第17話 はじめまして。
人生は明けない冬だ。
それは、この家の持ち主でついこの間まで俺の面倒を見てくれていた、『先生』の口癖だった。彼女は俺と同じように幼い頃に両親を亡くして、辛い日々を送ってきたらしい。
だからあの人は俺と同じように……いや、俺なんかよりずっと悲観的な性格だった。
小説家……というより、詩人として生きていた彼女。こんな家に住んでいるくらいだから、儲けはあまりなかったのだろう。しかしそれでも彼女は、どこにも居場所がなかった俺を引き取って、色んなことを教えてくれた。
……でも、その『先生』が死んだ時、俺は泣けなかった。
その日は高校の入学式で、『先生』は珍しく出かける俺を見送ってくれた。これから頑張れよって乱暴に頭を撫でてくれて、くすぐったかったけど……嬉しかった。
頑張ってバイトして、この人に美味しいものをご馳走しよう。……なんて、らしくもないことを本気で思った。けど、入学式を終えて家に帰ると、『先生』は……眠っていた。
重い病気を患っていたことを、あとになって知った。……けれど『先生』は、とても安らかな顔をしていた。いつもは全てを諦めたような冷たい顔をしていた癖に、死顔だけはとても穏やかだった。
書きかけの原稿の前で、楽しい夢でも見るかのように、『先生』はこの世を去った。
「…………」
風邪をひいて、弱っていたからだろう。そんな先生に、もう一度会いたいと思った。夢の中でも構わないから、彼女のあの冷めたような言葉を、もう一度聞きたいと強く思った。
……けれどあの『先生』が、そんな甘えを許してくれるわけがない。
だから俺は、当たり前のように目を覚ました。
◇
「……まだ、夕方か」
痛む頭を抑えながら、身体を起こす。
「……こんなの出しっぱなしだったから、あんな夢を見たのか」
先生が死ぬ直前に書いていた、詩の原稿。片付け忘れていたそれが、机の上に置きっぱなしになっていた。
『孤独こそが人生だ。寂しさこそが運命だ。寂しさは、明けない冬を思わせる。寂しさは、静かに静かに降り積もる。雪は、いくら集まっても冷たい。そして──』
詩はそこで、終わっていた。だからこの『そして』の先にどんな言葉が続くのか、それはもう永遠に分からない。
……でもだからこそ、いつか俺がその先の言葉を書いてやろうと思っていた。恩返しとは言えないけど、最期の仕事が中途半端なままだと、『先生』もいつまで経っても成仏できないだろうから。
「ま、今はそんなの考えてる余裕はないんだけどな」
今朝、目を覚ますと身体が死ぬほど重かった。……まあ昨日あれだけ雨に濡れて、身体を冷やしたんだ。風邪をひいても、驚きはしない。
だから俺はさっさと学校に連絡を入れて、今日は1日眠っていることにした。
「風邪なんて寝てりゃ治ると思ってたけど、全然よくならないな」
時間が経つ度に、身体と頭が重くなる。親代わりだった先生のことを思い出してしまうくらい、今の俺は弱っていた。
「なんか食お……って、冷蔵庫の中なんもねぇな。でも、近所のスーパーまで行く元気もない」
なのでもう諦めて、特売の時に買い溜めしておいたカップラーメンでも食べよう。そう思い、台所下の棚に手を伸ばす。……が、そこで丁度スマホから、電話の着信を知らせる音が鳴り響く。
「緑姉さんか」
そう呟き、電話に出る。
「もしもし。どうしたんだ、緑──」
「大丈夫ですか、なずな! 1人で辛い思い、してませんか? 大丈夫ですよ? 私は絶対に、なずなを1人にしませんから!」
「……いや、緑姉さん。とりあえず、落ち着いて。そんな心配しなくても、大丈夫。ただの風邪だから」
死んでしまうんじゃないかってくらいの緑姉さんの剣幕に、俺は軽く息を吐く。
「ただの風邪でも、1人じゃ辛いに決まってます! 私はもうこれ以上、なずなに辛い思いはして欲しくないんです! だから今から、なずなの家に行きます!」
「……ありがとう、緑姉さん。姉さんは本当に、優しいな」
風邪で弱ってる今、そんな風に優しくされると本気で惚れてしまいそうになる。
「でも、大丈夫だよ。風邪うつしたら悪いし、それに昨日……雨降っただろ? 俺の家、山の中にあるからさ。歩き慣れてないと、危ないんだよ」
「……でも、心配なんです。風邪の時は、誰だって寂しくなるものです。私はそんななずなを、1人にしたくない……」
風邪をひいた俺なんかよりずっと悲痛な、緑姉さんの声。……こんな風に誰かに心配してもらうのは初めてで、ちょっと泣きそうになる。
「心配してくれて、ありがとな。でも、本当に大丈夫。緑姉さんの声が聞けて、元気でたから」
「でも……」
「大丈夫だって。……あ、そうだ。その代わり1つ、頼みがあるんだけどいいか?」
「なんでも、言ってください! 私、なずなの為ならなんだってしますよ!」
本当は、その言葉が聞けただけで充分だった。でも緑姉さんが、期待してくれている。だから俺は、その言葉を口にした。
「風邪が治ったらさ、また前みたいにぎゅってして欲しい。……ダメか?」
「……! いいに決まってます! 1時間でも2時間でも! ずっとずーっと抱きしめて、よしよししてあげます!」
「……ありがとう、楽しみにしてる。だから今日は、もう寝るよ。電話、嬉しかった。本当に、ありがとう」
そう言って、電話を切る。
「なんかちょっと、元気でたな」
緑姉さんは、学校でも本当のお姉ちゃんみたいに俺に優しくしてくる。俺は学校ではいつも1人だったから、緑姉さんの優しさは本当に嬉しい。
「…………」
でもそんな緑姉さんも、時折り遠い目をする。まるで今から死地に赴くかのように、腕につけられた緑色のブレスレットを見つめている時がある。
……きっとそこに、彼女たちの秘密があるのだろう。
「……忘れてた。お湯、沸かさねーと」
思考を切り替えるようにそう呟いて、使い古した鍋に水を入れる。……正直、カップラーメンって気分でもないが、なにも食べないといつまで経ってもよくならない。だから諦めて、鍋をガスコンロに置く。
……けどそこで、チャイムの音が鳴り響く。
「…………」
どうしてか、昨日のことを思い出す。
柔らかで、冷たい唇。少し赤みがかった頬。雨で透けた、薄い水色の下着。そんな……柊 赤音にキスされた時のことを、どうしてか思い出してしまう。
「ちょっと唇が当たったくらいでこんなに意識して、馬鹿なんじゃねーの。俺」
そう呟いて、重い身体を引きずりながら玄関の方へと向かう。
あんな性格をした柊 赤音が、俺のお見舞いに来るわけがない。そもそも彼女は、俺が風邪をひいていることすら知らない筈だ。……いやそれどころか、彼女はこの家の場所すら知らないだろう。
だから絶対に、ありえない。そう小さく呟いて、玄関の扉を開ける。
すると、そこにいたのは……。
「…………誰?」
まるで、新月の夜のように澄んだ長い黒髪。凛としていて気品を感じさせる、スレンダーな体躯。そんなどこか日本人形のような少女が、真っ直ぐに俺を見て言った。
「わたくしは、
「……いや、誰だよ。なんかの勧誘か?」
こんな山の中にあるボロ屋まで、勧誘が来たことなんて一度もない。けどきっと彼女は、そういう類のものだろう。そう決めつけて、扉を閉める。
「待って待って待って! どうして、扉を閉めるのですか!」
「いや、今風邪ひいてるんで勧誘とかに構ってる元気はないんですよ」
「違いますわ! わたくしは、勧誘に来たのでありません。というかこんなボロ……失礼。こんな趣のある家に、勧誘なんて来るわけがないでしょ?」
「……じゃあ一体、なんなんだよ?」
そう尋ねると、その少女──蘇芳さんは仕切り直しと言うように一度咳払いをして、芝居がかった仕草で口を開く。
「わたくしは、蘇芳 蓮香と申します。はじめまして、灰宮 なずなさん」
「ああ。そこからやり直すんだ。……つーか、どうして俺の名前を知ってるんだ?」
「そんなの、決まっているではないですか。わたくしがずっと、貴方を見ていたからです」
「いや、意味が分からないんだけど……」
こんな目立つ女の子、一度見たら絶対に忘れない筈だ。……でもどれだけ記憶を探っても、思い出すことができない。
「忘れたとは、言わせませんわよ? わたくしのあの、熱烈なラブレターを」
「……あ」
その言葉を聞いて、思い出す。そういえば、柊 赤音と最初に出会ったあの日。俺は、ラブレターを貰ったんだ。だから俺はあの場所で、誰かが来るのを待ち続けていたんだ。
「完全に忘れてた」
「わ、忘れてたって貴方ね……。まあ、いいですわ。それくらいの失礼は、水に流しましょう」
「でも、そもそも貴女……蘇芳さんは、あの場所に来なかっただろ?」
「……それは、仕方がないことなんです。だって、自分が告白しようと呼び出した相手が、他の女に振られていたんですよ? どんな顔して出ていけばいいか、分からないではないですか」
「…………」
それは確かに、そうかもしれない。
「ごめん。忘れてたのは、本当に失礼だった」
「構いませんわ。わたくし、過去のことは気にしない主義ですから」
蘇芳さんは長い髪をなびかせて、ニヤリと笑う。
「……それで? 今日はどうして、こんな所まで来たんだ? まさか告白のやり直しがしたくて、来たってわけじゃないんだろ?」
「……どうでしょう。まあ、ここで告白し直すのも悪くはないのですが、弱ったところに漬け込むのは趣味ではありません」
蘇芳さんはそこで一度俺から距離を取り、陽の光を浴びるように空を見上げる。そして、これまた芝居がかった仕草で、ゆっくりとその言葉を口にした。
「ねぇ、灰宮 なずなさん。こんなボロ屋から出て、わたくしの家に来ませんか? ……だって貴方には、誰にも負けない才能があるのですから」
蘇芳さんのその唐突な言葉に、俺はなにも言えない。……けれどその代わりというように、風に揺れた木々がざあざあと音を立てた。
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