第16話 分かんねーよ。



 柊 赤音が、俺にキスをした。



「────」


 柔らかでとても冷たい唇が、俺の唇に触れた。……胸が、痛い。激しい雨音が聴こえなくなるくらい、強く強く心臓が高鳴る。地面が沈んでいくような変な感覚に、手をぎゅっと握りしめる。



 意味が、分からない。



 今までの柊 赤音の態度からして、彼女が俺に好意を持っているとは思えない。なのに彼女は、キスをした。……本当に、なんなんだよ。


「……どうして、キスなんかしたんだよ」


 唾を飲み込んでから、素直にそう尋ねる。


「気に入らなかったからよ。あんたの……全てを諦めたような瞳が」


「なんだよ、それ。答えになってねーよ。……意味が分からない。お前は一体、なにを考えているんだよ!」


 頭に血が上って、思わず柊 赤音の腕を掴む。……けど、それで気がつく。


「お前……手、震えてるじゃねーか。もしかして、体調悪いのか?」


「……そうじゃないわ」


「ならどうして、こんなに手が震えてるんだよ」


「……初めて、だったのよ」


「……は?」


「初めてキスしたんだから、ちょっとくらい震えてもいいじゃない!」


 うっすらと頬を赤くして、柊 赤音はそう叫んだ。


「初めてって、お前……。ば、馬鹿じゃねーの! ファーストキスを、こんな……こんなわけの分からない状況で捨てたのか?」


「そうよ。悪い?」


「悪いって、そういう問題じゃ……」


 女の子にとってのファーストキスが、どれだけ価値があるものなのか。俺には全く、分からない。……けど少なくとも、こんなわけの分からない状況で捨てていいものでは、ない筈だ。


「そんなことは、どうでもいいのよ。それよりあんたは、これからも理不尽や不条理を受け入れて、生きていくの? 誰になにをされても自分のせいだって諦めて、全ての不幸を受け入れるの?」


「……そうだよ。この世界には、奇跡も魔法もないんだ。なら、俺にできるのはそれだけだ。……つーかそんなことより、ちゃんと答えろ。どうしてお前は、キスなんかしたんだよ?」


 下着が透けているとかそんなのはもうお構いなしで、真っ直ぐに柊 赤音の瞳を見つめる。柊 赤音もまた、同じように真っ直ぐに俺を見る。



「…………」



「…………」



 激しい雨音だけが、ただ響く。そんな沈黙が、この場を支配する。けどそんな沈黙は、柊 赤音の一言によって簡単に打ち破られる。



「私の気持ちなんて、あんたには分からない。私に言えるのは……それだけよ」



「……そうかよ」


 柊 赤音の言葉を聞いて、1つだけ分かったことがある。真っ直ぐだけど陰った暗い瞳を見て、俺は1つだけ気がついた。



 柊 赤音は、俺になにも伝えるつもりはない。



 自分からキスをしておいて、なにも言う気はないんだ。……本当に、狡い女だ。


「……もういいよ。確かに俺には、お前の気持ちなんて分からない。でも、俺だって……初めてだったんだぞ」


「そうなんだ。それは……悪いことをしたわね」


 柊 赤音はなにかを確かめるように、自身の唇を撫でる。そして、本当に一瞬。瞬きすれば見逃すくらいの刹那。とても小さな、笑みを浮かべた。


「────」


 その笑みに、既視感を覚えた。遠い昔。いつかのどこかで。誰かがそんな風に笑っていた。でもそれが誰なのか思い出す前に、ふと声が響いた。



「あ、赤音ちゃんだ。こんな所で、なにしてるの?」



 綺麗な橙色の傘をさした橙華さんが、激しい雨の中から姿を現す。


「……って、なずなくんも一緒なんだね」


「はい。偶然、一緒になって」


「……そうなんだ」


 橙華さんはどこか気まずそうに、視線を逸らす。


「橙華姉さん。姉さんの方こそ、こんな時間になにやってるのよ。授業、もうとっくに始まってるでしょ?」


「……うん、そうだね。でもちょっと、ぼーっとしちゃってて。いつの間にか、こんな時間になってたんだよ」


「ぼーっとって、大丈夫なの? それ」


「うん、大丈夫。別に、体調が悪いわけじゃないから。……それより、傘に入れてあげるから一度家に帰ろ? そんなびしょ濡れだと、風邪ひいちゃうよ?」


 橙華さんは、ゆっくりとこちらに近づいてくる。俺はどうしてか、誤魔化すように唇を拭う。


「……その、なずなくんも来る?」


「いや、俺は……大丈夫です」


「でも、今日は1日雨だって天気予報で言ってたよ? だから今日くらいなら、赤音ちゃんも……」


 橙華さんは、伺うように柊 赤音の顔を覗き込む。


「…………」


 柊 赤音はそんな橙華さんの視線を受けて、逡巡するように空を見上げる。……けど彼女の言葉は、決まっている筈だ。だから俺は彼女が口を開く前に、言った。


「大丈夫です。俺は、慣れてますから」


 そしてそのまま、走り出す。激しい雨が痛いくらい強く身体に降り注ぐが、決して足は止めない。


「……なにやってんだよ」


 自分の考えなしの行動に、大きく息を吐く。……けど、あのままあそこにいたら、橙華さんの優しさに甘えてしまいそうだった。……でも、それは許されない。だって俺は、柊 赤音と約束しているから。



 柊の家には、もう立ち入らない。



 それが、柊 赤音と俺が結んだ約束。俺はその約束を守る代わりに、多額のお金を受け取った。だから俺はもう、あの家に立ち入ることはできない。


「……くそっ。どうせずぶ濡れになるなら、さっさと逃げてりゃよかったな」


 雨に濡れた地面を蹴って、学校……ではなく駅の方へと向かう。こんなずぶ濡れになって学校に行っても、授業なんて受けられない。だから今日はもう、サボると決めた。


「お、いいタイミング」


 ちょうど駅に止まっている電車が見えたので、走るスピードを上げる。……けどその途中、階段で躓いてしまい慌てて手すりを握る。


「危なっ」


 ギリギリ、転ばずに済んだ。でも電車は、俺を置いて走り出してしまった。


「……ついてないな」


 そう呟き、ベンチに腰掛けようとする。……が、こんなに濡れたままだと迷惑になるので、座るのは辞めておいた。


 そんな風にあらゆる運に見放されながら、2時間近くの時間をかけて家に帰る。そしてそのままボロい風呂場でシャワーを浴びて、固い布団に倒れ込む。


「どうしてあいつ、笑ったんだよ……」


 そう呟いて、目を瞑る。まだまだ時間は早かったけど、頭が痛くて上手く意識を保てない。だから俺はそのまま、倒れるように眠りにつく。



 自分が風邪をひいたと気がついたのは、翌日の朝だった。



 ◇



 ひいらぎ 赤音あかねは軽く唇を撫でてから、ゆっくりと歩き出す。


「よかったの?」


 橙色の傘をさしながら赤音の隣を歩く橙華が、確かめるようにそう尋ねる。


「ええ。だってあいつ、自分で言ったのよ。悪いのは、傘を忘れた自分だって」


「そうじゃないよ。本当になずなくんを追い出して、よかったの?」


「……いいのよ。あいつに秘密を知られてみたいなことになるのは、橙華姉さんだって嫌でしょ? ……それに、もうあんまり時間に余裕もない。あいつに構ってる余裕なんて、私たちにはないのよ。……そうでしょ?」


「…………」


 赤音の言葉を聞いて、橙華は遠い過去を見つめるように、自身の腕につけられた橙色のブレスレットに視線を向ける。


「赤音ちゃんはいつだって、正しいよね。……でも正しいだけだと、いつか1人になっちゃうよ?」


「いいのよ、私は1人でも」


「じゃあどうして、キスしたの?」


「────」


 心臓が、止まってしまったと思った。それくらいその言葉は、赤音にとって想定外のものだった。


「見て、たの……?」


「うん」


「ならどうしてもっと早く、声をかけてくれなかったの?」


「……だって、なずなくんがそばにいたから」


 橙華はなにかを耐えるように、傘の持ち手をぎゅっと握りしめる。


「……まあ、いいわ。あれはただの……言い訳だから」


「言い訳、か。それはちょっと、狡い言葉だね」


「正しいだけじゃ1人になるって言ったのは、橙華姉さんでしょ?」


「ふふっ、そうだったね。……それで? キスって、どんな感じなの? ドキドキした? 気持ちよかった? なずなくんの唇って、どんな感触だったの?」


 キラキラとした目で言いよる橙華に、赤音は大きく息を吐く。


「……触れたのは一瞬だけだから、どうもこうもないわ。ただ、唇と唇が……触れただけよ」


「嘘だよ。だって赤音ちゃん、笑ってもん」


「笑ってなんか、いないわ! ……了承も得ずに、いきなりキスしたんだもん。私は……最低よ」


「…………」


 赤音の沈鬱な表情を見て、橙華は溢れ出る好奇心を無理やり押さえ込む。


「でも、こうやって話すの久しぶりだね」


 そしてそのまま厚い雲に覆われた空を見上げながら、そう呟く。


「……そうね」


「なずなくんのお陰だね」


「…………そうね」


 赤音も橙華に倣うように、ゆっくりと空を見上げる。


 どこまで行っても、厚い雲に覆われた空。そしてそんな空から降り注ぐ、突き刺すような激しい雨。……こんな中、傘もささずに走って行ったなずなは、きっと風邪をひいてしまうだろう。


 そうなれば彼の家には誰もいないから、彼は1人で寒さと寂しさに耐え続けなければならない。



「……私には、関係ないわ」



 泣き叫ぶような雨を見つめながら、赤音は最後にそう呟いた。


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