第19章 Revenge

#72 きっと、誰かを好きになることは / 中村 直也

 中村なかむら直也なおやにとって、飯田いいだ希和まれかずは合唱部での直属の後輩だった。

 学年は一つ違いで、同じバスパート。高一の希和が途中入部してから一年間、ずっと隣で指導してきた。


 中村は地元の信野のぶの市立大学に進み、合唱部の先輩たちが立ち上げていたゴスペルサークルHumaNoiseヒューマノイズに入部。一年後には希和たちも進学を迎え、また会ったときには新天地の話でも聞けるのだろうと思っていた矢先、希和は急逝した。


 そして今日、希和とウェブ上で親交のあったつむぎという女性がサークルを訪ねることになっていた。



「――お待たせしました、皆さん」

 中村たちが待機していた部室に現れたのは、院生のジェームズ・フレディ・ルーカス。通称ジェフさん、サークル設立のきっかけでもあるアフリカ系アメリカ人だ。

「お疲れ様です、まだゲストは来ていないのでOKっすよ」

 答えた中村の隣に、ジェームズが座る。冷蔵庫から出したサイダーのペットボトルを渡すと、彼は喜んで蓋を開けた。


「えっと……生き返った! ですね」

「それです」

 ジェームズは元から日本語が流暢だが、最近ではくだけた表現を好んで使うようにしている。無駄な日本語スラングまで覚えようとしているのは余計な気もするが、ンゴとか知ってどうするんだ。


「そうだジェフさん、歌の発音で聞きたいことが」

「どうぞ由那ゆなさん」

 部室にいたもう一人、加藤かとう由那。中村と同期の元合唱部員で、今も同じサークルで活動している。出会った頃の由那はあまりにも内気そうで、一緒にやっていけるか不安になった……急に思い出して、少しおかしくなる。


 ジェームズと由那が英語の発音について話しているうちにゲストが到着した。

「お連れしました……どうぞ、二人とも」

 案内してくれたのは朝井あさい春菜はるな。同じく合唱部の後輩で、希和や詩葉うたはの同期に当たる。久しぶりに詩葉と会えたからか、楽しげな横顔だった。


「お久しぶりです皆さん!」

 朗らかな挨拶で入ってきたひいらぎ詩葉。中村にとっては二年間を共に過ごした後輩……なのだが、あまり接点はない。詩葉が話しかける男子といえば希和ばかりだったし、中村としても体格差のありすぎる女子には近寄りにくかった。なんか怖がられてそうだし。


 その後ろから入ってきた、初対面の女性。

「はじめまして、失礼します」


 ――どこがどう、というわけじゃなく。

 希和と気の合いそうな人だなと、すぐに感じた。


「はじめまして、ようこそHumaNoiseへ」

 ジェームズの挨拶に続き、自己紹介。紡はすでに詩葉とは打ち解けているようで安心した。女性陣の近況トークが一段落したところで、中村から説明する。


「じゃあ俺らのサークルについて、改めて紹介です」

 設立に関わったのはジェームズや、一つ上で合唱部部長だった和可奈わかなさんだが、彼らは学業や就活で忙しい。他サークルでも運営の主体は二年生であることから、中村たちが幹部学年になっていた。中学の野球部で懲りたはずの部長ポジションが、また中村に任されている。

 とはいえ、HumaNoise始動の頃の中村は受験生で、活動には参加していない。当時も合唱部で参加していた春菜や詩葉にも話を振りつつ、現在までを説明する。


「……というのが大まかな状況です。けど俺は希和とはHumaNoiseで共演してないので、あいつがどういうことやろうとしてるかはあまり分からないっすね」

「飯田くんに一番近かったの直也くんだよね、ラップも歌ってたじゃん?」

 由那の言う通り、希和が作った英語ラップの歌唱を担当したこともあったのだが。

「確かに歌ったし、意見も出したけど……あいつがどういう思考回路してたのか、隣で見てても全然分からなかったんだよ。すげえとは思ったけど」


 パート練習でもずっと一緒だったぶん、中村は希和の性格や癖はよく分かっている。どんな苦手にぶつかって乗り越えてきたかも、一番知っているかもしれない。

 しかし、希和が異様に得意だった言語分野での活躍については、あまり詳しく知らない。自分の興味から外れていた、というよりも。


「俺は高校の頃、結構英語が苦手でさ。後輩が高校で習わないような語学スキル発揮しまくってたの、ちょっとビビってた」

 中村が白状すると、春菜が吹き出す。

「すみません……あそこで一緒にラップ歌ってたあきちゃんも似たこと言ってたんですよ。まれくんとか結樹ゆきちゃんとか、勉強絡みであんなに盛り上がるの怖いよって」


「私だって和くんとか結樹さんの側ですよ」

 紡も話に入ってくる。

「とりあえず国語の教科書は一回全部読むタイプでしたし、英語でも自然な和訳にしたがるような生徒でした。和くんもそんなこと言ってましたね」

 中村も記憶を探って、紡に聞いてみる。

「……百人一首の意味とか覚えてます?」

「歌の暗記は怪しいですけど、言われればざっくりした意味は」

「英語のyouの複数形、どう訳してました?」

「えっと……基本は『あなたたち』ですよ、昔『皆さん』みたいに訳してたの注意されたので」


 中村が希和から聞いてきたのと、ほぼ同じ答え。

「マジで希和とシンクロしてますよ、紡さん」

「やった、嬉しいです」

 真面目一辺倒ということもない、気さくに笑う人だ――その笑顔に、どれだけ希和は励まされただろう。


 紡の境遇については、詩葉を通じて把握していた。不登校になっていたことも、希和の小説に救われたことも。希和に恋していたことも、一度も会えなかったことも。


「……話が逸れた、希和の作詞の話ですね。紡さん、あいつの遺稿は持っていたんですよね?」

「はい、印刷してあります」

「ありがたいです。じゃあ主にジェフさんに見てもらって、柊と朝井も意見出してほしい」


 紡から受け取った数枚のプリントに、ジェームズは目を走らせる。

「Too fragmentary……えっと、断片的ですね。日本語と英語も混ざっている」

 紡が答える。

「ええ、全体的なコンセプトも明記されていません。引き継ぎ資料としてはいただけないですが、元から和くんは脳内プロットに頼るタイプなので……それでも私が見れば分かると思ったんでしょうし、ある程度の類推はできているんですが」

「それで、紡さんはどうinterept……解釈されたんですか」

 ジェームズと話す紡の横顔、それすら希和を彷彿とさせる。


「現状を肯定すること、他者とのつながりを肯定すること、この二点が大きな軸ですね。

 悲しみや疎外感を抱えた人に向けて、あなたがいるから自分は救われたんだ、だから今を誇らしく歌おう……と呼びかけるようなストーリーが浮かびました」

 紡の答えに、春菜が頷く。

「そうですね、希和くんらしいテーマです」

「良かったです。けど、それがどうゴスペルに結びつくか分からないんですよ。あまり調べてこなかったですし、」

 紡は言いかけて、途中で止める。多分、「和くんに教えてもらいたかった」とでも言おうとしたのだろう。


 それを気にした様子もなく、ジェームズは話を引き継ぐ。

「私が聞いていた、飯田くんのゴスペルに対する見方。それと、紡さんの説明は合っています。

 ゴスペルは元々、神やJesusへのクリスチャンの愛を基にした音楽です。飯田くんはそれを日本人の宗教観に合わせて『今、自分が生きている世界』に解釈していました。ゴスペルとは、今いる現実や人とのつながりを肯定すること、という考え方ですね」


 ジェームズが話した内容は、中村も知っていた。サークルに入ったものの、英語詞にもゴスペルの世界観にも馴染めずにいたところ、希和の解釈が分かりやすいのではとジェームズに教えられたのだ……もっとしっかり希和に礼を言っておけば良かった。


 詩葉も話に入る。

「まれくんがミュージカルで伝えたかったことともリンクするんじゃないかな、だったら紡もツボ分かるでしょ?」

「そもそも、小説でずっと追っていたテーマだからね。ただ作詞とか全然経験ないからな……ああ、そうだ。HumaNoiseの皆さん、日本語詞は歌ったりするんですか?」


 他の部員に視線で促され、中村が答える。

「英語ゴスペルが基本で、けど一般向けに響く曲も欲しいので有名な洋楽もやってます。日本語のを入れると音楽的なイメージが変わっちゃうので、今のところはセトリに入れてないです」

「そうですよね」

「紡さんは日本語詞の方が書きやすい、とかですか?」

「いや、英語詞の方がありがたいです、というのも」

 紡にとっては制作上の確認で、深い意味はない話だと思っていたのだが。

 

「最近の私、恋愛とか友情――好意を扱った日本語の表現に触れられないんですよ。歌も映像も本も、いちいち和くんとの思い出に刺さりすぎちゃって……好きとか大切とか、歌詞を意識しただけで泣きそうなのに、自分で歌える訳ないじゃないですか」


 紡の返答は中村にとって、あまりに予想外すぎた。他もそうだったらしく、返事に窮している。沈黙をよそに、紡は語り続ける。


「表現をシャットするのは面倒ですけど、今までと違うジャンルに行ってみるのも面白いんですよね、音楽ならインストとか洋楽とか……それに日本語の表現なら、和くんに一生ぶんもらってるので。そんなに苦でもないです」


 困ったような笑みを浮かべた紡の肩を、隣の詩葉が抱き寄せる。その詩葉の横顔が目に入って、それが限界だった。


「――すみません、トイレ失礼します」


 サークル棟を出て、キャンパスのはずれに向かう。周りに人がいなくなったあたりで、ベンチに座り込む。

「……クッソ、なんで」


 希和のことで、もう人前では泣かないと決めたはずだった。訃報の直後、心配した恋人が関西から駆けつけるくらいに塞ぎ込んで、思いっきり泣いて、それで最後のはずだった。


 紡がどれだけ希和を求めていたか、思い知って。

 希和がずっと何かを求めていたことを――きっと詩葉に恋い焦がれていたことを、そばで見てきた苦しげな顔を思い出して。

 押さえつけていたはずの感情の蓋が、また開いてしまった。しばらく止みそうにない涙だった。


 なあ、希和さ。

 あんなに素敵な女性がさ、あんなにお前のこと好きだったんだぞ。

 音楽に向いてないとか、昔は舐められっぱなしだったとか、好きな人と上手くいかなかったとか……あの頃お前が抱えてた傷の全部が遠い過去になるくらい、お前のこと褒めてくれる人がいるんだぞ。


 全部これからだったんだよ。高校時代なんてほんの序章だったんだよ。

 そんなときに死ぬなよ。生きてろよ、頼むから。


「いた、直也くん」


 いつの間にか由那が隣に座っていた、近づいていたことにも気づかなかった。


「ごめん、ほっといてくれ」

「ごめん、ほっとかない」

 由那に手を握られ、労るようにさすられる。ずっと前に、母親にされたような手つきだった。


「……仮にも彼女いる男に、そういうことさ」

「その彼女に言われたの」

 同期だった鷹林たかばやし陽子ようこ。中村の恋人で、由那にとっても大親友だ。

「直也は飯田くんのことめっちゃ引きずる、けど人前で弱音吐けない奴だって。自分がそばにいられない間、由那に支えてほしいって……我らが部長、そういう目はしっかりしてるから」


 由那にさすられた手が、少しずつ柔らかくなっていく。人の温もりの雄弁さを、久しぶりに思い知る。


「直也くん、人前で泣くの慣れてないだろうから。

 私の前では思いきり泣いてよ、だって同期でしょ私たち。陽子と、奏恵かなえと、ケイくんと、最強で最高の面子なんだって胸張ってきたでしょ。弱くて脆いところも見せてきたから、私たちは強くなってきたじゃん」


 見違えるほど成長した、合唱部での二年半。

 普通なら胃もたれを起こしかねない、家族以上の濃く深い絆を築いてきた彼ら。


 由那の手をそっと握り返しながら、浮かんだ思いを口にする。


「人が、いつ死ぬか分からないってこと、すっげー怖い」

「怖いね」

「希和みたいな奴にあんな死に方させる世界に、相当ムカついてる」

「そうだね」

「人を好きになるたびにこんな怖い思いするなら、人生ってめちゃくちゃ辛いじゃん」

「うん、辛い」

「けど……けどやっぱり、会えた人のことって大好きなんだよ。その気持ちを糧に歩いてきて良かったんだよ」


 由那の頬が、ふわりと緩む。

「私も良かったよ。陽子に、直也くんに、みんなに会えて、合唱やって、ここまで来た。その私のこと、昔よりずっと好き。きっと生きるって、誰かを好きになることで自分を好きになることなんだよ」


 出会った頃は陰すらなかった、由那の笑顔に。

 中村が見てきた、希和の人生を思い出す。


 寂しそうで、悔しそうで、苦しそうで。

 けど、それ以上に。


 部員と語らいながら、楽しげで。

 努力や感性が認められたときは誇らしげで。

 幸せそうな表情や声だって、ずっと触れてきた。


「……希和の本当の気持ちなんて、分かんないけどさ。

 幸せな時間、合唱部の中でいっぱいあったんだって、俺は思うんだよ」


 練習の中で、謝罪をよく口にする奴だった。

 けどそれ以上に、毎日のように伝えてくれたお礼のことを、よく覚えている。

 他と比べてばかりで、図体の割に自信のない中村のことを、何かにつけて褒めてくれたことも、よく覚えている。


「あいつにとって良い先輩だったかは分からないけど、俺はあいつの先輩で良かったよ。だから、俺は歌おうと思う。あいつがやり残したこと、少しでも引き継ぐ」

「うん、私も同じ気持ち。頑張ろう?」

「ああ……自己満かもしれないけど」

「誰かの迷惑じゃなかったら自己満でもいいんじゃないかな、生きていくのは私たちなんだから」

「……図太くなったな、由那」

「君たちのおかげでね。さ、いこ」


 一緒に立ち上がる。

「この顔で戻っても平気かね?」

「別にそんな目立たないよ、バレはするだろうけど」

「じゃあいいや、あんまり待たせたくないし」


 並んで歩きながら、由那がぽつりと言う。

「ねえ直也くん」

「うん?」

「お尻にキックとかした方がいい?」

「いいわけねえだろ」

「だって陽子、君によくやってたじゃん」

「あの暴力性を見習うな」

「その暴力女子と付き合ってるの君じゃん、女子にお尻を蹴られるの好きなのかなって」

「それ肯定したら陽子にも怒られるだろ」

「ね。君が陽子に振り回されてるのを安全圏から見るの、結構好きなんだよね」

「趣味悪くなったなお前……」


 頭の悪い会話に、少しだけ調子が戻ってくる。


 部室に戻ると、心配そうな顔に出迎えられる。

「すみません、ちょっと泣かせてもらいました」

 紡が立ち上がり、答えた。

「私もさっきまで泣いてたので、おあいこです」

 泣き顔を見せ合って、二人して笑う。


 そして中村は姿勢を正して、紡に伝える。


「紡さん」

「はい」

「希和は俺にとっても、大好きな後輩でした。あいつがやり残したこと、一緒に叶えてくれませんか」

「はい、こちらこそ。皆さんの力を……そして希和くんとの思い出を、私に分けてください」


 紡と握手を交わして、その温度に気づく。


 希和はここにいる。人と人との間に、彼への想いでつながる瞬間に、きっといつまでも息づいている。


 息を吐きつつ、これからの段取りを考える。紡にサークルのことを教えるだけでなく、雪坂出身でない部員に希和のことを説明する必要もある。そもそも曲を作る流れとは、発表する場とは。今の合唱部にも声をかけるのか、希和と関わっていた卒業生たちも呼ぶのか。練習だって簡単じゃないし、経費とかも相当だぞ。

 ……相談することは山積みだし、余計な苦労が増えるのかもしれないけれど、やることだけは決まった。


「……よし、任せとけ希和」

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