第18話 始めようか。



 ひいらぎ 赤音あかねは、自分でも理解できなかった。



 なずなとキスをした、翌日の放課後。赤音は1人、電車に揺られていた。


「……なにしてるのよ、私は」


 そう小さく呟き、ぼーっと空を見上げる。昨日の雨とは打って変わって、今日は雲1つない快晴だ。赤音はそんな空を意味もなく見上げながら、自身の不合理な行動に息を吐く。



 今日の昼休み。赤音は、なずなの教室を訪れた。別になずなのことが、気になったわけではない。彼がどうなろうと、自分にはもう……関係ないのだから。



 だから私は、心配してるわけじゃない。



 赤音はそう自分に言い聞かせながら、なずなの教室を見渡す。……けれどどこにも、なずなの姿はない。だから赤音は、近くにいたなずなのクラスメイトにこう尋ねる。


『……灰宮 なずなは、今日は休みなの?』


 学校一の美少女と言われる赤音に話しかけられた彼は、驚きと恥ずかしさに顔を赤くしながら答えを返す。


『は、灰宮くんは今日……その、風邪で休みって聞いてます……』


 その言葉を聞いた瞬間、赤音は思った。



 ……それでも自分には、関係ないと。



「…………」


 なのに赤音は、放課後になると近所のスーパーでお見舞いの品を買って、なずなの家に向かっていた。


「馬鹿みたい……」


 そう小さく呟いて、唇に軽く触れる。


 昨日どうして、なずなにキスをしたのか。その理由は、赤音自身にも分からない。……でもどうしても、我慢できなかった。ずっとずっと我慢してきたのに、どうしてかあの一瞬だけは……我慢できなかった。


「柔らかかったな……」


 男の人の唇も、柔らかいんだ。なんて、当たり前のことを赤音は思う。そうやって昨日のことを思い出すだけで、赤音の心臓はドキドキと高鳴る。


「……ほんと、馬鹿みたい」


 思考を切り替えるようにそう言って、お見舞いの品が入った袋を握りしめる。


「これを渡したら、帰る。私はなにも、期待してない」


 その言葉は、魔法だった。誰でも使える、現実逃避という名の魔法。赤音はその魔法で、余計な思考を振り払う。



 そしてそのあとは無心で電車に揺られて、以前母親から聞かされていた駅で降りる。


「……本当に、山の中なのね」


 スマホで地図を確認してから、ゆっくりと山道を歩く。地面はぬかるんでいて危ないし、辺りには手すりになるようなものなんてなにもない。


「…………」


 けれど赤音は、気にせず淡々と歩く。バランス感覚に優れている赤音は、その程度で転んだりすることはない。


「でも結構、歩くのね……」


 それからしばらく歩き続けて、うっすらと汗ばんできた頃。ようやく、なずなが住んでいるであろう小さな山小屋のような家が見えてくる。



 ……けれどそこで、赤音の足が止まる。



「誰か、居る……」


 見覚えのない女の子が、玄関先でなずなと会話していた。親しそう……には見えないが、女の子は身振り手振りで、必死になずなの気を惹こうとしている。



 彼女はきっと、なずなのことが好きなんだ。



 どうしてか赤音は、そう思った。赤音がいる場所からはその少女の顔すら見えないのに、赤音はそう確信した。


「…………」


 無意識に、赤音の指が唇に触れる。買い物袋を握る手に、力がこもる。


 なずなの所に女の子が来ていても、自分にはなんの関係もない。自分はただこのお見舞いの品を渡して、そのまま家に帰るだけだ。



 あの少女が誰であろうと、自分のやることはなにも変わらない。



 ……そう思うのに、どうしか身体が動いてくれない。そしてそうやって呆然としている間に、少女はなずなのに家に入ってしまう。


「……関係ない」


 歯を強く噛み締めて、無理やりなずなの家の前まで移動する。……けど、中から楽しそうな声が聴こえてきて、どうしても……扉を開くことができない。


「…………ごめん……!」


 見舞いの品が入った袋を玄関のドアノブに引っかけて、赤音はそのまま走り出す。


「はあ……はあ……」


 自分でも、どうして走っているのか理解できなかった。でもどうしても足を止めることができなくて、そのまま走って帰りの電車に飛び込む。


「……なにしてるのよ、私は……」


 ゆっくりと、茜色の夕焼けが夜の闇へと沈んでいく。けれど胸の高鳴りと痛みは、一向に収まらない。



 今から引き返して、玄関の扉を開けて、なずなの身体を強く強く抱きしめたい。



 そんな、わけの分からない欲求に駆られる。……けれどそれは、絶対に許されないことだ。今になってそんな甘えは、周りも自分も傷つけるだけだ。それに電車は、どんどんなずなの家から遠ざかっていく。


「……いいのよ、これで。だって私には、関係ないんだから……」


 それからはただ、ぼーっと空を見上げ続けた。遠い過去と胸の痛みから目を逸らすように、赤音はただ空を見上げ続ける。


 そして、気づけば辺りは夜の闇に飲まれていて、電車は赤音の家の最寄り駅で止まる。だから赤音は重い身体を引きずって、ゆっくりと電車から降りる。


「…………」


 家に帰る気には、なれなかった。今の自分の酷い顔を、他の姉妹たちに見られたくなかったから。



 だから今日はどこかで、ご飯でも食べて帰ろう。



 そんな風に思った直後、ふと声が響いた。



「──久しぶりだね、赤音」



 その瞬間、世界が凪いだ。駅前から喧騒が消え去って、夜の空から色が抜ける。……そう錯覚するくらい、目の前の女性は異質だった。


青波あおは……姉さん」


 赤音は驚きに目を見開きながら、ゆっくりとその女性の名を呼ぶ。



 海と空を混ぜ合わせたような、澄んだ青い髪。光を拒絶するような、真っ白な肌。そして楽しげに歪められた、薄い色彩の唇。



 柊家の長女、柊 青波。ずっと家を開けていた彼女が、唐突に姿を現した。


「なに、ぼーっとしてるの? 赤音。私の顔に、なにかついてる?」


「……ううん。ただ……帰ってたんだね、青波姉さん」


「うん。ちょうど今、帰ってきたんだ。本当はもう少し遊んでいたかったけど、どうやらそんな余裕はないらしい。……赤音だって、気がついてるんでしょ? 今夜から、『よる』が始まるって」


「……うん」


「じゃあ一緒に、帰ろうか。久しぶりに、2人で」


 そうして2人は、ゆっくりと家に向かって歩き出す。


「くふっ。ねぇ、赤音。もしかして、振られたの?」


「……! い、いきなり、なに言ってるのよ! 青波姉さん!」


 唐突な青波の言葉に、赤音は顔を真っ赤にしながら反論する。


「ふふっ。怒るくらいの元気があるなら、まだまだ大丈夫だね」


「そもそも私は、振られてなんかいないわ!」


「そうだね。赤音は昔から、一途だからね。振られたくらいじゃ、諦めないか」


 夜の闇を切り裂くように、青波はニヤリと笑う。


「ねぇ、赤音。正しさっていうのは、どういうものだと思う?」


「なによ、いきなり」


「赤音は少し勘違いしているみたいだから、お姉ちゃんが教えてあげようと思って」


「……まあ、いいわ。正しさっていうのは、間違えてることを正すことでしょ?」


「違う。正しさっていうのは、辛いことを我慢する為の言い訳なんだ。……だから辛くないと、正しくはないんだよ」


 青波は心底から楽しそうに、笑い続ける。赤音はそんないつも通りな青波に、呆れたように息を吐く。


「やって気持ちいいことは、絶対に誰かがやってくれる。それがどれだけ困難でも、どれだけ不可能に見えても、絶対に誰かがやるんだ。世界は……人は、そういう風にできてる」


 けどね、と青波は言葉を続ける。


「生きていれば、愛する人を否定しなくちゃいけない時がある。嫌いな奴を、認めなきゃいけない時がある。そういう辛いだけの時に、正しさが必要になるんだよ」


「……じゃあ私は、正しくなんてないわ」


「うん。赤音は、正しくなんてない。赤音は凄く苦しんでるけど、その根っこには愛がある。ならそれは、正義じゃなくてわがままだ。……けどお姉ちゃんは、妹のわがまま聞いてやる為にいるんだよ?」


「…………」


 赤音はなにも、答えない。青波はそんな赤音の頭を、わしゃわしゃと撫でる。


「いい子だね、赤音は。本当ならこれから焼肉でも奢ってあげたいけど、生憎ともう……そんな暇もない」


「本当に今夜から、『夜』が始まるの?」


「うん。だから残念だけど、楽しいラブコメはしばらくお預け。私たちはこれから、役目を果たさなければならない。誰も褒めてくれないし辛いだけだけど、代わりなんて……どこにもいないんだから」


「……分かってる。その為に私は、ここにいる」


 赤音のその言葉を聞いて、青波は満足そうに笑う。


「私の妹は、いい子ばかりで嬉しいよ。今度みんなに、ぬいぐるみでも買ってあげよう」


「……私たちなんか、青波姉さんに比べればまだまだよ。あの時だって、結局私たちはなにも……」


「ふふっ。そんなしょげた顔しなくても、大丈夫。私はみんなを、頼りにしてる。それに彼……灰宮 なずなくんも、いつか絶対、赤音の想いに気づいてくれる。……それがいいことなのかは、分からないけどね」


「私は──」


 赤音がなにか言おうとするが、そこでちょうど家にたどり着く。だから赤音は安堵するように息を吐いて、口を閉じる。


「続きは、また今度にしようか。正しさについても、彼についても、今度じっくり2人で話そう」


「……うん。分かった」


 全てを見透かしたような青波の瞳から逃げるように、赤音は玄関の扉を開ける。


「ただいま」


 そして青波と赤音は、ほとんど同時にそう言って家に上がる。すると示し合わせたように、4人の少女たちが2人を出迎えてくれる。



「うん。みんなちゃんと、準備は済ませたみたいだね」



 橙華。紫恵美。黄葉。緑。そして、赤音。



 そんな5人の少女の顔を見渡して、青波は笑う。誇るように、楽しむように、歌うように、叫ぶように、青波はただ笑う。そして最後に軽い笑みを張りつけて、ゆっくりと……その言葉を口にした。




「──それじゃ、魔法少女を始めようか」


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