#70 いつか、家族になれたはずの

 合唱部のコンクールの前日となる、七月下旬の土曜日。

 私は詩葉うたはと共に、希和まれかずの実家を訪れていた。希和との間にあったことを遺族にも伝えようと、二人で決めた。


「いらっしゃい、ありがとうね二人とも」

 五月にも会った希和の母、孝子たかこさん。元気とは言いがたいが、少しずつ活気を取り戻しているように見えた。

 そしてもう一人。

「初めまして、望美のぞみです……詩葉ちゃんはお久しぶり?」

「ええ、合唱部のイベントでちらっとお会いしましたよね」


 希和のお姉さん、望美さん。彼より二歳上で、普段は市外の看護専門学校に通っているという。弟とは正反対な、快活そうな雰囲気の女性だった。


「お父様はお仕事ですか?」

 詩葉が訊くと、孝子さんは笑って首を振った。

「休みなんだけどね。自分は若い女性と話すのには向いてないからって、どこか出かけてるの……元から、希和の学校のこともあまり知らないから」

 孝子さんの横から、望美さんも口を出す。

「けど、希和と仲が悪かったとかじゃないよ。ウチよりはよっぽど話してた」

「だって望美、全然お父さんと話さなかったじゃん」

「話合わないんだもん~!」

 何気ない会話だったが、望美さんなりに母に明るく寄り添おうとしているのだろうと思えた。


 しばらく近況について話した後、本題に入る。

「今日は希和くんのことについて、お話したいことがあります。良かったらお父様にもお伝えしてください。皆さんに伝えてほしいと、彼も書き遺していました」

 詩葉の声には緊張が滲んでいる……躊躇にも無理はない。自分が振った男子の話を、母と姉にするのだ。私はそっと詩葉の肩に手を置く――私の想いも伝える、だから安心して話して。


「希和くんは……」

「――詩葉ちゃんのことが好きだった?」


 詩葉が躊躇した隙を、孝子さんが埋める。先取りされて驚きつつも詩葉は頷いた。

「ええ……希和くんはご家族に話していましたか?」

「聞いてはなかったけど、母親にはバレバレだったかな」

「姉にもバレてましたよ~だ」


 親子で顔を見合わせて笑ってから、孝子さんは詩葉に訊く。

「あの子に告白されたけど振っちゃった、それか付き合ったけど別れちゃった……そういうのを謝りに来るのかなって、望美と話していたの」

「そうでしたか……告白されたけど、の方です」

「へえ、あいつも頑張ったじゃん。大丈夫、詩葉ちゃんが気にすることなんて一切ないからね」


 母と姉の反応を見ながら、彼女たちが希和をどう思っていたかに私も思い至る――この子は女子にモテないだろうと、ずっと昔から。

 隣の詩葉を伺うと、俯いて唇を噛みしめている。希和のぶんも怒られたいと――ここで怒られないと希和に申し訳ないとでも考えているのだろう。


 やがて詩葉は顔を上げる。

「お気遣いありがとうございます、けど謝りたいってだけじゃないんです。

 希和くんがどんなに優しい人だったか、それを聞いてもらいたいんです」


 そして詩葉は二人に伝える。自分がレズビアンであることも、希和とどんな関係だったかも。


「――だから希和くんは私にとって、大事な友達ってだけじゃないんです。心強い恩人なんです。ずっと私を支えてくれた人なんだって、ご家族にも伝えたいんです」


「……そっか。ありがとう詩葉ちゃん、」

 孝子さんにとっては、思いもよらない話だったようだ。驚きつつも、正面から向き合おうとしている。

「私ね、ただあの子が……格好よくないから、振られちゃったんだと思ってたの」

 孝子さんが言い終わらないうちに、詩葉は首を横に振りだす。

「本当に格好いい人なんです、私にとって。高校で出会ったのが、好きになってくれた男の子がそんな人で、私は本当に幸せでした」

 詩葉はずっと、希和へ向けられるマイナスの評価と戦ってきたのだろう。女子だけしかいない場でこそ沸きがちな、あけすけなそれらと。


「希和が高二のときの、ゴスペルのライブがあったじゃない? あのときに詩葉ちゃんと撮った写真見て、ほんとにビックリしたの。あの子、こんなにいい笑顔するんだって」

 孝子さんの言葉に、詩葉の肩が跳ねる。詩葉はバッグを探ると、ビニールに入った写真を机に出した。


「こちら、ですよね」

「そうそう……あの子はどこかにやったのか、整理しても出てこなかったんだけど」

「ほんとだ、あいつ写真映り大体悪いのに……良かったじゃんお母さん、こういう写真も残ってて」

 望美さんが私にも差し出してくれる。大きめに息を吸ってから、その写真を手に取った。


「――――っ、」


 危うく叫びそうだった。

 ライブ衣装に身を包み、肩を寄せ合って――詩葉が希和に寄りかかって、笑う二人。

 不器用そうに笑みを浮かべていた遺影より、よほど柔らかく眩しく笑う希和。詩葉の隣がどれだけ幸せだったか、否応なしに分からされる。


 私の動揺をよそに、孝子さんは続ける。

「この写真で分かったの、あの子は本当に大好きになれる人と出会えたんだって。たとえお付き合いになれなくても、自分を変えられるような出会いができたんだって。けど、」

 少し目を伏せて、孝子さんは付け足す。

「ちょっとだけ、ちょっとだけね。あの子が詩葉ちゃんをうちに連れてきてくれたら嬉しいなって、思っちゃったんだけどね」


 表情を曇らせた詩葉をフォローするように、望美さんが話し出す。

「希和、頭は良かったからさ……流行には疎い代わりに、新しい知識とかには詳しかったんだよ。時事ネタとか雑学とか、二歳上のウチなんかすぐに追い越されるくらいに……お母さんもたまにビックリしてたよね」

 姉にとってはコンプレックスでもあった、そんな口ぶりだった。

「ウチは詳しくないんだけど。同性愛とかに気づいて応援するの、これから必要になるみたいじゃん。希和がただモテなかっただけじゃなくて、そういう新しい時代の優しさを持てていたなら、ウチは嬉しいよ」


 望美さんの言葉を詩葉が肯定する、その気配を感じながら。

「――そうじゃない、と思います」

 私は口を挟まずにはいられなかった。

「希和くんが詩葉の恋を応援できたことに、世間とか時代とか関係ない……と私は思います。和くんは周りの声に関係なく、大切な人がその人らしく生きられることを優先できる人です。それは和くん自身の優しさです」


 どうしてそれを強調したかったのか、自分ではっきりとは分からない。

 ただ、私にとっての希和の姿を、どうしても伝えたかった。


「紬実ちゃんは。本当に希和のことを買ってくれているのね」

 孝子さんの目が潤む――そうだ、次は私が言う番だ。


「私は、そんな希和くんのことが大好きです。顔を合わせたこともないのに、恋しています……結婚できたらいいって、本気で思っていました。

 なのに、ずっと言えなくて。彼に寂しい思いをさせて、申し訳ないです」


 頭を下げた私の肩に、孝子さんが触れる。

「初めて会いに来てくれたときにね。もしかしたら、こんな賢そうな子が希和と一緒になってくれたのかなって、けど親バカすぎる解釈よねって思ってたの。だから嬉しいの、謝らないでほしいの」


 顔を上げる。泣き笑いの孝子さんと、少しだけ希和と似た眼差しと見つめ合う。


「あの子はあの子らしいままで、あなたと幸せになれたのかな」

「私はなれました。和くんもそうだったと、今の私は信じています」

「……私が、母親が、あの子を。もっと格好よくて逞しい男の子にしてあげたかったなんて、悩む必要なかったのかな」

「悩むなんて……誇ってほしかったです、お母様には」


 孝子さんの。大好きな人のお母さんの顔を、やっぱりまっすぐには見られない。

 希和を十八年間、産んで、育てて、愛してきた重みは――望んでは諦めてきた重みは、正面から見つめるには痛すぎる。

 それでも、私に伝えようとしてくれるなら。


「希和はね。賢くて優しい子だったけど、人より苦手なことが多い子だったの。

 人と上手に付き合うこともできなくて、自分の世界に入っちゃう癖がついてて。中学くらいからは馴染めるようになってきたけど、やっぱり……どこかで、育て方を間違えちゃったかなとか、もっと親として出来ることあったのかなとか、考えちゃった」


 そっと。孝子さんの指が、私の手に触れる。


「だからね。あなたがあの子を好きになってくれたこと、あの子があなたの支えになれたこと、とても嬉しい。もう叶わなくても、あの子にそんな幸せな未来があったことは、母親にとっても幸せなことです……だからありがとう。私は、紬実ちゃんに救われたよ」


「私こそ、ありがとうございます。希和くんをこの生み育ててくださったことに、私は一生ぶんの感謝を捧げます……お父様にも、そうお伝えください」


 孝子さんは何度も頷きながら涙をこぼす。彼女の背をさすりながら、望美さんは笑いかけてくれた。


「ありがとうね、紬実ちゃん。ウチの分まで、希和のこと好きになってくれて。

 ……きっとお似合いの二人になったはずだよ、姉として自信を持って言えます」



 飯田家で昼食をご馳走になった後、詩葉と共に信野のぶの市立大学へ向かう。希和たち合唱部員とも共演したゴスペルサークルのメンバーに会うことになっていたのだ。希和が私に託してくれた作詞について、彼らにも話しておかなければいけない。


「大丈夫だよ。私にとっては馴染みの先輩たちだから」

 詩葉に言われる、私が緊張して見えたのだろうか。

「うん、そんな心配はしてないよ……ただ、考えちゃうんだよ」

「何を?」

「私がやってることは、和くんが亡くなった痛みを刺激することなのかって……そっとしておいた方が良いかも、とか」


 孝子さんは感謝してくれたけど。

 希和の未来が幸せなものだったと伝えることは、幸せだったはずの未来が喪われた苦しみを鮮明にしかねない。故人の名誉のためとはいえ、距離の取り方には注意だって必要であろうことに、今さら気づいたのだ。


「そうかもしれない、けどね。

 私はまれくんの、悲しげな顔ばっかり思い出しちゃうんだよ。楽しかった思い出だってたくさんあるのに、本当に幸せでいてくれたのかなって後悔ばかりしちゃう。

 だから、他の人がまれくんを好きだったことを聞きたいの。生きていればもっと幸せになれた人なんだって確かめたい……自分が楽になりたいっていう自己満足だとしてもさ」


 左手に詩葉が触れる。分け合った体温と一緒に、耳を揺らす蝉の声と、首筋の汗が気にかかる。

「……暑いね?」

 私が呟くと、詩葉も笑いながら頷く。私の手がきゅっと握られて、すぐ離れる。

「あったかいけどね、やっぱり暑いね」


 また歩き出す。

「それにね。自分が死んじゃった後、忘れられていくのが怖いんだよ……私は怖い、きっとみんなもそう」

 詩葉の声は、空を向いていた。

「だから、まれくんとの思い出を繋げることは、自分の今を支えることでもあるんだ。誰かを想って生きていけたら、もし突然死んじゃっても、誰かの中で生きられるんだって」


「……和くんもそう言うだろうね。小説でそんな話も書いていたし」

 希和が主人公の死を描いたのは、失恋の代償というだけでなく、自身の死への保険でもあったのかもしれない。今となっては、よくできた予言にすら思える。


 けど、そんな予言なんて当たらないで良かった。

 あれこれ悩んで心配した挙げ句、拍子抜けするくらいまっすぐに幸せになれたよね――なんて笑い合える季節が、本当にすぐそこだったのだから。


 創作は創作のままで良かった、込められた痛みなんて過去になっていけば良かった。


 けど、今が締め付けられるなら、遺された物語の意味が浮き彫りになるなら。


「紡、気分悪い?」

「平気だよ。行こう、私も早く皆さんに会いたい」

 

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