛛の残骸が、街に降り注ぐ。夜を踏み潰すような巨体が、あっさり砕けて夜の街に落ちる。


「なにやってんだよ、橙華姉さん! だからボクは、反対だって言ったんだ!」


「そうです! 悪いですけどこれ以上、橙華姉さんには付き合えません!」


 紫恵美と緑はそう言って、そのまま天底災禍の方へと駆け出す。……けれどその途中で、気がつく。


「な、なんだよ、あれ……」


 紫恵美はそう呟き、足を止める。粉々になって街に落ちた、蜘蛛の残骸。しかしよく見るとそれは、小さな小さな蜘蛛の塊だった。



 黒と黒。闇と闇とのぶつかり合い。夜を染め上げる天底災禍を飲み込もうとする、数え切れないほどの蜘蛛の大群。



 自由に夜を駆ける魔法少女の姉妹たちですら、迂闊に動くと飲み込まれる。それほどそれは強力で、なにより際限がない。


「こんなのもう、どうしようもないじゃない」


 赤音のその言葉に、みななにも言えない。姉妹たちは蜘蛛と天底災禍の飲み込み合いを、少し離れた上空から唖然と見下ろす。それ以外に、なにもできない。……いや、なにもしなくても、このままだといずれ蜘蛛の波が天底災禍を飲み込むだろう。



 それ程までに、なずなの悪夢は強力だった。



「……いや、このままじゃダメだ」


 けれど橙華は小さく呟き、意識を集中させる。


 橙華は……いや、姉妹たちは全員、知っていた。天底災禍を破壊するには、ただ闇の流れをせき止めているだけではダメだと。


 この闇も、天底災禍の一部ではある。けれどこの闇は比喩でなく本当に、際限がない。だからその闇……天底災禍の核とも言える場所。それを破壊しなければ、天底災禍は終わらない。




 そしてそれは、空に入った亀裂の先にある。



 ……けれど、その亀裂の周りには一際強い闇が渦巻いていて、更にその周囲には街を覆うほどの大量の蜘蛛がいる。赤音や青波の魔法でその周囲を消し飛ばすことはできるが、溢れ出す闇を掻い潜りながら核を破壊するのは、今の少女たちの力ではどう考えても不可能だった。



 ……でもだからこそ、橙華がいる。



「ありがとう、なずなくん。君はやっぱり、凄いよ」


 そしてまた、橙華が魔法を発動する。橙華の魔法は、催眠だ。悪夢を操り悪夢を破壊する、異色の魔法。



 そして今、蜘蛛は橙華でも操れるくらい小さくなった。



「いけ! あの空の亀裂から、天底災禍の核を破壊しろ!」


 その声を聞いた瞬間、ただ苛立ちをぶつけるように広がり続けていた蜘蛛の悪夢が、1つ意思を持ち亀裂に向かう。


「紫恵美姉さん、それに緑。2人は橙華姉さんを守ってて。私はあの蜘蛛を、援護をする!」


 赤音はそう言って、空を駆ける。そして蜘蛛を飲み込まんと溢れ出す天底災禍をせき止め、亀裂への道を綺麗に燃やし尽くす。


「ありがとう! 赤音ちゃん!」


 赤音が作り出した、一瞬の隙。それは本当に一瞬でしかなかったが、橙華はその一瞬を逃さず、蜘蛛の大群を一気に空の亀裂へと押し込む。



 するとその瞬間、空が震えた。



 まるで『夜』そのものが悲鳴を上げるように、空と地面が揺れる。それはまるで世界の終わりのような光景だったが、少女たちは手を緩めない。



 だから大量の蜘蛛が空に亀裂へと押入り、そして──。










 そしてその全てが、まるで夢のように消え去った。



「……え?」


 なにが起きたのか、誰もそれを理解できない。真白から聞いていた話では、亀裂の内部は外側とは比べ物にならないくらい、闇の流れが激しいらしい。


 ……けどだからって、あの蜘蛛の大群がそう簡単に消えるとは思えない。

 

「……っ。どうして」


 蜘蛛の悪夢と繋がっている橙華には、その異常がはっきりと伝わっくる。



 あの亀裂の中に、なにかいる。



 天底災禍に勝るとも劣らないなにかが、天底災禍の核を守っている。


「…………」


 だから橙華は、考える。別に今日、天底災禍を破壊する必要はない。なずなの力があれば、天底災禍の流れをせき止められると分かった。それに亀裂の中に異常があるということも、知ることができた。



 なら今日はそれで、充分だ。



 これから作戦を練って時間をかけて戦えば、いずれどうにかできる筈だ。


「……ダメだ」


 ……そう思えるほど、橙華も薄情ではなかった。


「今夜で、終わらせるんだ!」


 なずなは今も、悪夢を見続けている。彼は今も、黄葉の死を苦しみ続けている。自分たちが今日勝たなければ、彼は明日も明後日も苦しみ続けることになる。自分たちが……柊 橙華が不甲斐ないせいで、また誰かが傷つくことになる。



 橙華はそれが、絶対に嫌だった。



「……くそっ! なんで……!」



 ……けれどどれだけ蜘蛛を押し込んでも、それはたちまち消えてしまう。そして天底災禍はまるで意思があるかのように、橙華に狙いを定める。



 だから橙華には……いや、少女たちにはもう、打つ手がなかった。






 たった1人の少女を除いて。



 少女……柊 青波。彼女は橙華たちの戦いを無視して、『夜』が始まった時からずっと準備を進めていた。


「…………」


 まるで目の前の光景を拒絶するかのように目を瞑り、古びた懐中時計の音をただ聞き続ける。



 かち。かち。かち。



 青波の耳に当てられた懐中時計から、そんな音が何度も何度も響く。青波はその音に合わせて、小さくなにかを呟く。



 そしてその懐中時計の針が重なり、時刻は0時になった。



「……くはっ」



 その瞬間、彼女は笑った。まるで普段の青波とは別人のように粗暴な笑い声を響かせ、彼女はゆっくりと目を開ける。そしてそのまま迷うことなく、空いた左腕に……



 藍色の腕輪をはめた。



「いい感じだ」


 青波の左目が、青から藍に色を変える。青波の澄んだ青い髪が、毛先から徐々に藍色に染まっていく。


「さて、行くか」


 青と藍。その2つの腕輪をはめた少女は、なにより早く『夜』を駆ける。



 だからまだ、『夜』は終わらない。


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