#71 優しい子 / 飯田 孝子
「お父さん」
「うん?」
「昼間に来た子たちの話、していい?」
「……だな、聞くわ」
孝子が昌一の向かいに座ると、「お前も飲むか?」と聞かれた。
「焼酎よね……じゃあ水が多い水割りで、ちょっとだけ」
「それで味が分かるかって……まあいい」
昌一は瓶を持ってキッチンに行く。普段の料理はほとんどしないのに、酒と蕎麦と焼き肉は自分で仕切りたがる人だ。希和が一人暮らしで料理に慣れれば夫もやり出すかな、なんて孝子はつい最近まで考えていた。
水割りを受け取り、一口。
あの子、お酒の味も知らないで逝っちゃったね――そう言うのも怖くて、胸にしまった。
「で、どうだったんだ、その子たち」
昌一に訊かれ、記憶を振り返りながら孝子は答える。
「とても真面目に、あの子のこと考えてくれる子たちだったよ。お父さんが嫌ったり怒ったりする心配、ないはずだって私は思った」
昌一が詩葉と紡に会うのを避けた理由を、「若い女性に慣れてないから」と孝子は説明した。それも間違いではないが、本当は別だ。
彼女たちの希和への姿勢について、怒りをぶつけてしまうことを避けたのだ。
「まずは詩葉ちゃんだけど……やっぱり、希和に告白されて、ごめんなさいしたらしいの」
「そうか……」
昌一は希和の交友関係をほとんど知らない。しかし孝子は「希和が気になっている女子がいるらしい」と、詩葉のことを夫に話していた。娘の望美だって同じ勘を持っていた。
そして孝子は、希和は詩葉と付き合えなかっただろうと推測していた。本心を話したがらない息子だったけど、彼女ができればさすがに分かる。
とはいえ、希和が詩葉に宛てた手紙が見つかったことで、ただの友達以上であったことも、浅からぬ因縁があったかもしれないことも分かった。その時点で昌一は、「希和が振られた話を聞いたら怒りかねない」「俺みたいなおっさんが女の子に怒ったらマズい、俺は同席しない」と決めていたのだ。
「詩葉ちゃんはね、その……」
お父様にも伝えてください、と詩葉に言われていた。その決意を信じることにした。
「彼女、同性しか好きになれないらしいの。だから希和とは恋人になれないって、断ったんだって」
昌一は大きく息を吐く。
「……他の男に負けた、とかじゃなくて良かった」
「うん、それは私も」
孝子が、それ以上に昌一が憂いていたのはその可能性だ。希和じゃなくて他の男子を、という真相は……希和なら仕方ないかもしれないけど辛い、仕方ないと思えてしまうから辛い。
「けど希和は、同性愛のことも全力で応援していて、そのうえで好きだってことを……一緒にいてくれてありがとうって、これからも宜しくって、伝えたらしいの。そうしたら、詩葉ちゃんはね」
――だめだ、やっぱり、泣けて仕方ない。
昌一に背中をさすられる、こんなスキンシップが最近は増えた。その手のに支えられながら、孝子は言い直した。
「詩葉ちゃんはね。希和くんは、本当に格好いい男の子でしたって、好きになってくれた人がそんな人で良かったって言ってた……お世辞かもしれないけど、私は本心だと思った」
「お前がそう思ったなら正解なんだろ……俺には分かんないけどな」
「詩葉ちゃんの気持ちが?」
「希和の気持ちがだよ」
昌一はそれだけ言うと、「一服してくる」とベランダに出ていった。頭を冷やしたいのだろう。
昌一は高校までを野球に捧げた根っからの体育会系だ。高卒で地元のメーカーの営業部門に就職すると、根性強さと人付き合いの巧さでめきめき頭角を表していった。その評判は、事務で働いていた孝子もよく知っている。
だから分かる、昌一は負けず嫌いだ。競争を勝ち抜くことが男の本懐、それが信条だ。時代遅れな思考だとしても、彼が出世してくれたおかげで家計には余裕があったし、子供たちには自由に勉強させてあげられた。
その昌一にとって、惚れた女に振られたことを正解とした希和の感覚は、理解しがたいのかもしれない。勝負事を避ける癖のあった希和のことを、昌一はたびたび心配もしていた。優しいだけじゃ女は認めてくれない、食らいつく強さだって覚えないと大人になってから苦労するだろう――中学の頃までは希和に度々説教していた。
数分して、昌一が戻ってくる。臭わない、タバコは口実だったのだろう。
「それでもう一人……紬実さんだったか、彼女は?」
紬実については、あまり昌一に説明していない……というか、できていなかった。ネットに小説を投稿すること、そこで知り合った人と長期的に連絡を取り合うこと、どれも孝子には馴染みがなさすぎたからだ。
「あの……投稿サイトとか、そういうのは今もよく分からないんだけどね」
知識とか理屈じゃないところで、確かに分かったことを話す。
「紬実ちゃんは、本気であの子に惚れていてくれたよ」
「……会ったこともないのに、か?」
「会ったことも顔も知らないのに。あの子の小説を読んで、あの子の話を聞いて、一緒に悩んだり励まし合ったりして……希和の、希和らしいところを、本当に好きになってくれた」
他の人のことだったら、大げさだと思ったかもしれない。
けど孝子は、それを真実にしたかった。
「紬実ちゃんは、学校で辛いことがあったから希和を特別に思ったのかもだし、若さからの思い込みかもだけど……きっとね、ちゃんと会ったらね、もっとお互いのこと好きになれた。そんな人だって、私は信じられたよ。義理の娘に、なってくれた人だよ」
昌一はしばらく天を仰いでから。
「……そんなに好きだってこと、希和は知ってたのか」
「はっきりとは言えずじまいだった、みたい」
「あいつが生きてるうちに言ってほしかった、それは親の我が儘だよな、やっぱり」
「だとしても、私たちは言っていいじゃん」
紬実と会っていたとき、何度も喉元まで出かかっていた。気分次第では責めていたかもしれない。
なんであの子に伝えてくれなかったの、と。
ネット越しは危ないなんて知っているのに、娘がそんなこと言い出したら止めたのに。
紬実がそう伝えてくれただけで、どれだけ希和は救われただろうと、行き場のない願いが止まなかった。
「……それでも、それでも私はね。あの子のことをあんなに好きになってくれた紬実ちゃんに、精一杯応えたいの。あの子を育てたことにあんなに感謝してくれた人と、大事に付き合いたいの。
だから、あなたも会ってあげて。きっとあなたも気に入るから、本当に素敵で真面目な女の子だから……怒る心配なんか、しなくて大丈夫だから」
昌一はしばらく俯いて、やがて。
「二人とも、明日のコンクールは来るんだな……分かった、俺も行く」
「うん、ありがとう」
「……あいつの話、俺からもしていいかね」
「たくさん聞きたがっていたよ。きっと、私たちが死んだ後も、ずっと覚えてくれている」
これが生きがいになるのかな、漠然と思った。
他の誰よりも希和と過ごしてきた人間として、その記憶を誰かと分け合うことが。
誰かの中に生きている希和を、育ててあげることが。
何分の、何十分の一でも、あるはずだった希和の成長の代わりになるだろうか。
「希和が好きだった人と私たちが仲良くなったらさ、きっとあの子も喜ぶと思うの。だってあの子は、」
あの子は、他者を思いやれる優しい子だったから――そう言いかけて。
その優しさを、正しさを求めたあまり。母親としてそれらを求めさせたあまり、希和は自分を追い込んでしまったのではと思い至る。
背負わなくていい人の悲しみまで背負って、自分の願いを後回しにすることばかり考えて、ひたすら痛みを溜め込んでしまったのだろうか。もっと身勝手に、自分を優先して生きていいんだと教えるべきだったのだろうか。
――ねえ、希和。
お母さん、詩葉ちゃんと紬実ちゃんに、あなたと仲の良かった他の人たちに、甘えていいかな。
あの子たちが語るあなたの美しさが正解だって、信じていいかな。
そこにあなたの幸せがついていなくても、あなたを育てたご褒美にしていいかな。
届かない問いを抱えて震える肩を、夫の手がさすった。
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