第9話 びっくりした?
「あー、酷い目にあった……」
黄葉の作戦のせいでパンツまでびしょ濡れになった俺は、午後の授業をサボって柊さんの家に帰って来た。
「シャワー浴びよ」
体育のために持って行っていたタオルで、水滴が落ちないよう髪を拭いてから家に上がる。
「…………」
どうしてもまだ、『ただいま』という言葉を口にするのは抵抗があった。……いやそれは抵抗ではなく、ただ照れなのかもしれない。どちらにせよ俺は、黙って家に上がる。
「家が近いって、こういう時に便利だよな」
まだあの山小屋のような家に住んでいたら、きっと風邪をひいていただろう。なんせあの家は、帰るだけで2時間近くかかってしまう。
「まあこの家に来なけりゃ、こんな風にびしょ濡れになることもなかったんだけどな」
自室に入り適当に着替えの服を選んで、風呂場に向かう。
「誰か、入ってませんかー」
風呂場の前で、そう声をかける。今はみんな……いや、引きこもりの紫恵美姉さん以外のみんなは、出かけていて家にはいない。
けれど、念には念を入れなければならない。
「ここで柊 赤音とでも鉢合わせしたら、それで終わりだ」
この前は気を抜いてしまってせいで、危うく追い出されるところだった。ただでさえ嫌われているのに、そんなミスを何度もしたら今度こそこの家にいられなくなる。
「よしっ。誰もいないな」
そう確認してから、脱衣所で服を脱いで風呂場に入る。
「相変わらず、でかい風呂」
柊さんちのお風呂は、引くほどでかい。足を伸ばしてつかれるどころか、軽く泳げるくらいの広さだ。もしかしたら、6人姉妹全員で使うことを想定しているのかもしれないけど、1人で使っていると少し場違いに思ってしまう。
「まあ、どうでもいいや。さっさと終わらせよ」
そう言って、熱いシャワーを全身で浴びる。そうすると身体から余計な力が抜けていき、とても気持ちいい。
「あー。生き返るー」
……けどそんな風に緩んだ身体は、ふと響いた声のせいで一気に強ばる。
「入ってるの誰〜? あたしも入っていいかな〜」
橙華さんの、声だ。まだ学校にいる筈の橙華さんの声が、どうしてか俺の耳朶を震わせる。そしてまだ返事をしていないのに、脱衣所からガサゴソと服を脱ぐ音が聴こえてくる。
「待った待った! 入ってるの、俺です! 灰宮 なずなです! だから入って来ちゃ、ダメですよ!」
「……? あ、なずなくんだったのか〜。じゃあ、入っちゃダメだねー」
「……すみません、すぐに出るんで待っててください」
「いえいえ。気を遣わなくても、大丈夫だよー。ゆっくり入ってねー」
そんな声が響いて、とてとてと遠ざかっていく足音が聴こえる。
「……びびったー。……つーか、どうしてあの人が家にいるんだ? 時間的に、まだ授業は終わってない筈だろ……」
まあなんにせよ、変なことにならないうちにさっさと上がってしまおう。そう考え、最後にもう一度だけ熱いシャワーを浴びて──。
「お邪魔しま〜す」
まるで俺の思考を遮るように風呂場の扉が開いて、すぐ側からそんな声が響く。
「……は?」
だから俺の頭は、一瞬で真っ白になってしまう。
「うわー。なずなくん、結構筋肉あるねー。お姉ちゃん、ちょっとドキドキしちゃうよー」
「まあ鍛えてますから……って、そうじゃなくて! いやいやいや。……え? なにこの状況。どうして入って来たんですか? 橙華さん」
事態が全く理解できていない俺は、時が止まったように動くことができない。
「あたしたち姉妹はね、今でも一緒にお風呂に入るんだ〜。だからあたし、ずっと思ってたんだよ。なずなくんとも一緒に、お風呂に入ってみたいなーって」
「いや、俺は男ですよ? それにこんなところ赤音……さんに見られたら、俺殺されますよ」
「大丈夫だよ。赤音ちゃん今は、学校だから」
「橙華さんだって、学校の筈でしょ?」
「あたしはね、サボりなんだ〜。びしょ濡れになって走って行くなずなくんの姿が見えたから、心配で見に来ちゃった」
えへへ、と楽しそうにと笑う橙華姉さん。……悪いが、笑い事じゃない。
「……それで、なにが目的ですか? 金なら、ないですよ」
「うん? なんでお金? なずなくん、お小遣い欲しいの?」
「いやいや、なんでそうなる。そうじゃなくて、俺は──」
「お姉ちゃんアタック!」
そこでそんな訳の分からない声とともに、背中に柔らかな感触が押しつけられる。
「…………」
いや、それで俺は気がつく。
「……橙華さん。水着、着てる?」
「だいせーかい! あはははっ。なずなくん顔真っ赤になってて、可愛い。けど、ざーんねん! あたしはちゃんと、水着を着てましたー!」
なんて言いながら、橙華さんは俺から距離を取る。目の前の鏡でちらりと確認すると、どうやら本当に水着を着ているようだった。
「…………」
……でも、だからなんだって言うんだ? 訳が分からない。いや或いはこれが、紫恵美姉さんや黄葉が言ってた、橙華さんのおかしなところなのか?
「ドッキリ大成功! なずなくん、あたしにはあんまり話しかけてくれないから、一回こうやってびっくりさせてあげたかったんだー。ふふっ。これでもう、仲良しだよね!」
「……そうですね」
「あれ? あんまり嬉しそうじゃない。……もしかして、またあたしやり過ぎちゃったかな? 実はあたし、いつもやり過ぎだって皆んなから怒られちゃうんだ……。やっちゃったなぁ」
橙華さんは、しょんぼりと落ち込んでしまう。……喜怒哀楽が激しい人だ。
「……いやまあ、俺としては別にいいんですよ? すげードキドキしたし、凄く……柔らかかったんで」
「ほんと? 喜んでくれた?」
「はい。ただまあ……1つ気になることがあるんですけど、訊いてもいいですか?」
「スリーサイズはね、上から──」
「訊いてないことは、答えなくていいです!」
慌てて、そう叫ぶ。……この人はなんていうか、黄葉とは別次元で頭のネジが外れてる。
「あれ、違うの? でもスリーサイズじゃないなら、なにが聞きたいの?」
「いや、つまらないことで申し訳ないんですけど、俺の方は水着を着てないんですけど、それは大丈夫なんですか?」
「……………………あ」
そこで一瞬、橙華さんの時間が止まる。
「たいへんだ、たいへんだ。たいへんだよ! このままだとあたし、変態さんだ! そうだそうだ、そうだった! 忘れてた!」
あたふたと、橙華さんは慌てふためく。そして最後に、
「ごめんなさーい!」
そう言って、走って風呂場から出て行ってしまう。
「……なんだったんだ?」
結局、なに1つとして意味が分からなかった。けど、どうやら撃退には成功したらしい。
「もしかしてここの姉妹って、変な奴しか居ないのか?」
なんてことを呟いて、しばらく待ってから俺も風呂場から出る。当たり前だけど、もうそこに橙華さんの姿はなかった。
「……って、なんだこれ」
けれどその代わりというように、俺の着替えの上に謎の紙袋が置かれていた。
「橙華さんの忘れ物か?」
とりあえず、安全の為に服を着る。そして意味もなく辺りを見渡してから、袋の中を確認してみる。
「……たい焼きだ。……なんで?」
わけが分からず、首を傾げる。けどそこで、袋の裏側に小さなメモ用紙が貼り付けられていることに気がつく。
『お昼食べてないって聞いたから、とりあえずこれ食べて。それでも足りないようなら、あたしの部屋に来てね。美味しいご飯、作ってあげるから。橙華お姉ちゃんより』
「……ずるいな」
どうしてか、泣いてしまいそうになる。でもこんなことで泣くのはカッコ悪いから、誤魔化すように小さく息を吐く。
「前言撤回。いい人ばっかだ」
まだ温かいたい焼きの頭に、かぶりつく。……それは甘くて、とても美味しかった。
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